Business & Economic Review 1998年01月号
【MANAGEMENT REVIEW】
アジア総括と展望(1997-98)前編-大中華経済圏の動向-
1997年12月25日 林志行
要約
香港返還問題では、返還後香港に影響を与える諸因子に大きな変化は見られない。香港の返還に対して、多くの香港人が既定路線として受けとめており、極めて平静に事態が進行している。
返還後の香港にもっとも大きな影響を与える中国の政治的安定度は、返還後最大のイベントである共産党第15回党大会を通じ、安定する方向に向かっている。江沢民政権の最大の弱点であった軍部掌握は、喬石氏の名誉の引退(下野)により達成された。また、天安門事件に対する再評価の声も、中国国内一般市民の経済発展への期待が大きいだけに、顕在化していない。
香港返還後の中国の最大の目標は、台湾の併合であり、一国二制度の適用である。中台両岸対話再開のイニシアチブは台湾側にあるが、台湾側の想定する前提条件(江沢民体制の安定)が達成されたため、対話再開の時期は近い。
中国国内における香港の金融センターとしての地位は通貨危機と香港株式市場の暴落で逆に高まった。中国国内での中央対地方、地方政治の暴走は、金融市場の混乱を背景に、規制される方向に向かう。地方の国有企業の市場原理を無視した安易な上場や資金調達には一定の歯止めがかけられることになる。
米中二極時代を印象づける江沢民国家主席の訪米では、人権問題での両国の対立と相違が浮き彫りになった。WTOを含め、具体的な成果に乏しいものになったが、一方で現役指導者の開放的で無防備な訪問旅行は、中国国内での政権の安定ぶりを示す先行指標となっている。
大中華経済圏を形成する中国、香港、台湾、マカオには、緩やかながらも、中国を頂点(本家)とする大同団結が見られる。この場合、香港、台湾に加え、地理的な距離感を有するシンガポールが「美人三姉妹」の一角を成す展開が予想される。
一方で、拠点都市にとって中国の一人勝ちは、返還後香港で実証されたように、中国(中央)に対する一地方としての埋没を意味することから、それぞれの拠点都市が国家の概念を離れ、個々に連携する気運も見受けられる。この戦略を採用するならば、スービック、沖縄、高雄、福州などを頂点とする局地経済圏が誕生する下地が残されている。その場合の条件は、ASEAN経済圏の崩壊とイスラム文化圏の誕生である。
今後の中国を頂点とした大中華経済圏でのビジネス展開では、以下の3点に留意すべきである。すなわち、中国の消費市場としての規模が限定されてしまうこと、ASEANや東欧への輸出により既存のASEAN進出先企業と中国合弁企業が競合すること、本格的競争時代での統括拠点の整備である。
(以下、後編に続く)
1.はじめに
本稿では、97年のアジアの政治経済情勢を総括するとともに、98年の企業動向に影響を与える各種潜在脅威(ビジネス・イシュー)を抽出し、事業戦略策定のための基礎データを提供する。
ここでは、アジア地域を「大中華経済圏」と「拡大ASEAN経済圏」に分類し、検討を加えた。 「大中華経済圏」は中国を中心に、返還後の香港、両岸関係の修復に動きだす台湾、さらには99年にスムーズな返還が予定されるマカオが該当する。
一方、「拡大ASEAN経済圏」はカンボジア国内の混乱により域内統合が98年に持ち越され、通貨危機により計画の違いが目立つASEAN10カ国がその分析対象範囲となる。
なお、香港返還前後やアジア通貨危機での各国政府の対応(援助、支援)からは、地域経済圏の見直しや再編を予感させる動きも見られる。具体的には、シンガポールの返還後香港ならびに中国への接近と、フィリピン、台湾、沖縄、福建省による新たな経済圏成立の可能性である。ここでは、リスク移転の代替的戦略としてそれほど遠くない将来に実現可能な要素(流動的な要因)として意識的に取り上げた。
本稿では、前編として「大中華経済圏」を取り上げ、「拡大ASEAN経済圏」ならびに「その他アジア動向」については、次号以降に取り扱うものとする。
2.大中華経済圏
1)香港返還
大中華経済圏での最大のイベントは、香港返還である。筆者は、返還前の97年3月の時点で返還後のシナリオ記述(情勢分析)を試みたが、前回の論文(JapanResearchReview97年5月号参照)を根拠にその後の変化を捉えたい。
筆者は返還直前、香港返還により影響を受けそうな華僑ネットワーク拠点である香港、シンガポール、台湾(台北)を駆け足でめぐり、政府関係者や知識人の返還に対する理解と思惑を探ってみたが、総じて香港返還を既定路線として受けとめ、肯定的に捉えていた(注1)(注2)。
前掲論文(Japan Research Review97年5月号)では、香港返還後の情勢に影響を及ぼす主要因子は、(1)中国の政治的安定度、(2)高度な自治を巡る中英や中米の解釈、(3)金融センターとしての地位の維持、(4)返還後の国際的な地位と対外関係であることを指摘した(図表1)。
ここでは返還から4カ月が経過し、返還後の国際情勢における中国ならびに香港当局の対応から判明したいくつかの課題に言及する。
(1) 中国の政治的安定度
中国の政治的安定度は、返還後香港の自治システムを規定する最大の要因である。筆者は、その先行指標として6つの事象、すなわち、香港カードの有効性、中国政府の台湾政策、国内経済改革(中央対地方、国有企業改革)、新自動車政策、傘型企業の取得状況、2000氏の逝去に伴う天安門事件の再評価を掲げていた(図表2)。
結論から言えば、ここ数カ月の香港返還での助走期間を経て、中国の政治的安定度は増す方向に向かいつつあるため、短期的には混乱を来すことはなさそうだ。プラスの事象としては、中国と台湾の対話再開ムードが高まり、台湾政策について強硬論が浮上する下地がないこと、中国国内での一般市民(労働者)の中国経済の先行きに対する見通しは明るく、天安門事件の再評価を望む声が多くないこと(注3)、そしてより直接的に江沢民政権の基盤が第15回党大会を目前にした一連の政治改革(長老の引退)により安定したことが指摘できる(図表3)。
一部マスコミでは、マイナス事象として、香港カードの有効性の消滅と国内経済改革の停滞懸念が指摘されている。アジアでの通貨危機が株価下落という形ですでに香港に波及しているが、今後さらに香港経済の停滞と、不動産バブルの崩壊を引き起こすというのがその根拠である。しかし、このことは、一方で香港金融市場の重要性を改めて認識させることになる。今後、中国は自らが描く上海金融センター構想を具現化するには、これまで以上に香港の金融センターとしてのポジションを確保しなければならないことを悟ったはずであり、社会主義市場経済を維持するうえでの必要条件であることを学習したはずだ。
香港証券市場の混乱と低迷は、中国資本の香港での上場延期を余儀なくさせたが、これまで中国当局(中央)は、地方による「資本主義経済原理を無視した無謀な資金調達」に危機感を募らせていただけに、今後の中央対地方での中央の主導権確保に格好の理由を与えることになる。
今回の通貨危機により短期的には中国が描くグランド・デザイン(すなわち国有企業の株式上場と外資の株式取得による赤字体質の解消)は実現が遠のいたことになる。しかし、一部優良部門のみを切り離し、香港市場に上場する手法は、問題の本質を先送りするとともに、現役地方役人の中央への登用のための点数稼ぎに利用される恐れがあり、何れ破綻する危険性をはらんでいた。中国にとってはその悪習を断ち切る良いきっかけであったとも言えよう。
(2) 高度な自治を巡る中英や中米の解釈
中国現役の最高指導者がアメリカを訪問したという歴史的事実が存在するものの、江沢民国家主席は、97年10月26日からの訪米中、至る所で人権問題に関する抗議デモに遭遇した。
従来にも増して、アメリカでの人権批判が盛り上がりを見せている背景として、ここ数年文化人に深く静かに横たわるチベット・ブームと97年秋頃からタイミングを図ったように上映されたチベット関連映画を指摘したい。特にアメリカの映画関係者(監督、俳優)には東洋神秘の象徴として、チベットやダライラマへの傾倒が強いことが挙げられる。
これまでアメリカでの人権問題にかかわる運動では、学生グループがミャンマーへの投資制限、あるいはミャンマーからの製品購入ボイコットを大手企業に求め、一定の成果を収めている。今後、チベットを巡る独立、宗教迫害、人権侵害などの諸問題で同様のアプローチが採用される可能性は高いものの、中国内陸部に位置し、スーチー女史のようなメディア上の注目を浴びる象徴的なスターがチベット内に存在しないことから、西側諸国に情報は伝わりにくい。結局中国政府が確信するように、内政不干渉という従来の発言で乗り切れそうだ。
しかし、香港となると問題は別である。返還前の段階で、中国当局にとって都合が良かったのは、返還バブルを背景に、香港人の中に流れる「遺伝子レベルの価値観」、すなわち、中国人としての血、誇りのようなもの(愛国精神)に訴えることに成功したことである。返還前の尖閣諸島での抗議行動は正にこれにあたる。しかし、返還後の一連の株価暴落で、このメッキがはげ落ち、香港人としての誇り(香港精神)が再生されるならば、民主派の政治的巻き返しには俄然強力な援軍となるはずだ。
返還前後に民主派が主催したデモは小規模で、一般大衆の関心を引き起こせなかったものの、相次ぐ経済指標の低下が、98年5月に実施予定の立法議員選挙へ及ぼす影響を見逃せない。すでに、株価回復への具体策に欠ける董建華初代行政長官への風当たりは相当強くなっている。また、返還前後での相次ぐ選挙制度の変更で、選挙結果にかかわらず中国当局からの安定的統治(制御)に有利に働くような道筋が付けられているように思える(図表4)。結局、誰が選ばれようと、民主派の決定的な巻き返しとはならないものの、香港人のウィット(香港の民主主義への最後の期待と誇り)がどの程度盛り込まれるかが注目される選挙となろう。
返還前には、香港人のアジア的価値観により無用の混乱を避ける意味合いが「愛国精神」という言葉に込められていたが、民主派が「香港精神」「自治精神」をどこまで引き出せるかが、今後の焦点となりそうだ。
なお、98年5月の選挙前にクリントン米大統領の訪中が予定されているが、97年10月の米中首脳会談でも明らかなように、アメリカと中国の人権や自治を巡る解釈に一定の距離があることが再確認されているため、多くの成果は期待できない。
台湾問題についても、米中共同コミュニケの再確認以上のものを引き出せておらず、台湾関係法をそれ以上に尊重するとのアメリカの基本姿勢が変わらないため、中国自らが台湾との両岸関係修復に乗り出す以外打開策はない。なお、中台間では、両岸関係修復に向けた対話再開が民間レベルで実施される可能性が強く、その時期は早ければ1月末以降、旧正月前後が濃厚である(注4)(注5)(注6)。
(3) 金融センターとしての地位の維持
金融センターとしての地位の確保は、ドルペッグ制を維持するかに依存する。一連の通貨危機の経過措置で、ドルとの連動相場を維持する国・地域は香港のみとなってしまった。今回(10月27日)のレッド・マンデーと呼ばれる世界同時株安のきっかけは、その前々週(10月17日)に台湾がドル相場への連動を放棄し、市場介入をしなかったからと見られる。
現状、ドルペッグ制の放棄は、株価の暴落、土地不動産の暴落、旅行者の減少などに影響を与える。市場関係者の間には、返還バブルの調整に伴う30%前後の下落(市場過熱感の調整)がどのタイミングで起きてもおかしくないとの認識があったものの、一連の価格調整を受け、ハンセン指数が10000ポイント以下に下げるのも行き過ぎであるとの認識が強い。
香港のハンセン指数は、返還直前の4月3日に12055.17ポイントを付けたが、返還後は8月7日の16673.27ポイントを最高値に、徐々に値を下げていた(図表5)。今後の展開は、4月の12000ポイントへの回復を図ることが予想されるが、15000ポイント台への道のりは険しい。なお、最高値の半値である8300ポイント前後が、ドルペッグの維持あるいは放棄に向けてのコメント発表のタイミングとなる。何れにせよ一連の株価乱高下の直接の要因は、ドルペッグ制の維持に対する投機筋の挑戦であり、沈黙(介入、不介入の意志表示の曖昧さ)は問題の先送りでしかない。
一方、マスコミによる取材合戦では、「金融センターとしての香港の付加価値」が主要テーマであるため金融機関関係者へのインタビューを中心に構成される。この結果、発信情報は金融市場の健全性のみを指標としてしまうバイアスがかかることに留意する必要がある。しかし、指摘するまでもなく、香港返還によって香港が中国に呑み込まれたという「心理的なハードル」も金融センターとしての香港の付加価値を低下させている。
返還後の秋口の旅行シーズンを前に、日本人観光客の激減は、『現地に適用された日本人価格が不当に高いからだ』とのマスコミ報道があったが、これは原因の一端を旅行業者に転嫁していることを念頭に入れるべきである。より根本的、本質的な問題は香港が社会主義国という本流へ回帰してしまったことに対する「心理的なハードル」が存在することだ。結局、香港が中国の一地方都市にとどまるのならば、より本流である上海や北京に対する憧れや思い入れを強くする。このことこそが、香港のジレンマを表している。
香港の金融センターとしての地位とアジアの自由貿易拠点としての地位の完全復帰に向けた努力は、返還直前から続けられている。香港の復帰が決定した80年代央から、アジア統括拠点競争での最大のライバルであるシンガポールは、徐々に統括拠点としての競争優位を確保してきた。特に、象徴的な制度として「キャプティブ保険業法」を指摘できる。 かねてからシンガポールにあり、香港に存在しないものとして「キャプティブ保険業法」を最優先課題として掲げていたが、香港は返還直前の97年5月1日にシンガポール同様、キャプティブ保険業法を成立させた。現状では、シンガポールの追従に終始し、香港からのさらなる外資拠点の移転(空洞化)に歯止めをかけることに精一杯の状況だが、前述のシンガポールに加え、マレーシアも金融センターとしてラブアン島(注7)を立候補させており、複数ライバルとの次世代拠点競争が本格化しようとしている(図表6)。
(4) 返還後の国際的な地位と対外関係
返還後の国際的な地位を占う象徴的な国際会議は9月に香港で実施されたIMFならびに世界銀行の合同年次総会である。この会議で、台湾の邱正雄財政部長と許遠東中央銀行総裁へのビザ発給は認められず、結局、経済問題においても国際的な地位を確立するいかなる会合への台湾の参加は認めないという方針を定着させたようである。 ただし、同会議の開催期間が中国共産党の党大会に合致したことから、極端な政治判断を仰ぐ混乱を回避したという見方もできるため、今後の推移を見守ることも必要だ。
なお、本件に関し香港の知識人に行ったインタビューでは、同会議の主催者が中国側であり香港側でなかったため、香港としてのこれ以上の判断は困難であることを示唆した。
しかし、今後中国と台湾の両岸関係が改善する方向に向かうため、北京中央の意向に沿い、台湾代表団への対応は柔軟に決定される可能性は高い。
2)第15回党大会と江沢民体制
返還後の最大の焦点は、第15回党大会であった。7月の返還から2カ月強で実施される同大会において、氏の後継者問題に決着をつけ、強い指導者としての一面を印象づけることが可能かどうかが、江沢民体制の安定と繁栄を誇示する良いきっかけになるからだ(図表7)。
第15回党大会直前での江沢民政権のアキレス腱は二つ存在していた。一つは軍部に強い喬石氏をいかに抑えるかであり、もう一つは天安門事件の再評価を求める声にどう応えるかである。
前者の喬石氏については、その他長老との同時引退に同意(注8)させ、一方でこれまでの建国への尽力を尊重することで面子を保たせる手法を用い、無事決着した。この方法は氏の後継者として上海から中央に上京した時から一貫して採用されていたものである(注9)。
後者の天安門事件の再評価については、経済が好調である間は顕在化しない。趙紫陽氏の軟禁を伝える西側の報道にしても、それを悲観的に取るか、未だ国家一大事の時のために有力な指導者を殺害せずに生き残らせる大陸型戦国絵巻として評価するかにより見方が異なってこよう。
ただし、小平氏が長寿を全うしたため、すでに趙紫陽氏が高齢になり、中国の国内政治に影響力を駆使できるほど政界復帰のエネルギーは残っていない。今後も反対勢力が節目節目での象徴的人物として趙氏を担ぎ出すことが唯一の利用価値として存在する。
このように江沢民政権はゆっくりとではあるが、確実に政治改革を実施していくため、しばらくの間は強い指導力を前面に出すことが予想される。しかし、ポスト江は集団指導体制である可能性が強い。ただし、現状で集団指導体制が他の有力候補から提案されたならば、水面下での権力闘争を予想した方が良い。この場合でも、西側経済に強い影響を及ぼすような、前近代的な流血を伴う闘争は表面上存在しない。
3)米中新時代の幕開けとWTO加盟問題
97年10月下旬から江沢民国家主席は、アメリカ訪問を果たした。現役の国家元首としては初めてのアメリカ訪問だけに、そのパフォーマンスが注目された(図表8)。
アメリカの初上陸地にはハワイが選定された。ハワイは真珠湾攻撃をイメージさせ、第二次大戦で共に戦った戦友としての米中関係を象徴したかったようであるが、これにはやや無理があるように思われる。アメリカ共和党の退役軍人の多くは、台湾を戦友として迎え入れており、かえって台湾の立場を共和党議員に想起させてしまったのではないだろうか。また、日本の外務省も日中友好に水を差す行為として強く抗議した。21世紀の超大国としての新生中国を印象づけようとした中国にしては、小手先の外交手法が目立ってしまい悔やまれるところである。
その後も「ちぐはぐさ」は、「自由の鐘」で有名なフィラデルフィアを筆頭に各地で続いた。江沢民主席の一連の発言は、中国国内でのパワー・バランスにも配慮した最大限のリップ・サービスであったのかもしれない。アメリカ側も、クリントン大統領が経済原則を優先したい西海岸の有力者に背中を押されつつ、周囲(共和党議員の監視)の目を気遣いながらの会談に終始したといえる。
結局、米中間で確認された(あるいは世界のメディアが認識した)のは、人権に対する双方の基本的考え方の温度差である。
江沢民氏にとってのもう一つの誤算は、直前の香港株価の下落であろう。一時は、ニューヨーク証券取引所への訪問が中止になるのではとの観測情報も流れたが、幸いにもニューヨークの株価が自力再生で持ち直し、香港株価(ハンセン指数)も危険水準の9000台を割らなかったため、ドルペッグ制の是非等への直接の言及を避けることができた。このことは、不幸中の幸いであったとも言える。
訪米中に江沢民氏の子息が91年にアメリカで博士号を取得したことが明らかにされた。タイミング的には天安門事件の後遺症で国外(特にアメリカを含む西側)への留学を自粛(禁止)していた時期にあたる。当時、すでに留学していた(あるいは卒業していた)海外留学生には破格の待遇での中国国内帰国を促していた時期であり、帝王学の一環にしては、大胆な公表であったとも受け取れる。
この背景には、中国社会での独特の面子を重んじる風潮を指摘しなければならない。95年6月の李登輝総統による母校訪問がコーネル大学であったことに対抗し、江沢民主席は自らの恩師と同級生が教え、子弟が学んだフィラデルフィアのドレクスラー大学を表敬訪問し、さらにワンランク上のハーバード大学でのスピーチを実現した。
このアメリカでの大学訪問には二つの意義が存在する。一つは、政治面でのトップの対立とは裏腹に、子弟教育の充実による次世代関係の模索が古今東西にかかわらず存在することである(注10)。
もう一つは、江沢民政権の基盤の安定性である。中国国内の世論や有力対抗馬の圧力が存在するならば、微妙な時期での子弟の海外留学をひた隠しにするのが世の常である。あえて、子弟の教育水準の高さを公表することは、千年都市の建設と大中華帝国の復活に対する並々ならぬ期待を表明するものであり、江沢民政権の安泰を誇示するものである。
米中両国が次世代の関係強化、二大大国時代に向けての演出を行っていた同じ時期に、日本は牽制球として、ロシア大統領のエリツィン氏と橋本龍太郎首相の会談を実現させた。会談で合意した今世紀中での北方領土の解決への前進が実現可能かどうかを判断するのは時期尚早であるものの、極東アジアにおいて日本の安全保障とアジアへのイニシアチブを確認するうえで、今後ロシアの協力は不可欠であることに異存はない。
なお、訪米の成果として、中国側は、将来の中国の民主化傾向を評価し、現状条件下でのWTO加盟を認めるようアメリカ側に求めたが、途上国待遇としての加盟に慎重なアメリカ側を突き動かすまでには至っていない。
WTO加盟については、中国側の積極姿勢が伝えられているが、中国は加盟に向けた個別の二国間協議(環境、条件の整備)には応じるものの、多国間からのグローバル・スタンダードへの対応要求に応じる気配はない。これは、安全保障に関するASEAN地域フォーラム(ARF)での外交戦略と同じスタイルを踏襲している。伝統的な朝貢外交を簡単には崩さないとみる必要があろう。
中国側がWTO加盟を熱望していると見なすのは早計である理由として、社会主義市場経済を導入するにあたり無視してきた様々な制度上の矛盾(沿岸部と内陸部の格差是正、経済特区と優遇税制の見直し、労働力の均一な供給など)を解消する必要性に迫られることを挙げることができる。WTO加盟は、諸外国から市場開放を迫られることを意味するが、中国は国内生産品の消費市場を自国内ではなく、ASEANや東欧と見なしていることに留意すべきだ。結局、WTO加盟は台湾との国交合作などイデオロギーに基づく「政治合理性」がない限り、短期的には実現しないと見るのが妥当である。
4)香港株式市場の暴落とドルペッグ制度
香港株式市場の暴落は、タイを発端とする一連の通貨危機の延長線上にある。しかし、暴落の直接の原因は、その前週(10月13日~10月17日)に発生した台湾での株式市場の緩やかな下げ(10%)とこの状況への対応として台湾当局が、ドル連動維持に向けた通貨防衛を実質的にあきらめたことが挙げられる。この結果、香港ドルの相対的な割高感が突出し、香港株式市場の暴落を誘発した。
香港市場はアジアの金融センターとしての象徴であり、実質的にもイメージ的にもその影響度は大きい。香港の下落を境に、ニューヨーク市場なども敏感に反応し、10月24日(金)にサーキット・ブレーカーが働く程のストップ安になった。幸いなことに、バブル崩壊後の長いトンネルを抜け出せない東京市場をよそに、ニューヨーク市場は自力再生を成し遂げている。
なお、翌週(10月27日)には、香港で再び下げを記録し、中国返還後の香港市場での暴落を「レッド・マンデー」と揶揄する向きもある。
香港の下げは返還バブルの調整であり、30%程の調整はすでに市場関係者の間で囁かれていたため、市場は比較的冷静である。今後、ハンセン指数は10000を下値に、12000ポイントを目標値と定めるものの、調整局面は相当の時間(2~3年)を要するものと見られる。
ドルペッグ制については、現状維持が無難ではあるものの、同制度の解消に向けた討議を求める声の高まりが予想される。ただし、見直しに際しては、進出日系企業への影響は大きく、中国当局は国内改革と外資優遇の接点(コンフリクトの解消)を探る展開となろう(注11)。
5)ヤオハンのつまずき
ヤオハンは97年9月18日に会社更生法を申請した。すでに何年も前から、アジア(特に中国)での大規模投資の危険性が指摘されていたが、一方で新華僑の誕生、日本的経営の打破などとその大胆な事業戦略が持ち上げられたのも事実である。
ヤオハンの会社更生法申請がちょうど、中国の秋の党大会の開催日時と重なったため、筆者には「江沢民政権の基盤強化」が確実になったため、「前世代のコネ・ビジネス」が終焉したという風に映ったものだ(注12)。
しかし、お断りしておくが、この言葉は、決して江沢民体制や中国当局に対するものではない。経済原則に従いさえすれば、対応が冷たくても、何の救済策を差し伸べなかったとしても不平不満を表せるものではない。むしろ、国内戦中派有力会長にありがちな、ノスタルジックな気持ち一つで中国投資を決断する事業戦略の見直しへの提言と位置づけて頂きたい(注13)。
日系企業担当者の一部には、自社の有力会長の暴走とも言える中国投資、アジア投資に冷や汗ものであった経験があると聞く。実際に日系大手企業の有力会長が、中国での輝ける未来に希望を抱き、一世一代最後のご奉公と中国参りを重ねたものの、中国の交渉上手に閉口し、事実上のビジネス引退を宣言したケースは少なくない。
昨今の大型プロジェクトでは、欧米勢の後塵を拝しているが、ヤオハンのつまずきをきっかけに、そろそろ戦争への贖罪意識や国際貢献、後進国への教育指導などと、グローバル戦略としての事業戦略を明確に分ける時期が到来したことを今一度確認すべきであろう。中国を含むアジア諸国の政府担当者はそれこそ欧米流の理論武装を施し、国家を挙げての千年都市を築こうとしている真っ最中だということを再度思い出していただきたい。
ヤオハンについては、ジャスコの岡田会長が再建への支援を約束し、卸がストップしていた商品の供給が再開された。一部には、ジャスコの支援が東海地区での店舗ネットワークの確保を狙っていることや、ヤオハンの中国での大型店舗(上海ネクステージ)に食指を伸ばしていることが背景にあるのではとの観測報道もある。しかし、岡田会長の言動を見る限り、現状では、国内流通業界の混乱を回避するための、業界指導者としての「高所からの判断」であると見なす方が自然体である。
なお、流通業界は、電機メーカーや商社と異なり、食料品という中国の胃袋(死活問題)をコントロールすることが可能であるため、中国当局は全国店舗展開への優遇措置供与には慎重である(注14)。また、検討課題としてはWTOへの加盟問題も浮上しよう。WTOでは、加盟国の国内での営業展開になんら制約条件を持たないということが基本認識であるため、中長期的には各種優遇条件(営業免許での大手と中小の差別化)は撤廃されることになる。
6)98年の展望-美人三姉妹と中台対話促進-
大中華経済圏での98年を展望するには、返還後の香港を囲む地政学的な関係の変化と、中国の本来の交渉相手である台湾を最大目標に据えた戦略展開についてコメントする必要があろう。
返還前後の香港、シンガポール、台湾(台北、高雄)の各都市を観察し、政策担当者などとの意見交換をした結果浮上したのが「美人三姉妹論」である。すなわち、中国という親(本家)に対し、シンガポール、香港、台湾(台北、高雄)が儒教の教えに従い孝行を尽くす時代の到来を示唆するものである。
「美人三姉妹」のコンセプトで重要なことは、西側マスコミでは険悪なムードが漂うと報道されているこれらライバル国・地域が、曖昧な対立によるビジネス・チャンスの到来を期待する西側先進諸国の思惑とは裏腹に、「アジア的価値観」と自らの「トータル・リターン」を検討し、大同団結が実現する可能性があることだ。
シンガポールは、返還後香港の金融センターとしての「不安定さ」を解消する立場(役割)を強く認識しているはずだ。香港の金融センターとしての瓦解は、自らのアジアの金融センターとしての地位を不安定なものにするため、相互補完的な立場を尊重するからである。ここ数年、西側企業の多くが返還後香港への不安から、シンガポールへのアジア拠点の移動を敢行したが、シンガポール当局は、この事態からさらに一歩進めた「総一人勝ち」の状況を作りだそうとはしていない。香港とともに良きアジア金融センターとしての層の厚さを維持しようとの戦略が見受けられる。
シンガポールが中国への求心力を高めるもう一つの理由として、拡大ASEAN統合過程でのイスラム文化圏大統合の可能性を指摘できる。この結果、シンガポールが自らの東南アジアでのポジションを相対的に落とす危険性があるからだ(注15)。これを回避する新たな戦略が中国への接近である。シンガポールの戦略は、地政学上の潜在脅威を離れ、バーチャルなネットワーク(華僑ネットワーク)を再構築することにより、自らのリスクを回避しようとする行動に受け取れる(注16)。
台湾については、中台直接航行の窓口として高雄港が開港し、中国側の福建省福州、アモイとの直接往来を可能にした(97年2月)。しかし、中国への過剰接近は、経済による中台の統合を早めるとの現政権(国民党)の配慮から、中国投資での制限策が打ち出されていた。この状況は、どうやら97年10月頃から、徐々に動きだした気配がある。かねてから、党大会での江沢民政権の安定ぶりを見極めてから、中台両岸の交渉を再開すると台湾側トップが表明していた。その前提条件が全て満たされたため、中台双方の交渉が再開される見通しがついてきたのである。新年明けの1月末から2月中旬にかけ、具体的な合意形成がなされると期待される。
このように中華経済圏は、バーチャルな位置づけとしてのシンガポールを加え、緩やかな連邦体への統合を目指し始めているが、経済圏への各参加国・地域は、代替的な戦略手法をそのつど選択する傾向にあり、必ずしも一方的な、一意的な方向に求心力を高めるものでもない。
香港を例に取るまでもなく、自由貿易圏から社会主義圏へのゲートウェイとして築いてきた確固たる地位は、大中国に組み込まれたとたん、一地方自治体として去勢される運命にある。その意味では、国家という概念を離れ、海上都市としての自らの競争優位を確保する新たな戦略が芽生えよう。例えば、フィリピンと台湾、台湾と沖縄、沖縄と福建省などの個別の連携が報道されているが、貿易の緊密化に伴い、新たな経済圏としての競争力を確保することが可能である。
このあたりについては、来月号以降のASEAN10の情勢分析を加えたうえで、再度言及するものとする。
〈戦略的示唆~中国での日系企業の対応〉
大中華経済圏は、香港が中国に回帰し、緩やかに統合されようとしている。本稿で見たように、全体としては、中国(本家、親)を頂点に、成績の良い先進アジアの各国地域(すなわち、香港、シンガポール、台湾の美人三姉妹)が親孝行をする図式が成立してこよう。特に、98年は、中国からの一方的なプロポーズに業を煮やした台湾が、渋々プロポーズを受けるという現象が顕著になると予想される。
では、香港が通貨危機の影響を受け、株価が低迷し、不動産市場が暴落する可能性を秘めるなかで、日系企業はいかなる対応を取るべきなのだろうか。
より具体的な、アジア全域での日系企業の対応については、後編にて分析することとし、ここでは、前編のまとめとして、中国を含む大中華経済圏での対応について3つの示唆を提示する。
【示唆1】 消費市場規模が限定的であることへの配慮
企業経営者が、陥り勝ちな盲点で、注意すべきことの第一点は、中国を14億の人民を有する有望な消費市場と見なしていることだ。しかし、実際には、先進国並みに豊かな社会は、沿岸部の1億から2億人に限定され、現状のASEAN並みの水準を考慮しても、せいぜい3億~4億人というところが、将来(2010年頃)に消費市場として確保できるに過ぎない。
もしも、右肩上がりの消費市場の拡大を想定し、中国を含む大中華経済圏への進出を検討しているならば、もう一度ヤオハンの落とし穴が待ち受けている。
【示唆2】 ASEANや東欧への輸出に留意
中国が、国際競争力を高め、アメリカと対峙する二大大国に浮上するための戦略は輸出戦略であることを示唆したが、その多くは、ASEAN市場と東欧市場である可能性が高い。そのための戦略的製品は、アジア・ブランドとして、現在芽が出ているもののいくつかとなる。例えば、自動車を想定するに、競合する国(企業)は、韓国(三星自動車+日産自動車)、タイ(ホンダ・アジアカー、トヨタ・アジアカー)、マレーシア(プロトン+三菱自工)などになろう。結局、現在、中国への進出と生産を急いでいる日系企業は、21世紀初頭には、自社の複数の工場での製品が、同じアジアで競合する状況が待ち受けることになるため、海外事業戦略を再構築することが最優先課題であることが示唆される。
【示唆3】 統括拠点としての持株会社化
ヤオハンの例を挙げるまでもなく、中国が歓迎するのは世界戦略を可能とする次世代技術の提供であり、そのスタイルは伝統的な朝貢外交の再来の様相を呈してきた。
この状況下において、日系企業は、欧米先進国との中国詣では、戦略的に対応できないために後塵を拝する状況が続出している。
今後の中国進出では、ますます中国側が奨励する「傘型企業」の取得を目指すことが望ましい。なお、この分野では、商社と電機メーカーが取得済みであるため、今後の中国進出では、これら取得済み企業とのハイブリッドな事業戦略の構築が有望であると考える。
注
1. 筆者の返還直前の香港、シンガポール、台北の各都市居住者に対する印象はそれぞれに、騒然さ、平然さ、漫然さが漂うものであった。これは、返還をものともしない香港市民のバイタリティ、すでに返還後香港の代替地としての地位を確立したシンガポール市民の余裕、中国の次なる目標とは限らないと自らに言い聞かせる台湾市民の無気力感を表す言葉である。
2. 返還当日の香港の様子を日本国内から観測し、翌日香港在住のジャーナリストである李怡氏(雑誌「90年代」の発行人)と意見交換した。李怡氏は、返還式典や香港返還そのものの意義を「全て織り込み済みの規定路線」として極めて冷静に受けとめている。式典については、中英両国が秩序だった演出を行っており、中国の世界に対する気遣いに対し好意的であったようだ。(会話内容は以下のURL参照のこと。http://www.so-net.or.jp/bar/member/index.html/)
3. 97年10月、訪米中の江沢民国家主席が、ハーバード大学で中国国内人権問題に関する人権団体からの質問に対し、天安門事件の再評価を示唆するようなコメントをしたとの西側マスコミの報道があったが、人権問題の焦点を逸らす意図が見受けられ、リップ・サービスと取るべき言質である。その後、銭其副首相(兼外相)があくまで江沢民氏の個人的な見解として、中国政府の天安門事件の見直し気運を否定した。また、中国外務省の広報担当官は、西側メディアによる行間の読み過ぎであることを指摘し、本件の決着を付けている。なお、天安門事件で失脚し、小平氏逝去後に名誉回復が期待された趙紫陽氏は、第15回党大会の直前に同事件の再評価を求める「書簡」を公表したため、軟禁状態にあると国際人権擁護団体(本部ニューヨーク)が明らかにし、各国のメディアが報じている。
4. 98年1月末から2月にかけてのこの時期は、95年1月の江沢民氏による台湾への統合に向けた対話呼びかけ(江八点、エイトポイント)から3年経過するタイミングである。この江沢民国家主席の呼びかけに対し、李登輝総統は同年5月に6項目からなる回答を示唆した。民間の両岸関係協議会を仲介した両者の歩み寄りが一部で見られたが、その後、李登輝総統の母校立ち寄りによる訪米と中国側のミサイル演習により、中断されている。
5. アジア研究者の間には、98年1月末以降での、民間組織による両岸対話再開の動きを示唆する者もいた。当事者である李登輝総統は97年10月下旬に台湾の台中市で行われた国際シンポジウムにおいて日本側記者団に対し、98年1月末を一つのタイミング(好機)として捉えた交渉再開を示唆している。中台間の両岸関係改善については、中国側からの一方的なプロポーズがあり、台湾側の消極姿勢が目立つため、台湾トップからの発言は実現性が高い事象として注目される。
6. 民間企業の間では、中国との投資促進に消極的な台湾現政権(国民党)への反発も強い。世界最大のコンテナ貨物船舶会社(エバー・グリーン)の会長である張栄発氏は、民間団体を通じた交渉ではビジネス・チャンスを逸するとして双方のトップ会談を提唱している。エバー・グループは、来るべき本格的な中台直航(ビジネス交流)に備え、桃園県(台北と台中の中間地点)に自社の港湾施設建設を計画中である。また、台湾プラスチック・グループは、福建省の大型火力発電所建設事業について、台湾当局から計画中止要請を受けているが、計画自体の断念はしておらず、投資規制策の緩和を強く希望している。
7. マレーシアはマルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)構想で、自国内の情報通信インフラの整備に余念がないが、一方で金融センター化にも力を入れようとしている。その最大のライバルは隣国のシンガポールである。理論上は良いハードインフラと優遇税制によって、次世代の金融センターとしての地位を取って代われるが、専門家等の人材(ソフトインフラ)については未知数である。マレーシアは、進出金融機関に一定数(3人)以上のスタッフのラブアン島への強制移住を打診しており、先進諸国には評判が悪い。ラブアン島が今後もっとも注目されるのはイスラム金融としての拠点であり、マレーシアやインドネシアを中心にしたイスラム・パワーの集結である。マレーシアでは、1983年のバンク・オブ・イスラムの設立を機にイスラム金融機運が高まり、97年9月末現在、51の金融機関が金利なしの金融システムに参加している。
8. 新指導部の幹部7名の平均年齢は前回(4年前)よりも2歳上昇しており、西側マスコミが報道するような若返りには至っていない。中央委員会344名全員の平均も僅か0.4歳の低下にとどまっており誤差範囲であろう。このことから、激しい権力闘争が水面下であったことがうかがえる。香港の雑誌「90年代」では、党大会の開催前である9月1日発売の9月号において、喬石氏の引退を示唆しており、そのきっかけを7月の避暑地北戴河での会談であると報じた。
9. 江沢民氏は92年10月の第14回党大会で、楊白冰氏の人民軍内での影響力を抑えるため中央軍事委員会秘書長ポストを廃止したが、その後自身が軍事委員会主席を務めその権限強化のために、秘書長職を復活させている(日本経済新聞95年10月1日付)。
10. 台湾の民進党の指導者である許信良氏の子息がやはり北京大学の卒業生であることが最近台湾のメディアで報道され話題を呼んでいる。台湾では最近の法改正により、中国大陸の主要大学卒業生を大学卒と認定することが決定し、92年に遡り実施された(ホンコンスタンダード紙97年10月23日付)。
11. 中国政府は香港通貨安定に関し、ドルの売り圧力が再び強まった場合にも、香港からの支援要請がない限り関与しない原則を確認した(日本経済新聞97年11月7日)。一連の金融不安が投機筋による中国の出動期待であることへの牽制であり、一国二制度維持の観点から安易な介入を避ける狙いがある。ただし、香港からの要請を受けた場合には、直ちに対応できる二段構えで望むことを表明した。このことは、香港当局の指導者(具体的には、初代長官)の強いリーダー・シップと香港市民のリーダーへの支持を必要としていることを意味するため、98年5月の選挙を含め、指導力への疑念が台頭すると再び売り圧力が加速する。
12. 皮肉にもヤオハンの上海進出が本格化した96年7月に、ジャスコやダイエーが中国での事業展開を地域限定にするとの方針を固めた。多くの日系流通業者が中国での事業展開に必要な最低優遇措置を得られないことを理由に事業領域を限定したのとは対象的に、ヤオハンは有力者とのコネという経営資源のみに依存していたのである。
13. ファイナンスという学問の基本に従えば「ハイリスク、ハイリターン」なのだから、ハイリターンを狙っていたのであれば、こういう事態も想定していたはずだ。ただし、経営者が自らの保有する経営リスクを的確に把握し、将来得られるであろう期待リターンに相応しい「適正リスク」の保有であるか、リスク水準を正確に認識していたかは疑問の残るところである。
14. 今後の中国の流通市場の発展の可能性のベンチマークは、「傘型企業認可状況」を掲げることができる。現状、流通にかかわる優遇措置の付与について、日系企業ではマイカルとイトーヨーカ堂が一歩リードしている。マイカルは大連地区の都市再開発に特化しており、イトーヨーカ堂はパートナーである伊藤忠商事が傘型企業としての特権を有していることから、現時点でのこれ以上のビジネス優遇措置はあり得ないと考えるべきである。
15.東南アジア地域が世界最大のイスラム文化圏であることは意外と知られていない。また、儒教社会(華僑資本)のわずか一握りの有力財閥が、東南アジア個々の国・地域の経済を実質的に支配していることへのその他民族の反発は大きい。昨今のアジア・ブームの中で、各国・地域の民族融合と国家建設の完成が期待されている状況でさえ、華僑排斥運動が繰り返され、中国人への反発は収まりそうにない。シンガポールのみならず、インドネシアにおいても有力華僑への事件は後を絶たない。
16. 一連の通貨危機ではインドネシアに対するマレーシアの支援が突出している。シンガポールはやや腰の引けた支援をしていたが、最終的には資金提供を約束した。シンガポールの外貨準備高の8分の1に相当する多額の金融支援については、シンガポール国内の金融関係者から反発の声が出ており、拡大ASEANへの過度の関与が、シンガポールの国益に反するのではとの批判が続いた(ニューストレーツタイムズ紙97年10月29日)。