Business & Economic Review 1998年12月号
【OPINION】
「市場主義」と「市場の失敗」の狭間で-二者択一的単純思考を排せ
1998年11月25日
20世紀の最後の10年間を後年の歴史家は恐らく「自由化と市場経済化の10年」と呼ぶだろう……。確かに社会主義国の崩壊に始まった90年代は、歴史上にも類をみないほどの自由貿易主義の隆盛と金融自由化の進展に彩られていた。自由化の中核が世界銀行と国際通貨基金(IMF)であり、彼らが提供する途上国向け成長支援プログラムが、とりわけ金融・資本市場の整備と対外開放に重きを置いていたことは衆目の一致するところである。
昨年のアジア通貨危機以来、そんな風向きに変調の兆しがみられ、それはロシア危機を経て確かな潮流となりつつあるように思われる。実体経済から遊離した投機マネーの暗躍を排すために市場機能に介入し、市場メカニズムによらない経済再生を図ろうという「反市場論者」の台頭である。
世銀=IMF流の通貨危機対策はいたって単純明快だ。市場メカニズムの機能しない「不健全な金融システム」こそ通貨危機の根源であり、そのためには財政再建と経常収支の改善が不可欠である。したがって当面は、「金融システム再生」のための経済縮小過程に耐えなければならないし、それがまた彼らの提供する経済的支援の前提でもある。
しかし、途上国側には不満が大きい。かつて成長支援プログラムを受け入れ、金融の自由化と対外開放を行ったがゆえに大量の投機マネーに蹂躪(じゅうりん)されることになり、バブルの発生とその崩壊を経て、今日の惨状が招かれた。これは明確な「市場の失敗」ではないか。にもかかわらず金融支援の交換条件として世銀=IMFは、さらなる市場メカニズム徹底のための緊縮政策を押し付けるのである。ガルブレイスやクルーグマンのような著名な経済学者ですら、世銀=IMF流の処方箋にはバブルのつけを国民に回すだけとして批判的である。
とはいえ、発展途上国が海外からの資本流入に背を向けつつ、国内貯蓄の集積のみで安定的な経済成長を遂げていくことはほとんど不可能である。多くの実証研究は、金融システムの整備とその後の経済成長との間に正の相関関係を検出している。マハティール流の経済鎖国政策が、中長期的に経済成長という果実をもたらす可能性もまた限りなく低い。
こうしたパラドクスに陥るのは、市場主義者も市場の失敗論者も、一種原理的な排他主義に立っているからだ。世銀=IMF流の画一的自由化論が頓挫したのは、彼らが一般均衡分析的な比較静学のみを重視し、先進国において金融システムが確立されてきた過程を歴史的なパースペクティブから考察する謙虚な姿勢に欠けているからである。市場主義のメッカ、アメリカですら、大恐慌による資本市場の機能マヒ以降、証券取引監視委員会や情報開示の強制等に始まり、市場機能を確保するための施策が営々と積み重ねられてきた。複式簿記の習慣すら根づいていない旧共産主義国や、所有と経営の分離が未だ明確になっていない発展途上段階の国々に、徹底した情報開示の下で初めて機能する市場メカニズムの拙速な導入を強いるのは、そもそも無理な話である。
一方、市場の失敗論者も、投機マネーの横暴を隠れみのに、旧態依然たる経済構造を温存しようとする目論見が見え隠れする。経済改革の断行なしに経済再生はあり得ない。そして、経済再生がおぼつかなければ、資本流入規制が存在しようとなかろうと、海外からの資金導入は不可能である。過去への回帰が将来の成功をもたらすわけではない。
市場メカニズムの尊重と短期的な政府の介入とは全く矛盾するものではない。問題は、介入が中長期的には市場メカニズムの機能にプラスになるような形で行われなければならないということである。深刻な金融危機に対して、市場メカニズムの徹底と情報開示の充実という教科書的な処方箋で画一的に対応する市場化政策、逆に市場メカニズムを政府の意のままにコントロールし、旧システムの温存を図ろうという反市場政策、の双方ともこの前提を満たしていない。以上の議論は、極端な二者択一的単純思考に基づく経済・金融政策が、結局のところ、国民のさらなる負担に跳ね返る危険性を示している。