Business & Economic Review 1999年03月号
【論文】
「調整インフレ」論とインフレーション・ターゲティング
1999年02月25日 新美一正
要約
近年のグローバル経済における金融政策手法の一つの大きな潮流変化が、金融政策のコントロール対象を目標インフレ率の達成に置く「インフレーション・ターゲティング」方式採用国の増加である。採用国の多くは80年代以降インフレ圧力の制御に苦慮しており、同方式の採用も、もっぱらインフレ期待の冷却を目的とするものであった。
インフレーション・ターゲティング方式採用国の増加には、(1)通貨供給量の先行指標性が次第に薄れつつあること、(2)貨幣の実物経済に対する長期的中立性が、理論・実証の両面で支持を集めつつあること、の2点が大きく影響している。加えて、同方式の採用が中央銀行の行動を制約する効果を持ち、これがいわゆる(3)インフレーション・バイアスの除去、という機能を発揮することも期待されている。また、同方式の導入以降、多くの採用国が生産に大きな影響を与えることなくインフレ期待の封じ込めに成功していることも、追随者の増加という点で見逃せない要因といえよう。
同方式はデフレ圧力に苦しむわが国には一見、無縁の存在に思われがちだが、最近、いわゆる「調整インフレ」論の立場から、逆にインフレ期待を高揚させる目的でわが国においても同方式の採用を検討すべしという政策提言が散見される状況にある。本稿ではこうした「調整インフレ」論とインフレーション・ターゲティング方式に対し、主に、(1)「通貨の番人」である中央銀行がインフレ容認的な立場を執ることの是非、(2)中央銀行によるインフレ率のコントロールは可能か、という2つの問題意識から実証的な考察を試みた。
「調整インフレ」論が政策提言として妥当性を持つためには、インフレ率が非常に低い水準ではインフレ抑制に伴う社会的コストが、インフレから発生する社会的コストを上回っていることが条件である。一般に、インフレ率0近傍では、高インフレ局面では顕在化しなかった名目賃金の硬直性や価格修正コストの影響が現れ、経済のショックが価格メカニズムでは十分に吸収されず、そのまま生産や失業に反映されてしまうと考えられている。本稿における実証分析も概ねこの仮説と整合的結果を示した。すなわち、現下のようなゼロ・インフレ局面における「調整インフレ」論には政策提言として一定の意義を認め得る。
ただし、このことは「調整インフレ」論が政策提言として高いフィージビリティを持つことを意味しない。インフレ期待創出の前提となる中央銀行によるベース・マネー供給量の制御可能性に加え、金融の量的拡大が実物経済に波及する以前に全て金融為替市場の価格変動に吸収されてしまう(形を変えた「流動性の罠」)リスクも考えられる。さらに、ほとんど前例のない低インフレ期における金融のファイン・チューニングは、中央銀行にとってきわめて困難な作業となることが容易に想像される。これらはいずれも、制御不能のハイパー・インフレーションをもたらす危険性をはらんでいる。
われわれは今や「インフレ性悪論」から脱却すべき段階にある。しかし、「インフレかデフレか」という単純な二者択一論に陥ることもまた警戒すべきである。われわれはインフレ率0近傍における金融政策の効果に関する過去の経験・データをほとんど有していない。これらの積み上げによって金融政策に対する国民的議論の場を広げていくことが今後の重要な課題といえよう。