Business & Economic Review 1996年07月号
【シンポジウム】
地方主権の時代-地方分権と首都機能移転をどう進めるか
1996年06月25日
I.シンポジウムの趣旨
日本総合研究所では、96年5月13日東京経団連会館において「地方主権の時代~地方分権と首都機能移転をどう進めるか」と題するシンポジウムを開催した。基調講演者として梶原拓岐阜県知事を、パネリストとして地方行政や法律、経済政策、地域産業振興等の専門家を招き、地方分権の道筋について多面的な議論を行った。地方自治体や地方金融機関、研究者等を中心に250名ほどの参加者があり、本テーマへの関心の高さを窺わせた。 当日は基調講演とパネルディスカッションの2部に分けて行われ、その概要は以下の通りである。(具体的な発言は後述)。
(基調講演者及びコメンテーター)
梶原拓岐阜県知事
(パネリスト)
黒川和美 法政大学 経済学部教授
坂田期雄 東洋大学 法学部教授
並河信乃 行革国民会議理事兼事務局長
吉田敬一 東洋大学 経済学部教授 (司会)
海野 恒男(株)日本総合研究所 副理事長
II.概要
(1)基調講演
地方行政の現場においても政治、行政、経済など、すべての面で閉塞感は強く、規制緩和や地方分権は急務であるが、遅々として進まない。首都機能移転もセットで断行し、世紀末の現状を打破する必要がある。
福祉分野でも、北欧のように納税者意識と地方分権、市民参加の3つが並立すべきであるが、わが国では国が画一的な補助基準をつくり、全国一律にその遵守を自治体が強いられるため、受け手のニーズに反する事例が多々ある。教育分野においても、画一的な設置基準のため、先端分野に関する自由な研究の要請に柔軟に対応できない。
自治体は、住民のニーズに応えるため様々な先駆的試みを行っているが、現行システムの下では先駆性は圧殺され、ましてや参加型分権は不可能な状況である。しかし、参加なくして責任感は生まれず、経済的な非効率が引き起こされる。より深刻な問題は、責任感の不在によって民主主義の揺籃といわれる地方自治が育たないことである。
従来の中央集権システムは、工業国家、経済大国に向けての欧米諸国へのキャッチアップ過程では極めて有効であった。しかし、情報国家、生活大国をめざす現在、もはや教科書はなく現場に学ぶしかない。スポット(現場)、スピード、ソフトの3Sに留意した現場感覚あふれる敏速かつ柔軟な対応が不可欠である。
岐阜県1県だけでも、人口、経済規模は海外の一国に相当する水準であり、自治体は国際感覚・自立意識を持てるようにすることが望ましい。規模の経済を追求する時代は過ぎ、今や情報社会では範囲の経済(スコープメリット)が生産性を高める。地方自治体は、多様な情報や人の交錯によって情報価値の生産を促すシステムを自らつくり、地域の生産性を高めて自立的に発展するよう努力すべきである。
地域の自立的発展を阻害している旧来の牢固たるシステムをつくり替えるためには、「船を乗り換える」必要があり、地方分権や規制緩和と一体的に「新しい船づくり」=首都機能移転を進めるべきである。
(2)パネルディスカッション
パネルディスカッションは、(1)地方主権をいかに進めるか、(2)地方主権と首都機能移転の関連をテーマに、各パネリストがテーマについてプレゼンテーションを行った後、梶原知事のコメント、ディスカッションが行われた。共通認識として、地方主権を進めるためには、(1)中央における活動だけでなく、地方自治体とりわけ市町村の意欲が重要である、(2)中央省庁の抵抗を排して分権を実現するには、政治のリーダーシップが極めて重要である、などの点が確認された。
黒川教授は、(1)集権から分権へのパラダイム・シフトのなか、住民の横並び志向が大きな障害である、(2)地方自治体や住民が、独自の問題解決やサービスの提供を積極的に受け入れ楽しむ状態こそ、分権化された地方の「あるべき姿」であり、そのようなシステムの方が社会的効率性も高い、と指摘した。坂田教授は、地方分権推進委員会の中間報告について、(1)制度論に偏らず、補助金等財源面に踏み込む必要がある、(2)中央における議論に終始せず、地方自治体とりわけ市町村の参加を促す必要がある、(3)中央官庁、族議員の抵抗を排するには、政治の強いリーダーシップが必要である、等の問題点を挙げた。並河氏は(1)意欲的な地方自治体は種々の実験を行い、分権の橋頭堡を確保すべきである、(2)中央の官僚をして分権を認めさせるのは政治のリーダーシップであり、自治体の首長も分権基本法の制定等を目指して政治力を発揮すべきである、と述べた。吉田教授は(1)地方は固有の事情を踏まえたオリジナリティあふれる産業集積を育成するため、自ら開発メニューを作成すべきである、(2)メニュー作成の過程で地方自ら問題点を見いだし、中央と調整しつつ解決していくことが地域主権の条件である、と指摘した。梶原知事は、(1)地方の自立が重要であり、実験やオリジナリティあふれる地域づくりを通じて、東京優位の価値観から脱却する、(2)マルチメディアや実地の生活体験を通じて、情報とくに外国の知見を積極的に取り入れ、意識改革を図る、ことの重要性に言及した。
首都機能移転と地方主権との関連については、首都機能移転問題は地方分権、規制緩和と一体化して進めるべきとの点で一致した。さらに、吉田教授は、首都機能移転問題と各地域における自治のための主体形成との関連の重要性を、並河氏は首都機能移転と国土構造全体の組み替えの関連の重要性を指摘した。また、坂田教授は財政再建や国土全体の均衡ある発展を視野に置きつつ、首都機能移転問題に関して十分な議論を尽くす必要性を、黒川教授は新しいタイプの都市基盤と国際的な機能を果たしうる新首都を長期的に建設する必要性を主張した。
III.基調講演
岐阜知事 梶原 拓 氏
地方の現場でも政治、行政、経済すべての面で常々閉塞感を感じており、規制緩和や地方分権が急務であるが、遅々として進まない。首都機能移転もセットで断行して、地方主権を実現し、大きく日本を変える必要がある。様々な行政分野の実例に即して、その必要性を説明しようと思う。
第一に、国民に納得できるかたちで税金を集めつつ、高齢化社会に対応した福祉を提供することが、当面、日本の最大の課題である。一昨年、北欧諸国デンマーク、スウェーデンを視察したが、これらの国々では消費税相当の税率が25%と高率にもかかわらず、福祉目的であればさらなる税負担を容認する声が高い。これを聞いて、当初大変意外に感じたが、それなりの理由があってのことであった。
福祉関連の権限は自治体、及びその出先機関である現場に委ねられている。首都ストックホルムでさえ、市役所本庁の職員は非常に少なかったが、これは出先に権限を委任しつつ市民参加で運営を進めているからである。痴呆性老人のグループホームなど福祉の現場に行くと、市民による委員会がホームの規模などについて試行錯誤を重ねつつ、地域福祉のあり方を改善している。福祉先進国と言われている北欧ですら、依然として市民と共に福祉のあり方を模索し続けている。
現在、北欧はいわゆる施設収容型の福祉ではなく、各人の自立へ向けたノーマライゼーションを目指している。わがくにの特別養護老人ホームに当たる痴呆性老人のグループホームの場合、従来は施設へ収容、完全介護していたシステムを変更し、入所者に表札を持つ個室を与えて独立の住宅とし、廊下を公道とみなしている。さらに、各入所者を独立した家計とみなして電気代やガス代等を徴収しつつ、別途助成を行うなど、自立意識を植えつけるための努力が随所にみられる。かつての完全収容型の施設の場合、入所者はある意味で過保護に扱われていたが、自立を促す介護を受けることにより、痴呆性が改善に向かった例も多いという。また、施設運営もについても、入札に応募した看護婦の組合が自己責任で運営に当たっている。組合のリーダーによれば、「施設での勤務経験を通じて運営の実態に触れ、我々が運営に当たれば安価で充実したサービスが提供可能と考えたので、独立の組合を結成し入札に応じた。現在は、いろいろと創意工夫しつつ運営に当たっている」とのことである。
北欧の福祉のあり方を見るにつけ、納税者意識と地方分権と市民参加という3点セットで、問題に当たる必要性を痛感している。福祉の強化を図る場合、消費税と福祉の充実の間の関連性が市民の目に見えない限り、単に消費税を上げるのでは、なかなか国民の納得は得られない。福祉ひとつ取っても、地方分権は当然に進めなければならない。
わが国では、政府が福祉に関する画一的な基準をつくり、自ら財源を集中し、補助金を通じてその遵守を自治体が強いられる。財源を中央政府に握られているため、我々自治体は可能な限り基準に従い、補助金を得ようとするが、国の基準は全国一律であるため、地域の現場に合わないケースが多々ある。
例えば、国の求める老人福祉施設の規模が大きいため、住み慣れた身近な環境で一生を全うしたいという高齢者の希望に沿えない結果が生じる。規模の利益を追求し複数地域をカバーする施設を建設することが、果たして利用者の幸せに結びつくのか。施設運営の効率性を満たすのであれば、特別養護老人ホームとショートステイ、デイサービスセンター、場合によっては保育所などを一体的に運営すれば足りる。むしろ、幼児と高齢者が共同生活を営むことで、高齢者が活性化する一方、幼児は最近得難くなった高齢者とのふれあいを肌で感じることができる。このように、現場に立てば、多様な機能を一体的に活用し、総合性や複合性、相乗効果を発揮させることが可能である。地域ごとの立案、実行が成功の鍵であり、霞が関や永田町で全国一律に施策を考えても実効性は薄い。
明治以来、日本は欧米列強諸国にキャッチアップするため、東京一極集中の下で欧米の文物、システムを輸入、翻訳したうえ、全国的に国策として施行し、効率のいい工業国家、経済大国をつくってきた。しかし、情報国家あるいは生活大国づくりに国の目標が転じた現在、もはや「国定教科書」は機能しない。学ぶべきは現場のニーズのみであり、地域ごとに千差万別の対応が求められている。
寝たきり老人を例にとると、美濃と飛騨では住宅規模、家族の同居の状況等が異なり、岐阜県内ですら画一的な対応は不可能である。しかし、現在の一極集中システムでは、国全体を画一的に律しようとするので問題が生じる。地方自治体は地域の独自性を生かしつつ老人福祉対策の新機軸を打ち出そうと、マルチメディアの活用など国よりもはるかに先駆的な試みに向けた努力をしている。しかし、このような先駆性は現在の体制の下では圧殺される。ましてや参加型行政はなかなか難しい。
参加型行政を目指して独自の施策を打ち出しても、国の基準が壁になるようでは、市民の間に参加の意欲や責任感が湧かない。地方の側に責任感が湧かず、自己責任原則が未確立な間はコスト削減努力も行われないので、経済性が確保されない。国民経済的にみると、資源配分のうえで大きなロスがあり、大変な非効率が生じている。さらに、責任感が不在なために地方自治の精神、ひいては真の民主主義が育たないという重要な問題もある。
余談になるが、岐阜県は地域住民の安全を守る必要上、長良川河口堰の建設をバックアップしているが、大都市で環境保護を唱える市民グループは本事業に対して反対運動を続けてきた。地元の事情が中央に伝わりにくいこともあり、市民グループの意見に動かされて建設大臣が河口堰事業の休止を提案したことがあるが、これに対して私は大臣の河川管理権を知事に返還するよう求める公文書を提出し、大臣の怒りを買った。河川管理権の返還要求は、地域外の住民がリードする市民グループの意向を尊重し、肝心の当事者である地域住民の声を無視した大臣の裁量への異議申立てであり、憲法で保障されている住民自治、地方自治、民主主義を守る立場から当然の措置である。
規制緩和や地方分権を進めなければわが国の行き詰まりは打開できない。単に地方の利益を図るためではなく日本全体の利益のためにも変革が必要である。教育制度を例に取ると、高等教育機関設置基準が細かすぎて、新たな教育ニーズに対処しようとしても思うに任せないと聞く。先進諸国の中で、日本は教育に関する中央政府の統制が最も厳しいようである。岐阜県では今年国際情報科学芸術アカデミーを大垣市に開校した。本校は大学でも大学院でもない県立の専修学校であり、我々は地方自治型自由学校システムと称している。何ら上からの関与なしに、先生も生徒も自由に情報の科学芸術の研究・学習を行うシステムを採用した。おかげで大学院や大学を卒業したすばらしい人材が集まり、すでに本校は情報のエリートづくりで全国レベルを超えつつある。このように、教育に関しても地方に任せた方が良い面はたくさんある。現行システムの下では、国の予算制度に拘束され自由な研究を行えなず、マルチメディア等先端分野の研究に遅れをとる結果となる。また、広く人材養成の問題を考えると、企業の側は学校歴は不問、明るく積極的かつ創造力ある人材を求めているが、教育現場では依然として画一的なカリキュラムに則った進学競争が続いており、人材ニーズのミスマッチが生じている。
かつては中央政府が日本全体の牽引車であったが、このままでは地方が走ろうとする場合の重荷になり、逆に地方が中央政府を牽引しなければいけないことになってしまう。明治以来の牢固たるシステムを打破し、現場感覚あるいは現場の視点で、生活者の視点で問題を考えなければいけない。私は、現場(spot)とスピードとソフトの「3つのS」をモットーに、現場感覚で敏速かつ柔軟に県政に対応するよう努めているが、企業にとっても「3S」は極めて重要な旨を、ある財界人から伺った。このように、3Sは情報国家、生活大国づくりの基本的な要請として、すべての分野で求められているが、現在の中央政府はこれに対応できる体制になっていない。
日本全国でみた岐阜県のGNPは21番目であるが、世界的にみるとフィリピン、ニュージーランド、シンガポール、ギリシャ、イスラエル、ポルトガル等とほぼ同程度の経済規模であり、人口や面積ではジャマイカ等とさして変わらない。このように岐阜県は一自治体ではあるものの、国際社会のなかで比較すれば堂々たる一国に相当する存在である。しかし、日本ではこのように自治体が成長しているにもかかわらず、中央政府がほぼすべての権限を把握している。これほどの経済力を持つ多くの組織の権限を一点に集中しているケースは他の先進諸国にはなく、国際的にみても、日本政府には桁はずれに巨大な権限が集中している。
確かに、従来の規模の利益の時代に工業国家・経済大国づくりを目標にする限り、一極集中の方が効率的であった。しかし、情報国家あるいは生活大国づくりにおいては、スケールメリットではなくてスコープメリット、範囲の経済が意味を持つ。範囲の経済とは、多種多様な情報や人が交錯し、情報の生産性が高まる状況を表す。逆に、かつての均質な社会で重んじられた同規格の製品をそろえても付加価値は生まれず、今後は多種多様な情報と人が交錯する場、すなわち「情場(じょうじょう)」を構築しなければならない。農業社会は農場、工業社会は工場、情報社会は情場が生産価値の生産現場である。岐阜県は交流・連帯・創造をキーワードに、情報価値生産のシステムづくりを進めている。
ここで、首都機能移転の問題に言及したい。国会等の移転にかかわる法律もすでに立案され、新首都の候補地が検討課題に上るなど、首都機能移転問題は次第に具体化しつつある。首都機能移転は地方分権、規制緩和と一体的に、いわば3点セットで進めなければいけない。数年来、地方分権や規制緩和が進められているが、なかなか実効が挙がっていない。やはり、権限の根底である首都を移転しなければ事態の打開は難しく、言うなれば「船を乗り換える」必要がある。新しい船を用意し、政治・行政機構が乗り移る際には、旧態依然たる大量の荷物(=機能)を整理させる必要がある。400年前に江戸幕府が、その400年前に鎌倉幕府が、さらにその400年前に平安京が創設されたように、わがくにではほぼ400年ごとに「世直し」がある。現在はその時期に当たっており、歴史的な澱をことごとく落として新天地を開くことが首都機能移転の意義であると思う。
その意味では、東京周辺に首都を移転してもショック療法にならず、東京の影響圏から脱出する必要がある。ただし、高齢化社会を迎えて国民経済的な負担を考えると、首都に往来するのに必要なトータルコストを抑制する必要があり、日本における人口、あるいは交通の中心という観点を踏まえて新首都の所在地を決めることが必要である。また、世界における日本の首都像を考えると、国際化の進展によって外国人の往来が増えるなか、日本独自の街並みづくりが望ましい。現在の東京は欧米の亜流で、決して日本固有の街ではない。新首都は外来者に魅力を与え、伝統文化に接しやすい日本らしい街でなければならない。また、新首都建設のために何千ヘクタールにも及ぶ緑地をつぶしてはならず、可能な限り既存の街や施設を活用すべきであろう。
我田引水は避けたいが、岐阜県が現在、新首都の対象に考えている東濃地域はこれらの条件に極めてよく適合する。岐阜県の東部に位置する東濃地域には、すでに中央新幹線計画が策定されており、完成時には東京、大阪までそれぞれ30分で到達可能という日本の真ん中に当たる。また、東濃地域にはゴルフ場が60か所あり、7500ヘクタールを占めている。岐阜県では、非公式ではあるが、ゴルフ場を削って国会議事堂や最高裁判所等を建設することを提案し、関係方面に協力を要請し、すでに好意的な返答も得ている。このように、岐阜県らしいユニークな首都づくりを目指し、現在、インターネットのホームページ(http://www.softopia.pref.gifu.jp)に情報を掲示し、提案を求めている。江戸開府以来400年目の節目を迎え、岐阜県あるいはそれ以上に好条件の地域に首都を移し、人心一新によって新たな日本を建設しなければ、国家存亡ともいうべき大変な事態を招きかねない。アジア諸国から、次第に「尊敬されない日本」という定評を得つつあるという残念な事態をみるにつけ、日本国内だけでなく広く世界にも目を向け、真剣に地方分権、首都機能移転を考えていかなければいけない。
IV.パネルディスカッション
1.地方分権の進め方
海野:
まず、地方分権をいかに進めるかについて、各パネラーの意見を伺いたい。
黒川:
最近、地方分権を考える際、行政側の限界にも増してサービスの受け手である住民側の限界を感じる。一例をあげると、東京都主催のシンポジウムで、私が各自治体が多様なサービスを提供する仕組みを提案したところ、他と同じサービスを求める声が極めて強かった。むしろ、他と違うサービスに不安を感じる向きが多く、分権を取り上げたシンポジウムの趣旨と相容れない結果となった。 権限を少しずつ地方へ降ろすだけで、真に魅力的なあるべき姿の地方が可能となるかについてはやや疑問を感じている。JRR5月号の日本総研「地方主権検討会」の提言にあるように、15年間で分権を実現するとしても、初めの5年間と後の10年間で改革の内容を変えるべきと考えている。本格的な改革の時期は6年目の2000年以降となるが、その場合、中心となる措置は、課税権を含めた自主財源を地方へ移譲することである。 それ以前の5年間は準備期間であり、長期的な展望に立って「地方主権」を唱え、「本来権限は地方の側が持つべきだが、現在は中央が過剰な権限を掌握している」という認識を定着させていく。「地方分権」では、中央の権限を地方へ分け与えるイメージとなり、中央の発想を出ていない。完全なパラダイム・シフトが必要であり、梶原知事の言われたように、「船を乗り換える」べきである。乗り換え方について複数のシナリオが描けるが、JRR5月号に掲載された我々の論文や提言もそのひとつである。 私が最初の数年間に是非実現すべきと考えている点は、住民が地域によって異なるサービスに魅力を感じ、これを積極的に受け入れる素地を作ることである。いわば「分権インセンティブ」を住民に提供する必要があり、具体的には、(1)異なるサービスが選択可能な状態を、住民が望ましいと感ずる、(2)供給側である地方自治体が、多様な選択肢の提示を厄介視せず、サービス内容に関して他の自治体と差別化を図る、の両面からインセンティブが働くことが望ましい。 高齢化社会の到来によって、求められるサービスは多様化しよう。今後、各地域が異なる内容のサービスを提供し、受け手も送り手も選択が可能な状態に魅力を感じ、選択を面白いと思うプロセスを構築しなければならない。そのためには、(1)規制を緩和し、各地方の自由な試みを可能とする環境を整備する、(2)地域が投資を行う際の起債を自由化し、事業の遂行について、地域に一定の枠内でフリーハンドを付与する、等の措置が必要である。これらが実現して初めて、地方自身が税源を選び、課税権を持つ段階へと進むことができる。 要約すると、大きなパラダイム・シフトが進みつつあり、その一環として地方分権を考える必要があるが、現在は国民の横並び意識が障害になっている。サービスの受け手も送り手も、共に選択を面白いと思う感覚を育てなければならない。岐阜県で行われているような多様な取り組みが全国で展開されれば、地方主権が実現するのではないか。
坂田:
3月末に公表された地方分権推進委員会の中間報告を踏まえて、地方分権の実現可能性について述べたい。 分権推進委員会の中間報告は大変な労作であり、各省庁の反対に屈さず思い切った内容が盛り込まれた点を高く評価したい。しかし、問題点や課題は依然残されており、3点指摘したい。 第一に、中間報告は機関委任事務等の制度論を主に取り上げているが、地方が中央に縛られている真の要因は、国庫補助金による財政面の制約である。ここにメスを入れなければ、実態は変わらない。地方自治経営学会が昨年行ったアンケートによれば、57%の地方自治体が中央から制約を受ける原因として国庫補助金を挙げているのに対し、機関委任事務を挙げた自治体は十数%である。機関委任事務自体は極めて問題のある制度であり、撤廃が望ましいが、それだけに分権のエネルギーを集中してはならない。 東京大学の神野教授は「地方を縛るのは北風と太陽である」として、許認可権を北風に国庫補助金を太陽になぞらえている。国庫補助金は、地方にとって極めて好都合な資金であり、事業を行う場合、国庫補助金の認可さえ得れば、総費用の2~3割を負担するだけで事業が実現する。誠に魅力的な存在であり、地方はこの獲得に奔走する結果、地方は知らす知らずのうちに、中央の制約を受けるようになる。 この問題に関連して、自主財源を強化する必要性が長年言われている。地方6団体でも、国庫補助金の整理縮小、自主財源の増強を求める決議を度々行っているが、現実には補助金を求める陳情が一向に減少しない。総論と各論の間に大きなずれがあり、今後は、各論いわば本音のレベルで地方の実情に即した改革が望まれる。 第二に、今回の議論は、中央でこそ盛り上がりをみせているものの、地方とくに市町村では関心が低い。ましてや地域住民は無関心であり、このような状況では地方分権の実現はなかなか難しい。地方分権推進委員会は、分権の対象としてまず都道府県を想定しており、市町村を軽視しているようである。十数年前の「ふるさと創生1億円事業」の際、自治省は市町村を主役として尊重し、バックアップする姿勢をみせた。これを機に、かつては末端行政であった市町村が先端となり、「街づくりの知恵とアイディアは市町村から生まれる」といわれるまでに成長したが、今回、再び末端扱いされているため、分権論に対する市町村の関心は低い。税財源問題等を中心に議論が本格化する今秋に向け、中央だけで議論するのではなく市町村の活用が必要である。欧米の例にみる通り、分権は地方が中央から獲得するものである。日本では、中央から与えられるのを地方が待つ状態であり、このままでは地方主権の実現は心許ない。 第三に、委員会や審議会の答申の形で計画を述べるだけでは分権は進まない。最大の課題は如何に実行に移すかである。戦後50年、地方分権の必要性が言われつつも、一向に前進しないのは何故か。 中央省庁の抵抗は周知であり、今回の地方分権推進委員会の中間報告も、相当な抵抗を押し切って公表されたといわれる。秋に向けて中央省庁といわゆる族議員が一体となって、さらなる抵抗を行うものと予想される。地方分権を求める国会決議がいい例であるが、議員は総論では分権に賛成するものの、各論では一斉に反対する。新聞報道によると、橋本総理が分権推進委員会について「各省庁と相談のうえ、実現可能性の高いプランを求める」と発言したと伝えられ、関係者を驚かし、分権の将来を不安視する声が強まっている。 政治の強いリーダーシップによって、政治家が各省庁を押さえ込まなければ、分権は進まない。最終的には、やはり、住民自身のエネルギーに期待するしか分権を進める方途はないのではないか。
並河:
1990年に、行革国民会議から「地方主権の提唱」というパンフレットを発行した時には、「国家主権概念に対する理解が乏しい」等厳しい批判にさらされた。しかし、現在、「地方主権」という用語は政治的なスローガンとしてかなりの市民権を得つつある。 問題は、地方主権を如何に実現するかである。閉塞状況の打破のため、地方分権が必要である。とはいえ、妙手が見出せないからこそ閉塞状況なのであり、なかなか容易な業ではないが、打開策として以下が考えられる。 地方主権は、まさにそっ啄同時(雛鳥が孵化する際、卵の内から殻を破ろうとするのと同時に外から親鳥が殻をつついて壊すこと。内と外からの動作のタイミングが一致しないと孵化に至らないことから、関係者の絶妙な呼吸を指す)が不可欠な事業である。すなわち、中央からの分権の動きと地方からの権限要求の動きが一体化しなくてはならず、その際、以下の2点を押さえるべきである。 第一に、地方が中央省庁との多少の軋轢を覚悟して、種々の実験を行う必要性である。実験を繰り返すことで分権へ向けた橋頭堡が確保される。川崎市や高知県の国籍条項撤廃の動きのように、自治体側に実験の機運が出ているのは明るい兆しである。我々が第3次行革審の際に提案したパイロット自治体は、実験の失敗例のようにいわれ、残念に思っているが、我々からみると、意欲的な自治体が少なかったため中央省庁に見透かされた部分もある。パイロット自治体が制度的に問題の多い仕組みであることは事実であるが、地方サイドの意欲が中央への圧力として作用しなければ、もとより成功はおぼつかないのである。 現実問題として、3400近い全自治体が意欲的に実験に取り組むとは考えられない。旧態依然たる休眠自治体を無理に競争的な環境にさらす必要はないが、休眠自治体につきあわせるため、意欲的な自治体の活動までも制約する現在のシステムはおかしい。自由を要求する自治体には自由を、保護を要求する自治体には保護を提供するシステムが必要であり、今後の地方行政は選択可能な2つの路線によるダブルトラック方式が望ましい。「法の下の平等」との関連など難しい問題があることは承知しているが、パイロット自治体はダブルトラックの発想に基づくプランであり、この種の構想を練り直す必要があると思う。 第二に、中央側の分権の動きに関する問題である。地方分権推進委員会の中間報告に対して、税財源の問題を先送りしているにもかかわらず、各中央省庁から強硬な反論が寄せられている。それらを読むと、私は第3次行革審の際に味わった深い疲労感を思い出す。中央省庁の主張は現行制度を改革する必要も意欲も認めないということに尽きており、現在の議論はそのような官僚の反論と分権推進委員会の中間報告との折り合いを如何につけるかをめぐるものである。 そのようなやり方で果たして分権は進むのか。中央の官僚に仕事のやり方を変えることを覚悟させない限り、議論は進まない。これを実現するのはやはり政治の力であり、中央の意識改革を促すような全体のフレームワークの変化こそ、そっ啄同時をもたらす。中央と地方は相関関係にあり、中央の変化が地方の活力を呼び起こす以上、中央を政治が変える、あるいは政治自身に分権への動機づけを行う必要がある。
吉田:
中小企業論、地域産業論の立場から、地域産業振興の現場におけるビジョンづくりに地方分権が持つ重要性、及び分権実現への道筋について述べたい。 現時点における地域経済の自立的展開は、日本経済が高度化を遂げるなかで担ってきた役割と全く異なる。従来のキャッチアップ型の経済構造における基本的な行動原理は、欧米に倣った豊かな社会を日本で実現するため、国内で産業上のナショナル・ミニマムを達成することであった。当然中央集権的な、効率最優先の方式が採られ、日本全土を展望した各種施設・インフラの最適立地や、産業政策が展開された。 しかし、キャッチアップ過程を終了し、尊敬される経済大国を目指すフロントランナーとなった現在、日本型の豊かな社会の実現にはどのような施策が必要か。ナショナル・ミニマムの産業基盤整備はすでに終了しており、今後はリジョナル・オリジナリティ、すなわち、各地域の内発的な産業、歴史、資源を踏まえた商品・サービスを提案し得る、新たな産業集積を育成すべきである。 わがくにの産業政策を振り返ると、ひとつの制度をナショナル・ミニマムとして全国レベルで整備していく中小企業近代化促進法の高度化事業等がまずあり、70~80年代の「地方の時代」においては、中央の作成したメニューの中から地方が選択する方式が採られた。これらが終了した現在、個性的なモザイク模様の地域経済、文化の発生するような経済基盤を全国レベルで構築する段階に入った。この段階においては、各地方自治体とりわけ市町村レベルで自らメニューを作成する必要がある。 各市町村では条件が異なるため、メニューだけでなく、施策の幅を認める必要がある。量産型の産業立地を進めようという地域では、従来通りの産業政策、すなわち住工分離型の工業団地の整備が適切であるが、小規模工業の振興を図る場合には、住工一体型の工業団地が適切であり、同じ工業団地でも内容は異なる。しかし、現在の高度化事業のスキームでは、住工一体型の工業団地に対する公的資金の低利融資は認められない。日本海側の市町村が地場産業振興に取り組んだケースでは、大半が自営業である事情を踏まえ、工業専用地域でない場所で住工一体型の工業団地の建設を進めたが、用地の取得はスムーズに進んだものの、実際の建設費に低利資金が利用できなかった。 今後のナショナル・ミニマムを考える場合、国内を一つの単位とする整備は基本的に終了し、今後は国際展開のために必要な事業が進められる趨勢である。その際、日本国内に残る産業については、文化の香りが漂い、オリジナリティに富んだ内発的な地域産業政策を打ち出していく必要がある。しかし、それにふさわしい権限が地方の産業振興の現場には極めて乏しい現状である。 例えば、ニューファクトリーの考え方で、経営者が古い工場を町並みと調和する工場に建て替えた場合、新しい工場にかかる固定資産税が上昇する。そうすると、経営者としては何もしない方が有利になる。街づくりという観点からすると、こうした経営努力に対しては一定の減税措置で支援することも必要である。固定資産税自体は地方自治体の徴税対象であるが、地方税法の規定によって徴収方法が規制されているため、弾力的な対応ができない。このように、地域に根ざした形で街づくりと一体化した産業政策を進めるためには、中央の画一的な規制という現行制度の機能不全は明らかである。 この点の調整については、「走りながら」実行する必要があるが、その際のキーワードは「自治・参加・自立」である。ビジョンがすべてできあがってから実行に移すのではなく、地方が各自のメニューを作る過程でネックを発見し、その点について中央と地方で調整する場を一刻も早く設ける。着実に問題点の解消を図って初めて、地域主権の段階に至るのではないか。
海野:
以上の4名のパネラーのご発言について、現場の立場からどのような感想を持たれたかについて、梶原知事に伺いたい。
梶原:
地方分権を考える場合、中央側の問題と地方側の問題があるが、4人のパネラーはいずれも地方サイドの問題を取り上げられた。並河氏のいわれるそっ啄同時はまさにその通りで、国を批判するだけでは問題は解決しない。地域の側も「実験」を行い、「走りながら考える」必要がある。とりわけ、吉田氏のいわれた地域のステイタスあるいはオリジナリティを作る努力が必要である。これは、地域の活性化を促すと同時に、住民の意識革命にもつながる。 従来の価値観では、「東京を頂点とするピラミッドの底辺に地方が位置付けられている」という既成概念がある。しかし、歴史的にみる限り、日本に地方自治が不在であった訳ではない。明治維新前後から、開国、経済開発、工業化等を進めるうえで東京に権力を集中してきたが、これはわずか130年程度の事象に過ぎない。江戸以前のわがくにでは、本来地域が主体性を持っており、地方主権が実現されていたと考えられる。長い歴史の目で見て、地方の住民は「東京に権力が集中しているのは仮の姿」という認識を新たにすべきである。 各地域の文化を検討していくと、すばらしい歴史や伝統の存在が明らかとなる。これを基にオリジナリティを向上させることにより、東京を頂点とする価値観から脱却できる。岐阜県でも、恵那地域にピラミッドやメンヒルが発見され、ベトログラフ(岩刻文字)が出土しているが、カナダなど海外からの協力を得て解読を進めており、これらの史跡は地域住民の誇りとなっている。 第二に、日本の変化はもっぱら外圧に拠るといわれるが、外圧を前向きに捉えるべきである。国際化と情報化の同時進行によって地域住民の意識も変わるであろう。従来は地域の枠組みは所与のものであったが、最近見直しの機運が高まっている。 日本の地域社会は情報の孤島であり、発信も受信もできない。一見情報が氾濫しているようでいながら、有用な情報に関しては閉鎖社会である。郵政省のアンケート結果をみると、地方では中央の情報よりも他の地域の情報に対するニーズの方が3倍も多い。他地域の情報が入手しにくいのが実情である。これからはインターネット、パソコン通信、さらにはマルチメディア等、インタラクティブかつ臨場感あふれる通信手段によって、地方は国内的にも国際的にも情報の鎖国状態から開放される。 マスメディアの高速から離れ、地域が情報の孤島から脱却しなければならない。国内他地域の正しい情報を得る、そして地域内連携を進めることが必要である。そのためにはマルチメディアが有効な武器となろう。また、国際化、ボーターレスの時代には、海外での実地経験も極めて重要である。実際に海外に赴き、地域の政治、行政、経済、文化システムを研究する必要がある。海外には学ぶべき部分がたくさんあり、岐阜県では海外に14人の若手駐在員を派遣している。外務省にも5名出向させ、海外経験を積ませている。とくに駐在員の場合は単独で派遣するので、海外で自立的な生活を営み、実力をつけて帰って来る。 地方の住民が海外に関する情報をより多く持ち、国内的な発想から抜け出すべきである。そして、海外と直接に協力しあう。先程も述べたように、岐阜県一県でもフィリピン、シンガポールに匹敵する経済規模を持っており、自立の精神が必要である。東京依存の「甘えの構造」を断ち切り、地域自ら問題を解決していくためには、パネラーのいわれるように各種の実験、あるいはオリジナリティの向上によって住民の盛り上がりを喚起する必要があろう。 私はこの7月に、兵庫の貝原知事らと共に「地方分権で生活を変える自治体連合」を結成することにしている。現在の地方分権論は自治省対他省庁の争い、あるいは国か県かという行政内部の争いと見られており、住民にとっての魅力に乏しいが、現実には住民の生活に密着する問題である。このため、「地方分権で生活を変える自治体連合」では、地方分権と日常生活の関係を住民に分かりやすく示すため、10県が共同でシンポジウム、セミナー等を行う計画であり、周囲の協力をお願いしたい。
海野:
黒川氏から、「分権を単に中央から地方への権限の移譲と捉えるのではなく、本来あるべき姿を踏まえて取り組むべき」という指摘があったが、具体的な展開の技術論を考えると様々な困難が想定される。また、坂田氏から、自治体の住民レベルから運動を喚起すべきであるにもかかわらず、その動きがきわめて弱いとの指摘があった。まず、黒川氏から「あるべき姿」に到達するプロセスについて伺い、次いで坂田氏からそこへ到達するのに不可欠な住民の参加を促す方策について伺いたい。
黒川:
コンピューターとのアナロジーで説明したい。 十数年前、コンピューター業界の覇者は大容量の処理能力を誇るIBM社であり、日本企業はキャッチアップに懸命であった。しかし、キャッチアップが成功した時には、覇者は十数年前に創設されたばかりのマイクロソフト社に替わっていた。この変化は何故か。マイクロソフトの製品が搭載された機種の処理能力はIBMの大型機に遠く及ばないが、多数のコンピューターをネットワークでつなぐことによって利用価値を飛躍的に高めた。さらにユーザーの増加によって個々の端末の処理能力も急上昇し、かつての大型機に匹敵するまでになった。ユーザーの側でも、その処理能力を使いこなす能力、いわゆるコンピューター・リテラシーを身につけつつある。 すでにコンピューターの世界では、中央に高機能の機械を設置し末端から処理を依頼する集中処理型から、個々の端末がネットワークで相互に結ばれ、情報を共有し合う分散処理型へ移行している。個々の処理能力はスーパーコンピューターには及ばないが、ネットワーク全体の処理能力は圧倒的に大きくなった状態である。 地方行政についても同様のことが言え、我々は現在システムの選択を迫られている。コンピューターとのアナロジーからすると、「多数の末端が、ネットワーク化すればスーパーコンピューターをもしのぐ能力水準に達しているならば、分散処理システムの方が社会全体としては効率的である」という認知はすでに定着している。 分散処理方式であれば、地方も政治プロセスに興味を持ち得る。「独自に問題を考慮し意思決定を行うプロセスの方が、中央での一括処理よりも望ましい」と考えるメカニズムが各末端の側に無いと、その社会のシステムはある時点で閉塞状況に陥る。現在の日本のシステムはまさにそれである。 さらに、中央の処理能力自体をみても、複合化した問題に対して統合的な判断が下せずに縦割り行政に陥っており、中央の判断力、問題解決能力が疑われる状況である。中央の処理能力は相対的に低下しており、必然的に行政システムは元に戻らざるを得ない。日本の現状をみる限り、すでに分散処理の方がシステマティックかつ効率的な段階に入ったと思う。 スウェ-デンを例にとると、福祉システムを転換する過程で十数年前に2000あった自治体が、合併によって現在200程度となっている。これは、一定水準のサービスを提供するには一定の規模と力量が必要となるので、各主体が連携した結果である。いわゆる広域連携、地域連携と称される仕組みである。 また、EU内で一人当たり国民所得が最高なのはデンマークであるが、同国の人口は500万人程度、規制緩和で名を馳せたニュージーランドの人口は320万人である。日本は、1国のなかにこれらの国々と匹敵する規模と能力を持つ自治体が少なくなく、巨大な経済力を擁している。にもかかわらず、すべてが霞が関周辺で一極集中的に決定され、決定プロセスの興味深さが多数に共有されていない状況は異常である。自らの職務に興味を持てない状態は、社会の閉塞状況を示す証拠である。問題を「面白く」処理することが我々の能力開発にもつながる。これこそが私のいう「あるべき姿」と思う。
坂田:
先程来、地域の主体性、オリジナリティ、創意工夫が不明瞭という指摘があるが、私のみるところ、市町村は十数年前から相当変化している。かつては上からの指示通りに事務を執る末端であったが、近年は自ら考え、行う最先端の存在へと変身してきた。しかし、財源と権限の両面から規制を受けるため、新しいアイディアが生かされない。地方の側にも問題はあるが、まず財源と権限で地方を縛る中央の力を取り除くことが最大の課題である。これがなければ、地方分権推進委員会の計画等も実効を挙げないまま終わってしまうであろう。 そこで、市町村と住民を立ち上がらせる方策であるが、市町村はそもそも関心が低いことに加え、住民対応の困難な分野や資金・人手を要する分野についての権限移譲には、内心では消極的である。この際、各市町村は長年の懸案である地方分権の実現のため、目先の困難を忍ぶ覚悟で立ち上がり、連帯することが最も重要である。 住民が分権論に無関心なのは、現在、国と県の間の議論にとどまり、省庁間の権限争いの様相を呈しているためである。これを打破するには、分権論議を市町村まで降ろし、分権によって地域や生活がどのように変わるのかを住民に示す必要がある。また、地方分権は行政改革の一環であることを訴えるのも有効である。中央と地方の間で、現在膨大な人件費をかけて行われている折衝が分権によって不要となり、財源の節約、消費税の据え置き等住民に身近な利益が生じることを明示する必要がある。
海野:
分権が進まないのは、並河氏がいわれたように既得権限を固守しようとする中央の意向に加え、ただ今、坂田氏がいわれたような市町村側の消極性にも問題があるのではないか。いわゆる受け皿論について、並河氏のご意見を伺いたい。
並河:
力量の乏しい自治体があることは事実だが、霞が関の能力も疑わしいことは最近の諸問題をみても明らかである。受け皿論はある意味で水かけ論であり、実験に取り組まなければ結果はでない。 分権を実現すると、力量のある地域は繁栄し、そうでないところは衰退を余儀なくされるが、衰退の前に住民が如何に奮起し立ち上がるかが問題の鍵を握る。現実にはいろいろと議論があることは分かるが、原理原則的には、努力しても失敗した地域は衰退もやむなしという程度の割り切りが無ければ、分権は進まない。能力のあるなしについて机上で論議しても真実は不明である。 梶原知事の発言についてひとことコメントしたい。本シンポジウムの議論を議論のまま終わらせるのではなく、分権の実現に向けたアクション・プログラムにつなげる必要がある。日本では、法律をつくらない限り官僚組織が機能しないので、分権を推進する法律の内容についてイメージを描き始める必要がある。 分権推進委員会の検討の結果どのような法律ができるのかは不明であり、結局生活保護法や地方自治法の機関委任事務関連の条文等、個別の法律の書き換えで終わる可能性もある。分権推進委員会では、パラダイム・シフトを可能にするような、既存の法律を一括して書き換える類の法律はイメージされていないのではないか。 ここで梶原知事にお願いであるが、「地方分権で生活を変える府県連合」では、「地方主権」をベースに据えた基本法の作成についてご検討頂きたい。都道府県だけの分権論ではなく、市町村も参加可能な場で、両者の役割分担等の問題まで含めて討論を深め、都道府県、市町村両者の立場を反映した法律を提案する。あるいは国会議員に働きかけて議員立法での成立を目指す。これに刺激されて行政の方から対案等がでれば、さらに議論が深まるであろう。住民への広報活動も重要であるが、自治体連合を結成するならば、政治力を発揮すべく試みて頂きたい。
梶原:
基本法を作成するという提案も含めて、「地方分権で生活を変える自治体連合」が用意する場で学識経験者、研究者や市町村の方々にもいろいろ提案や議論をお願いしたい。
2.首途機能移転と地方分権との関連
海野:
次に首都機能移転問題についてご意見を頂きたい。
吉田:
梶原知事の基調講演のなかで「船を乗り換える」という表現があったが、当然、同時に乗組員も換える必要がある。すなわち、地方の政治的、経済的自治能力が向上し、中央に集められた権限を安心して地方へ降ろすためには、現在、地域が自らの問題、例えば産業振興にできる限り手を尽くしているのか否か、を明らかにする必要がある。自助努力を行っているところとし無為なところでは、市町村レベルで大変な実力の差がある。 一例として産業振興センターのような施設の運営をみると、長野県の坂城や東京の墨田の場合のように、企業経営者の意向を行政が十分汲んだり、運営に企業家が参加する仕組みをつくり、様々な創意工夫を凝らして夜間も開館するなど、企業のニーズに柔軟に応じるケースもあれば、5時で閉めてしまうケースもある。地域の自治のための主体形成を、具体的な課題に即してどの程度行っているかが問題である。 主体形成が行われていれば、受け皿論が生まれる余地はない。個性的な産業振興、生活環境整備の実態を把握するなかで分権が進めば、中央に残るのは本来的な中央政府の機能のみになる。ここに至って始めて、本来的な中央政府をどこへ移すかが問題となる。 しかし、現在の議論においては、地方自治体は「新首都を起爆剤に地域の発展を図る」という旧来型の発想のまま誘致を進めているのではないか。首都機能移転問題は、地域の主体形成の問題、あるいは地方への分権の問題と密接に関連させて進めなければ、従来のゼネコン型の開発と同様の結果に終わる懸念がある。中央も地方も、本来必要とする機能は何なのかを政策的に打ち出すスタンスが必要である。
並河:
首都移転と首都機能移転の区別が曖昧である。東京育ちの立場からいえば、少し過剰な機能を減らして東京がすっきりした姿になって欲しい。永田町や霞が関は他所へ移転し、住みやすい東京を構築したい。地方がなぜ誘致を図るのか、逆にいえば東京がなぜ移転に反対するのか、真意を図りかねる。 もうひとつ指摘したいのは、本気で首都機能移転を議論しているのか疑わしいという点である。移転する以上、高速道路体系や新幹線網等、国土構造全体の組み替えが必要である。しかしながら、現在はこれらの整備が従来の方針に沿って進められている一方で、首都移転の議論が別途行われており、支離滅裂な状態である。 首都機能は一種の「迷惑施設」であり、引き受けてくれる地域があるならば結構である。しかし、地方自治体は一方で中央政府の縮小を目指す地方分権を唱えつつ、他方、あたかもフル規格の新幹線のような大規模な中央政府をイメージして誘致を行っている。この点をもう少し整理していく必要がある。土光臨調以来議論している点は、公共投資、公共事業のような政府の力を借りずに済ます必要があるということである。公的資本形成のウエートがこれだけ大きい国はほかになく、これに頼らない経済運営のあり方が模索されているなかで、従来のやり方が続いていることは問題である。
坂田:
首都機能移転の必要性、及び首都機能移転によって生じる変化について、十分な国民的議論が必要である。国会等移転問題調査会が首都機能移転に賛成のメンバーのみで占められているという説もある。また、首都機能移転といいながら、首相官邸や人事院ビルの改築が行われており、対応が首尾一貫していない。 東京一極集中の理由は、現在、東京という中央に権限が集中しているため、地方は中央まで来ないと最終的な意思決定ができないためである。権限を地方へ降ろせば、地方は中央まで足を運ばずとも済み、中央への集中も止まる。まず地方分権を進めたうえで、首都機能の移転を図るのが本来のあり方ではないか。移転に伴って機能が整理されるという意見もあるが、物品ならともかく、権限や権力の整理は難しいのではないか。 新首都の人口は30万とも50、60万ともいわれるが、かなり以前関西の財界人から「経済界のうちかなりの企業が官庁の移転先へ追随するであろう」という話を聞いた。日本は規制が強いので、これを緩和すればニューヨークとワシントンのような都市ができる可能性もあるが、現在のままでは第二の東京ができる恐れがある。 もう一点議論の足りない部分を挙げると、首都移転論は東京と新首都については視野に収めているが、他の地方が21世紀に向けてどうなるのかを軽視している。今後、地方の大都市の規模はますます大きくなり地方でも集中が進む一方、他の地域は沈滞し、とくに若年層が減少していく。これからの地方の課題は、日本全体に目配りしつつ、首都機能移転の行く末をみていく必要がある。 また、移転費用が十数兆円かかるといわれるが、現在日本の財政は多額の赤字を抱えて財政再建が急務である。この時期に首都機能移転に多額の費用を投じ、真に望ましい結果が得られるのかについて、議論を深める必要がある。
黒川:
大都市への集積のメリット・デメリットを考えると、首都圏の人口のわずか1%を各道府県に広く分散させれれば、東京の地価上昇は押さえられて東京や都民はメリットを得るし、広く分散させることにより、地方に負荷を与えずに済む。首都機能移転は、東京に集積しようとする力を殺ぐという観点からプラスの効果を持ち、現在、地価上昇が抑制されているのは、この影響もあるのではないか。 ただし、現在の首都移転論は、発展途上国にありがちな発想といえよう。新首都の当初の人口が十数万人といわれるが、現実にそれだけの人口が移るとは思えず、新首都は単身赴任者の街になってしまうであろう。単身者が大都市に入ってくる場合、都市のなかで友人や伴侶を見いだしネットワークを形成することができる。しかし、そこから離れた場所へ移転する必要が生じた場合、当人のみがネットワークを離脱していかざるを得ない。このため、首都機能移転は短期間には進まない。 スウェーデンは現在首都機能の移転中である。すなわち、20歳代の国民を中心に文化機能が移転しており、これらの国民が40歳代に達した時点で都市が成熟するものと予想される。わがくににおいても、スウェーデンのように、漸進的に移転が進むケースは想定し得るが、一挙に数万人が移転し、経済に大きなインパクトを与えるような移転は難しいであろう。 大都市へ集積するメリットを挙げると、東京は世界一エネルギー効率が高く、生産額に対する二酸化炭素排出量は先進国中圧倒的に少ない首都である。厳しい通勤・通学ラッシュは極めて「地球に優しい」システムでもある。これを多極分散するとなれば、20~25万程度の中核都市であっても、マス・トランスポーテーションを整え、車に依存しないエネルギー効率の高い社会を構築する必要がある。首都機能移転のためには、新しいタイプの都市基盤整備が必要である。 分権と首都機能移転の関連について述べると、分権が進めば中央官庁は次第に実質的な業務を行わなくなる。これはドイツでいえば人口30万人のボンに当たる。首都機能移転を論ずる場合、移転対象となる都市のイメージとしてベルリンを期待する向きが多いようであるが、分権が進んだ時点で、首都機能の規模は縮小する。ただし、その場合の中央政府は、現在のように国策を考える機能ではなく、世界全体を考える機能を持つかもしれない。その意味で、新首都は日本が成熟し、アジアの中心で多彩な活動を展開すべき状況に、十分応え得るものでなければならない。
海野:
4人のパネラーの発言は、先程梶原知事のいわれた「地方分権と規制緩和、首都機能移転は三位一体で進めなければならない」という趣旨にほぼ合致するものと思う。 本日のディスカッションでは、地方分権と首都機能移転の重要性については、共通認識が形成されたと思う。すなわち、分権を進めるうえで、地方自治体、とりわけ市町村の意欲が不可欠である。また、政治のリーダーシップも非常に重要であり、都道府県の首長の政治力も含めて政治の役割は大きい、の2点を強調したい。 短時間であったため、他の重要な問題、とりわけ地方財政、行政権の移転と財政権の移譲の関連等について伺えなかったことは残念である。 現在、他方分権推進委員会が作業を進めているが、それと並行して、各地、各方面で議論が高まりつつある状況である。私どもの試みがその一助になれば幸いである。