Business & Economic Review 2000年08月号
【PERSPECTIVES】
ASEAN諸国における不完全就業と今後の課題
2000年07月25日 今井宏
要約
タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンのASEAN4カ国では、1999年前半からの景気回復を背景に、完全失業率が低下を続けており、経済危機を契機として急激に悪化した雇用環境は改善に向かいつつあるとの認識が一般的である。しかながら、失業率が低下する一方で、不完全就業者数は逆に増加しており、両者をあわせ勘案すると、雇用環境は依然として厳しいというのが実情である。
不完全就業者の増加は、完全失業者と同様な経済へのマイナス影響をもたらすことに加えて、一般的に不完全就業状態に陥る労働者数は、完全失業者を大幅に上回っているために、より深刻な影響をもたらす公算が大きい。不完全就業者の増加に伴う問題を整理すると、次の3点である。
第1は、経済全体として労働資源が十分効率的に利用されないことから、実際の成長率が潜在成長率を下回り、本来実現可能な所得水準に達することができないことである。
第2は、とりわけ都市部における低所得・貧困層の増大を通じて、治安の悪化や社会保障負担の増大が生じることである。 第3は、労働資源の質の劣化を招来することである。すなわち、長期にわたって不完全就業者数が高水準にあると、(1)正規の就労を通じた訓練を受けない労働者が増加すること、(2)当該家庭における教育投資余力の低下により、未就学若年労働者が増加すること、などから労働者の質が低下することとなり、産業の高度化の足かせとなるという中長期的に深刻な問題を引き起こす公算が大きい。
不完全就業が増加しているのは、直接的には経済危機を背景とする経済活動水準の低下が原因であるものの、さらに重要な要因として、80年代半ば以降、ASEAN4カ国で採用されてきた外資主導の輸出指向型の工業化政策に由来する超過労働供給の発生が指摘できる。超過労働供給が発生してきたプロセスを検討すると、次の三つの特徴が指摘できる。
第1は、外資による輸出指向型の工業化過程の雇用吸収力が限定的なものにとどまっていたことである。すなわち、先進国とりわけ日本からASEAN諸国にシフトされた経済活動をみると、産業別には、電機や繊維などが中心であり、企業別にはアセンブラー企業が主流を占め、企業内の部門別にみると、労働集約的な工程に集中していた。すなわち、外資系企業は、先進国における各種の生産活動のうち労働集約的な部分だけをASEAN諸国経済のなかに移植して、場所と労働力を利用するにとどまった。こうして形成された生産拠点は、依然として先進国経済の生産ネットワークに組み込まれたまま、いわゆる「飛び地経済圏」の地位のとどまっており、受け入れ国の経済のなかでは、雇用のすそ野に広がりを欠いたものとなっていた。
第2は、外資導入を契機に、農村部から都市部へ大量の労働力が移動したことである。そのインセンティブとして大きな影響力を及ぼしたものは、雇用機会の増大を背景とする「都市部の吸引力」ではなく、雇用吸収力の疲弊を背景とする「農村部の押し出し力」であった。確かに、当初の労働移動は、工業化に伴い都市部で増加した就業機会に呼応するものであった。しかしながら、離農のうねりは次第に加速し、ついには、都市部に流入する労働者数は、雇用機会を大幅に上回るようになり、大量の労働者が正規雇用に就くことができないまま都市部インフォーマル・セクターに流入することとなった。農村部における雇用吸収力が低下した背景としては、一次産品価格の長期低迷や農業生産性の伸び悩みが指摘できる。
第3は、ASEAN4カ国を相互に比較すると、インドネシアやフィリピンなど人口規模の大きい国ほど、不完全就業圧力が高いことである。この背景として、就業機会が各国間で均等化する傾向が強いのに対して、労働供給は各国の農村部に存在する潜在的失業者に比例する傾向にあるという労働需給の非対称性が指摘できる。ASEAN諸国が採用した外資導入政策をみると、(1)工業インフラを整備した工業団地への外資受け入れ、(2)税制面を中心とする外資優遇措置の付与、が共通の柱として指摘できる。各国は競って工業団地を建設し、外資優遇措置を打ち出したものの、各国の外資受け入れ状況に大きな格差が生じず、結果として、雇用機会が均等化傾向を示したものとみることができる。
以上のような不完全就業を削減するための方策としては、(1)不完全就業者、とりわけ、都市部インフォーマル・セクターに属す労働者の質の向上、(2)貧困家計子女への教育負担の軽減、(3)将来的に労働者の受け皿となる地場資本の育成や外資の誘致、などが喫緊の課題である。
まず、労働者の質の向上を進めるには、インフォーマル・セクターのフォーマライゼーションを図るための、訓練と就職を一体化した政府の支援システムが必要である。次に、貧困家計の子女教育負担軽減については、政府助成による教育コストの直接的な負担軽減と、低所得・貧困層への就業機会の安定的提供や住居・生活費補助などの間接的支援が必要である。最後に、雇用の受け皿づくりについては、地に足の着いた工業化を進めていく必要がある。具体的には、国内資本を支援し、雇用吸収力の大きい中小企業の育成や裾野産業の整備を進めることが重要である。また、外資の導入についても、これまでのような輸出指向型産業のみならず、すそ野産業分野への投資誘致が必要となってこよう。