Business & Economic Review 1998年06月号
【OPINION】
公正・中立な「証券仲裁制度」を創設せよ
1998年05月25日
山一、三洋両証券会社の突然の破綻は、長引く証券不況が兜町の名門といわれた大手証券会社の経営までをも深く蝕んでいたという厳粛な事実を改めてわれわれに突き付ける痛恨事であった。しかし、両者の破綻は、以前から制度上の不備が指摘されながらも、実際の補償実績がないというはなはだ合理性を欠く理由からほとんど省みられることのなかった「寄託証券補償基金」制度の全面改革という貴重な成果をもたらすことにもなった。
そもそも証券業者は顧客の証券取引に付随する各種サービスを供給することを職務とし、顧客の資金を自己名義で運用する銀行・保険会社とは性格を異にする金融仲介機関である。証券投資は自己責任原則の下で行われるべきであって、預金保険機構のごとき投資元本の補償を目的とする制度とは両立しない。にもかかわらず、多くの資本主義国では証券投資者の保護という目的を掲げ、投資家保護公社や投資家補償基金等の形態で投資家の被った損失を補償するための制度的手当てが行われてきた。こうした一見矛盾する措置の背景には以下の3点の事情がある。
第一に、投資家は証券取引の過程で、一時的あるいはかなりの期間に亘って証券業者の手元に有価証券あるいは現金を置くことになる。証券業者が破綻した場合に、これらが全額かつ速やかに投資家の手元に返還されなければ、投資家は投資元本の減価と再投資の機会コストの二重の損失を被ることになる。
第二に、これはわが国特有の事情であるが、これまで顧客資金の分別管理を担保する法的手当てが存在しなかった点である。この結果、顧客からの預り金や決済前の売却代金、あるいは信用取引の委託保証金等には、破産法に規定された取り戻しの優先権がなく、万一、証券業者が破綻した場合、他の債権と同様に資産処分金からの分配によるしか補償の方法がない。今回の事件を契機に、改めて証券取引法に顧客資産の分別管理の徹底が明文規定として盛り込まれることは、遅きに失したとはいえ当然の措置である。
第三に、いささか残念なことであるが、しばしば証券業者の違法な投資勧誘や証券取引によって投資家が不測の損害を被ってきたという万国共通の歴史的事実がある。もちろん投資家は民事訴訟に勝訴すれば損失を取り戻すことができるが、しばしば民事裁判は長期化する傾向があり、再投資の機会コストを考えれば、司法の場が証券取引を巡る紛争解決において適切に機能してきたとは言い難い。また、訴訟相手の証券業者が経営破綻という逃げ口に駆け込めば、民事勝訴は事実上意味を失ってしまう。明確な違法行為による投資家の不測の損害に対しては、後述する「証券仲裁制度」と「投資家補償基金」の組み合わせによって速やかな解決を図ることが最も適切な措置となることが多いのである。
このように、幅広い投資家の参加を得て証券市場を円滑に機能させるためには、投資家の自己責任に帰すことのできない損失を補償するための制度的手当てが不可欠である。一部マスコミ等でみられた「寄託証券補償基金」の拡充は自己責任原則と矛盾するという指摘は誤りである。
ところで、補償基金の整備だけでは投資家の不測の損失を補償する手段としては不十分である。とりわけ、証券業者の経営破綻のように損失の発生責任とその金額が明確なケースはともかく、損失が証券業者の違法な投資勧誘・証券取引に起因するケースでは、補償基金の支出の前提となる証券事故の発生責任や被害金額を巡って、しばしば投資家と業者が対立することがある。理想的には、こうした紛争は民事訴訟によって司法の場で解決されるべきである。しかし前述の通り、速やかな解決が求められる証券紛争の解決手段として民事訴訟は必ずしもベストの手段ではない。この点は、司法の機能不足が甚だしいわが国においてはとりわけ深刻な問題である。こうした点を考慮して英米では、証券業協会や証券取引所等の中立機関が「証券仲裁制度」を設け、第三者的な立場から紛争を速やかに裁定し、強制措置を伴った命令により迅速な投資家救済を図る方式が定着している。例えば1996年には、アメリカ証券業協会(NASD)には5,600件もの仲裁申し立てが提起されている。
日本版ビッグバンの進行により予想される証券業への新規参入・取扱商品の増加は、その半面で証券取引を巡る紛争を増加させる可能性が高い。従来こうした紛争の行司役は証券行政が担ってきた。しかし、行政指導等の一般には見え難い形による紛争処理は、透明かつ自由な証券市場の構築という日本版ビッグバンの基本精神と両立し得るものではない。司法機能の強化が当面望み薄であることを考え合わせると、わが国においても公正・中立な「証券仲裁機関」の設立が急務であるように思われる。