Business & Economic Review 2000年04月号
【OPINION】
極論を排除した現実的な経済政策論議を
2000年03月25日 新美一正
筆者が大学生だったころ、経済紙誌は「対立する2つの経済学」等の題目を掲げ、近代経済学者とマルクス経済学者との間で経済政策論争を戦わせることを通弊としていた。その当時、既にマルクス経済学は現実の経済分析のツールとしての有用性を失い、もっぱら「近代経済学批判」としての生き残りの道を模索せざるを得ない状況に追い込まれていたから、論争の多くがイデオロギー対立に終始する無意味な活字の消耗戦に堕したことは無論である。社会主義経済の崩壊から十余年を経て、こうした不毛な弊習が影を潜め、経済学者が共通言語としての新古典派経済学に依拠しつつ、真の意味での経済政策論を戦わせる土壌が整ったことはすばらしいことである。
しかしながら、というべきか、それとも案の定というべきか、昨今の経済政策論議を俯瞰すれば、再び不毛なイデオロギー対立が顕在化しているとの観は拭えない。これをマスコミ的に表現すれば、「新古典派経済学に依拠した市場原理主義あるいはグローバル・スタンダード派」と「反市場主義・グローバリズム派」との対立の図式ということになろうか。
「反市場主義」が、市場経済を否定し、あるいはそれほどではないにせよ、不自由・不透明・不公正な現存の市場システムの温存・維持を目論むようなものであれば、それらを真面目に取り上げ、検討する余地はない。実際、反市場論の中には、思い付きに近い放言や、およそ政策的フィージビリティに乏しい空想・理想論の類が少なくない。加えて、反市場論者がしばしば強調する「弱者救済のための規制・介入」論が、その実は、断じて社会的弱者ではない一握りの既得権益者の保護を目的として主張される傾向を持つことに、われわれは留意すべきである。少なくとも、近未来の経済社会が自由取引市場における希少資源配分メカニズムを基盤に維持・運営されなければならないというわれわれの共通認識を、説得力を伴いつつ反証し得た「反市場論」は、今までも、そして99%以上の高い確率で今後も、出現することはないであろう。わが国の市場経済システムを、より規制・介入から自由なシステムに改革しようとする現下の動きを否定するような「反市場論」は、正に不毛な主張である。
ただし、一概に「反市場論」を切り捨てることが許されないのは、少なくともそれらの一部が、現在進行しつつある経済システム改革におけるいくつかの問題点の発生を指摘することに成功しているからである。とはいえ、以下で述べるように、それら問題点の多くは、標準的な新古典派経済理論の必然的な帰結などでは決してなく、むしろ構造改革スキームに内在した、一部の経済学者のイデオロギーに近いほどの「独自の価値観」によって誘発された性格が濃いものである。その意味では、「反市場論」と「グローバル・スタンダード派」の論争の大部分は、ここへきて、かつての「近経対マル経」論争に近い不毛なものに堕しつつある、といったら言い過ぎであろうか。
そもそも、「反市場」論者は経済改革の何を問題視しているのか。それは「市場原理主義」という彼らの揶揄に代表されるように、「何もかも自由にし、市場に全てを任せる」ような経済システムの運営が、貧富の格差拡大や弱者の切り捨てをもたらし、ひいては社会システム全体の安定性を損なうという点に集約されよう。実際、自由化・規制緩和によって経済の効率性を高めれば、必然的に所得格差が拡大し、福祉は縮小され、社会の不平等性が高まるという認識はマスコミを中心に広く世間に流布し、定着しているといってよい。
しかしながら、少なくとも標準的な新古典派経済理論のどこからも、「何もかも自由にし、政府は経済活動に介入すべきではない」とか、「規制緩和・自由化は必然的に所得格差を拡大するが、これは効率化の代償として甘受すべきである」といった主張を演繹することは不可能である。外部経済性や不完全競争の下で「市場の失敗」が生じる可能性は、中級以上のマイクロ経済学の教科書には例外なく掲載されているトピックスであり、さらに新古典派経済学が「パレート基準」を超える領域にまで所得分配に深くコミットすることを注意深く回避してきたこともまた、経済学を学んできた人間には周知の事実であろう。その意味では、「反市場主義」の立場からの「新古典派経済学」批判には、いささか的外れな部分が少なくない。
とはいえ、先行して経済システムの大幅な自由化・規制緩和に踏み切った諸外国において、ほぼ例外なく、貧富の格差拡大、公的教育・医療の荒廃、社会システムの不安定化といった現象が顕在化しているのもまた厳然たる事実である。しかしながら、それらの大部分は、決して「自由化・規制緩和の代償」などではない。むしろ、経済改革の過程で制度設計のヘゲモニーを握った一部勢力の価値観・イデオロギーを強く反映した種々の経済政策の変更がもたらした帰結である。これらは改革の「意図せざる副作用」などではなく、当然に発生が予想され、また事前回避も十分に可能であったという意味で、むしろ「人災」に近いものである。
議論の拡散を避けるために、以下では話題を「所得再分配政策の変更」に絞ろう。イギリス、ニュージーランド、南米等では大規模な経済改革を挟んで、所得格差が大幅に拡大する現象が発生した。ここまでは歴史的事実である。しかし、それは「累進課税の大幅な緩和」と「セーフティ・ネットの大幅縮小」に代表される所得再分配縮小政策が経済改革と同時に断行されたことによるもので、自由化・規制緩和の必然的な帰結ではない。要するに、これらの国々では経済改革に並行して、改革のコストを弱者に負担させ、その果実はもっぱらゲームの勝者が独占する仕組みを作った。所得格差の拡大は、そうした仕組みが正に制度設計者の意図通りに機能したことを物語る。
問題の核心は、こうした所得再分配政策の変更が、当然に必要とされる政治による事前チェックをしばしばスキップし、あるいは真の政策導入意図を巧妙に糊塗する形で改革スキームに盛り込まれ、断行された点にある。残念ながら、一部の経済学者がその過程でこうした政治行動に手を貸した事実は否定できない。彼らは、政策立案過程で「高い累進税率は経済活力を削ぐ」と主張し、アメリカのレーガン税制改革がその後のアメリカ経済復活の原動力になったと強調した。しかし、当時はもちろん現時点においてなお、所得再分配政策の縮小が経済活力の上昇をもたらすという命題は、理論・実証の双方でそれを裏付けるだけの研究成果の蓄積に至っていないのである。さらに彼らは、レーガン税制改革がその後の財政赤字の元凶となり、長くアメリカ経済の成長を阻害したという負の側面についてはほとんど言及してこなかったのであるから、立論自体が偏向しているとの謗りは免れない。
そもそも、財政赤字削減目的で断行された「セーフティ・ネットの縮小」と、経済改革の果実を事後的に所得税の自然増収の形で吸収する機能を自ら脆弱化する「累進税率の緩和」とを同時に導入したことは、財政再建という目的からみて矛盾をはらんだ施策といわざるを得ない。まして、政策に誘導された所得配分の歪みを、あたかも経済改革の代償のように取り扱い、正当化する論調には疑問を禁じ得ない。
むしろ、われわれは、標準的な新古典派経済学においても所得再分配政策が正当化されるケースがあることを再認識すべきである。具体的には、極度の不平等が人的資本の形成を阻害するケースや、競争機会の平等を損なうほどに所得分配の極端な固定化が進んだケースがそれに当たる。こうしたケースでは、所得再分配政策の強化、公教育の充実、セーフティ・ネットの拡充、等の公的な施策が国民経済的にみた効率向上に不可欠な要素となる。このような状況に陥った場合にすら政府の介入を排し、市場による資源配分を墨守すべきという一部の主張は、もはや新古典派経済学の範疇の属するものとは考えられず、単に論者の価値観を反映した宗教的な「スローガン」に過ぎない。
ただし、上記文脈における「極度」あるいは「極端」をどのように決定するかについては、新古典派経済学は積極的な役割を果たすことができない。そうした線引きは結局、民主的選挙というプロセスを経て、全国民の判断に委ねられるべき問題である。
1997年4月、イギリスではサッチャー以来の長期政権にあった保守党が総選挙で敗れ、労働党のブレア氏を首班とする社会民主政権が誕生した。ニュージーランドでは99年11月総選挙で与党国民党が敗れ、経済改革の見直しを掲げる労働党が勝利した。われわれの周辺には、一方で「これで規制緩和の世界的な流行はおしまいだ、国民は規制緩和を拒否した」という「反市場」論者のいささか軽薄な勝利宣言があり、もう一方では「痛みを恐れる国民エゴが経済改革を頓挫させた、改革はトップダウンでなければ進捗しない」という「市場原理主義」者の負け惜しみにも似た述懐が聞こえてくる。
しかしながら、両者の主張は、いずれも自らの価値観・イデオロギーに依拠した皮相的なものであり、現実の動きを誤って伝えている。イギリスではサッチャーが改革に着手して既に20年という歳月が経過した。ニュージーランドでも旧労働党政権による改革の開始から16年が経過し、改革に伴う短期的な影響は正負の両面においてほぼ出尽くした段階にある。この間、改革の痛みに耐え、改革を支持し続けてきた両国民が、今さら自由化・規制緩和路線を拒否し、後戻りの改革を志向するはずがない。むしろ、今回の選挙で両国民が明確に行使したのは、必ずしも国民の判断を経ないまま改革スキームに盛り込まれ、今日まで維持されてきた人為的な「格差拡大政策」に対する拒否権なのである。
自由・透明・公正な市場システムを維持・発展させながら、同時に福祉・教育・医療への公的関与を充実させようという『第3の道』の構築は、決して荒唐無稽な思い付きでも実現不可能な理想論でもなく、まして標準的な新古典派経済学と対立するものではない。これを「あり得ない」と一掃してしまうような一部の論調は、偏った価値観への傾斜を批判されてしかるべきである。しかし、『第3の道』の実現が、政府と国民とが受益と負担の双方を正しく認識したうえで、望ましい公的関与の「線引き」を民主的な手続きで行い得るほどに成熟した民主主義の定着を前提とする、きわめてハードルの高い選択肢であることもまた事実である。このような『第3の道』を敢えて選択した両国民の判断は、彼らが自国の民主主義の成熟に強い自信を持っていることの表れに違いない。
わが国における民主主義が十分に成熟した段階に達していないことはほぼ異論のないところであろうが、しかし、それを理由に経済改革のスキームが偏った価値観・イデオロギーに依存する形で、国民の目の届かない場所で決定されることもまた、われわれは強く警戒しなければならない。「市場システムを否定する経済再生」もあり得ないが、「市場に全てを任す経済改革」論もまた、その背後に潜む我田引水的な価値観とともに、われわれが最も回避すべき選択肢である。にもかかわらず、国民に「極論と極論との選択」を、あたかも不可避のプロセスのように、迫っているのがわが国マスコミの一般的論調であり、経済学者の不毛なイデオロギー論争がそうした傾向に拍車をかけている点もまた否めない。今、われわれが必要としているのは、それぞれの政策選択肢がもたらす帰結に対する正確な情報の伝達であり、理論・実証の両面で経済学的分析に対するニーズはかつてないほど高まっている。経済学者はいち早く不毛な経済政策論争から足を洗い、確立された経済理論の裏付けを持つ政策提言を国民に提供すべきである。
他人に下駄を預けるだけでは無責任という謗りを免れないであろうから最後に、現在、抜本的な改革が必要とされ、しかもその方向性が「極論対極論」の不毛な対立に陥っていると筆者が判断する、(1)年金、(2)教育、(3)所得再分配、の3点に関して、筆者なりの処方箋を提示しておきたい。
まず、(1)公的年金改革について。市場主義派は民営化を視野に入れた財政方式の積立方式移行を主張する一方、反市場論派からは賦課方式による全国民共通の所得比例年金の導入が提言されている。しかし、積立方式移行には数十年以上の期間にわたる「二重の負担」問題が付きまとい、後者には人口構成が激変する中での財源確保問題が全く後景に置かれている問題点がある。筆者は、双方とも政策的なフィージビリティに欠ける主張と判断する。一方的な価値観にとらわれた制度改変信仰は捨てるべきだ。現行制度を基本的に堅持しつつ、その枠内で水膨れした給付水準の是正と賦課方式への純化・積立金の取り崩しを進め、公的年金のスリム化と私的年金の活性化との両立を図ることこそ現実的な政策選択肢だ。少子・高齢化で先行するヨーロッパ諸国の年金改革も、概ねこの線に沿ったものになっている点を強調しておきたい。
次に、(2)教育改革について。ここでも「義務教育3日制」や「チャーター・スクール制」を導入し、義務教育部門への市場原理導入を訴える市場派と、営利企業への参・ウ育への異分子介入として教条的に忌避する不毛な対立が続いている。教育、とりわけ初等~中等教育は社会的共通資本であり、その整備は公的部門の基本的責務である。義務教育への安易な市場原理導入は厳に慎まれるべきであり、むしろ年間3兆円程度の義務教育国庫負担は増額が検討されてもよい。しかし、現行の公立学校制度は制度疲労が著しく、その硬直的な運営は外部のモニタリングを得て早急に改善される必要がある。まずは教育委員の公選制を復活させ、現場の教職員と父母の手による地に足がついた教育改革をスタートさせることが急務である。
最後に、(3)所得再分配政策について。既に述べたように、経済構造改革と累進税率の緩和は不即不離の関係にはない。少子・高齢化に伴う社会的コスト負担の上昇、財政再建の必要性、どれをとっても所得税・相続税の負担を富裕層に限って軽減する必然性があるとは考えられない。しかしながら、課税最低限をいたずらに引き上げる一方で、生活保護との連動性を全く考慮してこなかった現行の所得税制は、真の弱者に対する所得再分配制度として全く機能していない。生活保護に伴う国民的なモラル・ハザードの発生を恐れる余り、真の弱者を犠牲にする税制は本末転倒である。納税者番号制・資産調査を実施し、所得・資産の正確な把握に基づく徴税を担保することが、公正な所得再分配の実現には不可欠である。