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Business & Economic Review 1999年08月号

【OPINION】
NASDAQ進出でいよいよ始まった取引所間競争-世界統一証券市場は荒唐無稽な構想か

1999年07月25日 新美一正


アメリカ店頭株式市場(NASDAQ)を運営するアメリカ証券業協会(NASD)が、この夏にも日本法人(ナスダック・ジャパン)を設立し、早ければ来年早々にも株式取引を開始する計画を発表した。この新株式市場は、NASDAQ公開銘柄はもちろん、わが国のベンチャー企業にも株式公開の門戸を開く意向だといわれる。昨年12月の金融システム改革法の施行によって取引所集中義務が撤廃され、取引所に代わる私的取引システム(ATM)を営むことに対し立法上の規制はなくなっていたが、実際に新市場の創設構想が海外市場の上陸という形で実現することは、多くの市場関係者にとって寝耳に水の出来事だったようである。

筆者のみる限り、国内市場関係者の反応は3つに分かれる。1つは、時差のないNASDAQ株式の売買が可能になることと、競合する国内市場への委託手数料低下圧力を交換した無条件好感派、次に、競争圧力の高まりを歓迎しつつも、市場のクリアリング能力や流動性確保への不安を盾にした様子見派、最後に「黒船上陸」を叫んで国内関係者の対応の遅れを非難しつつ、海外業者の参入に対して警戒感を隠せない攘夷派である。最後者には、同構想の国内パートナーとなったソフトバンク社、あるいは同社の孫社長に対する心理的な警戒感も影響を与えているふしがある。

しかしながら、こうした見方はいずれも皮相的である。なぜNASDAは多大な投資負担を払ってまで遠隔地の東京に拠点を持つ構想を固めたのだろうか。その答えは、証券取引所の果たす機能の質的変化にある。少々迂遠なようだが、証券取引所の「そもそも論」から話を進めよう。

伝統的な証券取引所は、物理的な立会場を設け、そこに全ての需給(買い注文と売り注文)を集中して、一物一価の均衡価格を形成することを基本的使命とした。全ての株式需給を取引所に集中するために、証券取引に参加する証券業者には取引所集中義務が課せられた。もちろん、そのままでは横紙破りのアウトサイダーが出現するから、取引所あるいは参加業者は当局に働きかけ、証券業務の免許制や固定手数料制の公認を勝ち取った。ギルド的な証券取引所の誕生である。先進資本主義国では18世紀から19世紀にかけ、こうした取引所システムの構築が進んだ。

それではなぜ、当局はこうした閉鎖的な取引所運営を是認したのか。それは、当時の証券取引を取り巻く環境が、上記証券取引システムの合理性を保証したからである。

まず、当時の支配的株主層は個人、それも零細株主を中心としていた。証券のうちでもとりわけ株式は債券等に比べて値動きが大きい。にもかかわらず、小株主の存在ゆえに売買ロットが小さくなるので、公正な価格形成と十分な流動性を保証するためには、取引を一カ所に集中せざるを得ない。しかし、零細投資家を一カ所に集めることは物理的に不可能であるから、取引所への参加人員を限定することには経済的合理性があったのである。さらに、最も効率的な株式取引の場を構築することは、産業資本の円滑な調達を通じて、国民経済成長の面からも意義を持つものであった。

ただし、当時の証券業者が一定の場所(取引所)に集合したのは、通信手段が未発達で、face to faceでなければ情報交換できなかったからに過ぎない。今日のように情報ネットワークが整備されるようになると、証券業者自体をネットワークで結べばそれで済む、という発想が台頭し始めた。加えて、株式投資の機関化現象が進行し、先進国における支配的株主層は特定少数の機関投資家となっている。とすれば、証券業者と機関投資家を結んだネットワークを構築すれば、物理的存在としての証券取引所は不要ではないか、という発想が生まれる。同時に機関投資家サイドでは、高い委託手数料に代表される取引所のギルド的運営に対する批判も噴出するようになった。

こうして、アメリカでは70年代に入ると機関投資家のニューヨーク証券取引所離れが進み、機関投資家の取引が地方市場に流れる「市場の分裂」化現象が起こった。いわゆる「メーデー」はその必然的帰結である。イギリスにおける「ビッグバン」もまた、閉鎖的な取引所運営が取引の海外シフトをもたらす懸念から実施された措置であった。

さて、これら自由化の必然的帰結として、証券取引の場は市場外に広がる。投資家は、複数の取引の場のなかから、最も取引コストが安い場所を選択すればよい。しかしながら、以下に述べるような理由で、この選択は単純な手数料テーブルの比較では済まなくなる。

まず、従来通り、取引の大宗が既存の取引所で行われ、そこが十分な流動性と公正な価格形成を確保できているとしよう。このとき、この取引所の価格発見機能にただ乗りしつつ、より低い料率の取引所を開設すれば、投資家の注文を横取りすることが可能である。しかし、こうした「取引の細分化」が進むだけでは、やがてどこの取引の場(取引所とは限らない)においても、他の取引の場の価格発見機能にただ乗りすることが困難になるかもしれない。このとき、便宜的に最も高い流動性を持つ取引の場をベンチマークとすれば、そこにおける流動性は、自由化以前の既存取引所と比べ減少しているかもしれない。このことは、平たくいえば取引の場の持つ価格発見機能の空洞化を意味する。このとき、投資家にとって総体的な取引コストはかえって上昇してしまう可能性が高い。広義の株式取引コストには、手数料や税の「明示的なチャージ」だけではなく、マーケット・インパクトや価格発見機能等の、「暗黙のチャージ」も含まれるのである(ちなみに、両者の中間に位置するのが、クリアリングにかかわるコストといえよう)。

とすれば、こうした市場間競争と価格発見機能を両立させるためには、ただ単に市場を分裂させて競わせるだけではなく、これら競合市場を情報ネットワークで結び、市場間裁定を通じて、一国の証券取引自体の効率性を高めることが必要となろう。ここでは、バーチャルな存在としての総合証券取引ネットワークが、いかに広範な投資家の参加を得られるかが最大の問題となる。証券取引のグローバル化の潮流を考えれば、取引所の海外進出は何ら驚くに足らない現象であり、時差を克服するための24時間開場(「眠らない市場」)もまた、当然の選択肢である。

このように考えると、今回のナスダック・ジャパン構想や、EUにおける統一証券取引所構想の背景にある雄大なアイディアが明らかとなろう。最終的な帰結は世界統一のバーチャル証券取引所(証券取引ネットワークと称する方が適切か)の設置にあり、これを共通インフラとして各取引所は、国や地域で細分化されたサブ・システム内でヘゲモニーを争うことになる。従来、株式取引は、時差や情報の非対称性ゆえに母国の中心的市場(多くの場合、最古の市場)に集中することが当然と考えられてきたが、こうした世界統一市場が実現すれば、そこからはじき出された取引所には、それがいくら立地面で優位性を持っていても、全く勝ち目がないだろう。取引所が投資情報を生産するわけではない。それは投資家の持つ情報の集約によって形成されるものだからである。言い換えれば、いかに現在手中にある取引ネットワークをグローバルに拡大し、存在感を発揮しつつ自らを統一市場に接続していくか、が取引所の生き残りのカギとなる。(ちなみに、グローバルな投資家にとってクリアリング・リスクが最重要問題となりつつある現状を考慮すれば、世界統一市場が一旦、確立された場合、その優位性が将来的にさらに高まることはほぼ自明)。国内市場関係者にこうした危機感は存在するのだろうか。国内取引所・店頭株式市場はこうしたグローバルな潮流に取り残されてはいないか。攘夷派ではない筆者もいささか気になるところである。
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