RIM 環太平洋ビジネス情報 1999年7月No.46
アジア企業の人的資源管理システム
1999年07月01日 さくら総合研究所 竹内順子
はじめに
ここ十年来、アジア企業に対する評価と関心は、大きな変転を経験している。とりわけ世間的な関心と評価は、通貨危機の以前と以後で180度変化したといってよい。日本経済新聞社が毎年主催している国際交流会議「アジアの未来」における講演・討論のテーマを例にとると、1995年、96年には良好なパフォーマンスを背景に、その成長の秘密を探るといった観点から「アジア型企業経営」に対する関心が高まった。しかし、通貨危機後のテーマをみると、98年には「縁故主義超え自己改革」、99年には「危機を乗りきる経営戦略」と、かつての経営の在り方に対する反省が、基調として見出だせる。
経営内容の不透明性、政権との癒着などの側面がクローズアップされ、世界的にみて異質な経営体であるアジア企業が経済のグローバル化の中で改革を迫られている、というトーンが強まっているのである。実際、IMFのコンデショナリティにおいても、企業関連法案の改正、会計制度への国際基準の適用など、企業を取り巻く制度改革が取り上げられている。アジア企業における経営システム(注1)には、どのような特徴があったのであろうか。
経営には、組織の環境をマネジメントするという側面と、組織の内部の人間集団をマネジメントするという側面がある。(注2) 企業の急成長期には、前者に属する多角化、国際化などの動的な側面に経営の比重が置かれるが、企業が大規模化してからは、拡大した組織の中で効率の低下を防ぎ、有効に経営資源を活用するために後者の重要性が増してくると考えられる。
本稿は、こうした関心に基づいて、経営要素の1つである人事の側面から、その特徴を探ろうとする試みである。一口に人事といっても、その内容は多様である。ざっと挙げただけでも、採用、配属、評価、報酬、昇進、昇格のためのシステムの設計とその運営、教育や研修、組合との折衝などがその範疇に入る。以下ではこのうち、企業の将来を担う経営スタッフ(ここでは上級管理職および役員)の選抜・育成に関して、アジア企業においてどのような特徴がみられたかという点を、採用、昇進、評価の面から探っていくこととしたい。
I.比較の視点-経営スタッフはどのように採用・選抜されるか
1.日米企業における人的資源管理
まず、この I では、特徴を抽出するための「ものさし」として、日米の大企業における人的資源管理の特徴を整理する。管理職の選抜方法という点からみると、米国企業では、入社時点から管理職要員とその他の社員の入職口が異なっており、両者の採用要件が異なっている(図1)。管理職要員は、比較的短期間で管理職になり、選抜を経て、一部が経営者層に到達する。企業によっては、入社10年目ほどで特急組(ファースト・トラック)を選抜、後継者候補として育成する慣行を持つところもある。(注3) 一方、その他の社員は、社内にとどまったままでは管理職に昇進することはできない。しかし、就労を中断して、学位や資格を取得した上で、新たに管理職要員として入職するという選択が可能である。各階層において人材の参入・退出が行われるからである。小池(1997)は、約4分の1の企業が、部課長を直接、外部から採用するという、米国企業のアンケート調査結果(注4)を示している。一方、日本企業では、一括採用された新卒者は、そろってボトムからの選抜に参加する。入社後、15~20年で中枢管理者および現場管理者とその他という決定的選抜がなされ、さらに10年をかけて中枢管理者の一部が役員に到達する。(注5) 現在では緩和傾向にあるものの、中途採用は少なく、かつ年齢的な制限が大きいため、管理職・経営者層への直接の入職は少ない。
両者にみられる選抜の対象者と期間に関する違いは、選抜に際して用いられる「評価」に関連していると考えられる。何を評価するか、換言すれば、昇進に際してどのような能力を求められるかという点である。米国企業の伝統的な管理システムでは、職務は職務記述書(job description)によってそフ内容を明示され、かつ、職務ごとに序列、報酬が定められている。したがって、あるポストに就けるかどうかは、当該ポストの職務を遂行する上で充分なスキル、資格を持つか否かによって決定される。一方、日本企業における職務内容は、良くいえば柔軟、悪くいえば曖昧であり、守備範囲が担当者の属人的な要素に基づいて変わる場合も多い。したがって、職務の遂行は、社内における調整能力などの「文脈的技能」(注6)の習得に、大いに影響される。
こうした「文脈的技能」は、どのように評価されるのであろうか。日本企業の人事評価制度は、第二次大戦後に盛んに導入された、米国企業の科学的手法を源流としているが、日本では職務分析との関連が断ち切られたために、情意考査がその特徴となったといわれる。(注7)初期においては、経験による技能向上を前提に、評価は勤務期間(年功)を基準に行われたが、60年代後半頃からは能力主義が導入され、能力評価が付加された。しかし、同じ能力評価でも、米国企業の業績評価(appraisal system)がパフォーマンスに対する評価であるのに対して、日本企業の能力評価(merit system)は潜在能力に対する評価であり、仕事の成果に対する評価だけではなく、そのプロセスや姿勢などが考慮される点が指摘されている。したがって、必ずしも客観性を持つものではなかった。
「文脈的技能」は、長期間の勤務との補完性を持つ。マニュアル化しきれない技能の部分が大きく、業務を通じた訓練(OJT)によって習得されるため、一定期間の勤続が必要であること、また企業ごとの特殊性が大きいため、転職した場合には、その価値が失われることが理由である。OJTの過程は、業務を通じた選抜の過程でもある。長期の選抜期間の中で、複数の上司の評価を経ることで、情意考査によって生じがちな評価のブレを調整するという効果も期待できる。しかし、抽象的な評価を重ねて徐々に絞り込んでいく選抜方式では、失点を出した人が脱落しやすいという消極的な傾向がある点は否めない。
こうした日米企業の人的資源管理システムが、両国の労働市場を特徴づけている。すなわち、米国では、職務別労働市場ともいうべき外部労働市場が成立している。職務内容の明示によって、必要とされるスキルの特定が可能となり、人材の流動化と専門教育が容易になるためである。民間サービス機関などが持つデータベースによる賃金相場の形成、発達した人材紹介業といったソフトインフラも、人材の流動化を支えている。一方、日本では「職務と賃金が企業内で決定される」内部労働市場が優勢である。大企業に限れば、転職によって就労条件が悪化する可能性が高いことから、転職者は少数派である。このため、中途採用者の供給が限られているから中途採用が活発化しない、採用が少ないから転職者が増えない、という循環が生じた。このように、企業における採用、評価などの管理システムと労働市場とは、相互に補完し合うものとして、両国の雇用環境を形成している。しかし、トップ経営者に限れば、その平均像は、日本企業の年齢65.1歳、勤続34.3年、在職5.4年に対して、米国企業でも年齢58.3歳、勤続26.0年、在職7.2年であり、(注8) 日本企業と同様、米国企業においても内部昇進者が多数派であることがうかがわれる。
2.経営環境の変化と人的資源管理
前述のような管理システムは、80年代以降、規制緩和や企業買活動のグローバル化、労働人口の高齢化といった経営環境の変化の中で、それぞれが問題に直面し、変容しつつある。米国企業についていえば、職務記述書をベースとする管理が、変化への適応を難しくしている点が指摘されている。この問題に対処するために見直されたのが、定期的に個人の役割と測定可能な目標の設定を行う目標管理制度(Management By Objectives;MBO)であった。MBOは、組織運営手法として60年代に登場したが、80年代になると目標達成度の評価を報酬にリンクさせる方式が普及した。(注9)さらに近年では、経営環境の変化に対して、構成員が自立的に対応する、フラットな組織が注目されている。こうした組織の在り方とともに、人材の評価尺度としてコンピタンシーという視点が取り入れられるようになった。コンピタンシーとは、ある仕事において高い業績を上げるために必要となる特性を意味している。企業は、求められるコンピタンシーを明確化し、それを人的資源管理のベースに据えることによって、必要な人材の調達・育成が可能となる。
日本企業においても、人事考査の結果を各人にフィードバックする動きが強まると、説得力のある客観的評価が求めらるようになった。1つの方法としてMBOを導入する企業も増えているが、成果の測定が難しい職種では形骸化している場合が多い。ポスト不足に対応した専門職制度の発足や、業績を直接的に処遇に結び付ける年俸制の導入を講じる企業の増加など、人的資源管理の方法は急速に多様化している。さらに近年、経営効率化のためにリストラが強化され、人材の流動化が提起されているのは周知の通りである。
こうした変化は、個人の意識にも及んでいる。将来的な転職を想定する新卒者の比率の高さ、企業の外で通用する専門性への強い志向などが、日本の雇用慣行の転換を物語っている。
II.アジア企業における経営スタッフ
II では、I で設けた比較の視点に沿って、アジア企業における採用と選抜の現状をみることとしたい。
1.事業の多角化と専門経営者の増大
タイ、インドネシアの大企業における採用と昇進のシステムは、どちらかといえば米国型に似ているが、管理職層と経営者層との間にも壁のある、二重に分断された構造となっている(前出図1)。これは、両国の大企業の多くが、基本的には所有と経営が未分離のファミリー・ビジネスであり、役員の多くがオーナー一族から輩出されることに負うところが大きいといわれている。(注10) しかし、こうした構造は、経営の近代化が進むにつれて変化している。先行する韓国の大企業における採用と昇進のシステムをみると、経営者の最上層の一角を除いては管理職層からの昇進ルートが開けており、いわゆる専門経営者(salaried manager)の登用が広まっていることがわかる。また、中卒、高卒の一般社員にも、部分的ながら管理職への昇進機会が開けており、韓国型は日本型とタイ・インドネシア型の中間に位置しているとみることができる。東南アジアの大企業においても、専門経営者は増大の趨勢にあり、韓国型への移行が進んでいる。企業グループのトップは依然として所有者一族から輩出され、その継承も血縁者による例が多いが、その下の層では、選抜・登用された専門経営者が増えている。タイを代表する企業グループであるCPグループでも、事業部責任者クラスはすべて専門経営者であるといわれる。(注11)
専門経営者の増大をもたらしている大きな要因の1つは、大手企業グループにおける急速な事業の多角化である。韓国の財閥における総花的な事業展開は広く知られているが、東南アジアの大手企業グループにおいても、多くの企業がコングロマリット化した。急速な経済発展の中で、限られた国内資本として多くの事業機会に恵まれたこと、企業自身の側にリスク分散のため複数の事業を手がけるという志向があったことなどが影響している。さらに、近年では、各国における規制緩和や経済環境の変化などが多角化を促した。例えば、インフラ事業への民活導入は、通信、発電事業への大手企業グループの参入を活発化させ、消費水準の上昇に伴う消費行動の多様化は、量販店やコンビニエンス・ストアなど新業態の流通業への参入を促進した。アジア市場の高い成長性に目をつけた外資系企業が提供する技術やノウハウも、こうした動きを支えてきた。通信、発電などのインフラ事業や重化学工業などの運営には、経営判断に高度な技術・専門知識が求められる。大局的な意思決定はトップが行うにしても、具体的に事業を詰めていく担当責任者として、専門経営者の必要性が高まった。
もう1つの要因は、企業の大規模化に伴うシステマティックな管理の必要性である。人事、財務・会計、マーケティングなどの分野で、近代的な手法の導入が進められている。例えば、投資が大規模化するに伴って資金調達の手段も多様化するが、上場や海外での起債などを行えば関連事務も増大し、専門知識を持ったスタッフによるチームが必要となる。タイの通信業界は、欧米系金融機関から人材の調達を活発に行い、財務担当者にあてたといわれるが、職務の専門性が高まるに伴い、人材の育成・蓄積に力を入れる大手企業が増加している。こうした人材を獲得・維持していくためには、相応の処遇が必要であり、ポストとそれに伴う権限の委譲が必要となる。プロフェッショナルな人材のモチベーションを喚起する組織づくりが求められているのである。
2.採用と選抜
(1) 内部昇進とヘッドハンティング
アジア企業における専門経営者には、どのような共通点がみられるのであろうか。まず、II の冒頭でもみたように、管理職、特に上級管理職に昇進するためには、学卒レベル以上の学歴が必要である。近年、アジア各国でも高等教育における就学率は上昇しているが、就労者全体に高等教育経験者が占める比率は、いまだ低い。例えば、タイにおける高等教育の就学率は20%を超えているが、就労者全体に占める比率は5%に満たない(96年)。したがって、大卒者の社会的な価値は、先進国に比較して高いものとなる。
前述のように、入職口は多様であり、管理職にも(1)新卒採用の内部昇進者、(2)中途採用の内部昇進者、(3)ヘッドハンティングによって管理職として採用された者が併存する。近年、大手企業は、優秀な人材を獲得するために、大学においてキャンパス・リクルート、ジョブ・フェアなどを行い、定期的に新卒者を採用する傾向が強まっている。(注12) こうした新卒者は、マネジャー補佐として入社し、数年でジュニア・マネジャーへと昇進する。その後は、さらにシニア・マネジャーへの昇進、部門責任者への選抜という道をたどるが、選抜は内部昇進者だけで行われるわけではなく、外部から新たに採用された者も加わる。例えば、人事などの専門セクションを分離・独立させる場合に、海外で専門教育を受け、他社で同種の職務にあった人材をシニア・マネジャークラスで採用するケースなどがみられる。社内に研修センターや管理者研修のための専門プログラムを持つなど、内部育成に注力する企業も増えているが、その内容は主として2つに分けられる。1つは、少数者を対象とした、国内外の大学院などへの派遣である。もう1つは、社内で比較的広範な層を対象に行う、経営(management skill)、技能(functional skill)に関する短期間の講座である。したがって、実務的なスキルの習得・向上はOJTに依存することになり、新設のセクションでは外部に経験者を求める傾向が強くなる。
内部昇進とヘッドハンティングによる外部からの登用について、どちらが優勢かを知るのは難しいが、アジア各国の大手企業14社における人的資源管理の例からみると(表1)、ヘッドハンティングによる外部採用を併用しつつも、内部昇進を重視している企業が多い。外部採用が多いと回答しているチナワトラ・グループも、現状は社歴が浅く、(人材の)蓄積がないため外部採用が多いが、今後は内部昇進者が増えるという見通しを示している。(注13)
表1 事務系スタッフに関する人的資源管理

(2) 評価制度構築に関する模索
内部昇進が中心であれば、選抜のために評価制度が持つ影響は大きい。各社における評価制度をみると、merit system、appraisal system、MBO、コンピタンシー評価など、様々な手法が導入されていることがみてとれる。限られたサンプルではあるが、この時点では一見すると、年功的要素を重視する韓国や、merit systemを用いる台湾と北東アジアの方が、日本との類似性が高いようだ。しかし、台湾のエレクトロニクス企業における若年専門家層の活躍、ストックオプションの普及などを考慮すれば、ここでいうmerit systemを日本的な人事評価と読みかえることは難しい。むしろ、韓国企業の米国型への転換も含めて、ポイント換算やランク付けなど、客観性を有する評価と成果主義への志向は強いと考えられる。評価結果のフィードバックを行う企業が多いことからも、説得力のある評価基準を設けることが必要となっている。
チナワトラ・グループは先頃、学者とグループ企業の社長などから成る人的資源委員会を設置し、昇進体系の整備を行った。それは、各グレードごとに資格要件とジョブ・ディスクリプションが明示されたもので、管理職については必要な業務知識、責任の範囲も定められている。評価についても、成果とコンピタンシーがその対象であり、米国的手法の影響が大きいといえよう。
米国型の客観性への志向が強いと考えられるアジア企業の評価制度であるが、人物評、協調性、職務態度などを評価対象に含めている企業が多い点が興味深い。今回のサンプル企業でも、国を問わずに、こうした評価基準が見受けられた。
96年現在において、韓国、香港、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの6カ国の管理職の合計は約230万人に達するが、就労者に占める管理職の比率は、先進国の例を大きく下回る。今後、発展段階が進むにつれて、管理職層の増大が顕著になると考えられる。しかし、同時に高学歴化が進んで高学歴者の質のばらつきが大きくなるため、現状のように少数のエリートが上層の職位で選抜されるスタイルは、おのずと変化していくものとみられる。
3.サイム・ダービーにおけるトップ・マネジメント
(1) サイム・ダービーの特殊性
さらに具体的な事例として、マレーシア最大のコングロマリットであるサイム・ダービーにおけるトップ・マネジメントの現状をみてみよう。サイム・ダービー(以下、SD)は、世界22カ国に340社(休眠企業を含む)を擁し、3万7,000人の従業員を雇用する、アジアでも有数のコングロマリットである。その売上高は、マレーシアのGDPの約5%に相当する。SDは専門経営者による経営が浸透した企業であり、現在のトップも、内部昇進によって最高経営責任者(CEO)の座についた雇われ経営者(salaried manager)である。先に、アジアの大企業の多くがファミリー・ビジネスであると述べたが、SDはその範疇には入らない。まず、SDの特殊性について触れておきたい。
SDの起源は、1910年に2人の英国人によって設立されたマラッカの小規模なゴム農園に始まる。ゴム・ブームで農園事業を拡大するとともに、一次産品貿易を手がけるエージェント・ハウスとして発展した。マレーシアの独立後は、製造業、不動産、パーム・ココア農園経営などへと事業を多角化する一方、シンガポール、香港を中心に、海外へも事業を拡大していった。こうしたSDに転機が訪れたのは77年である。70年代に入ると、マレーシア政府は外国資本のマレーシア化を開始し、英国資本による農園事業がその最大のターゲットとなっていた。当時のSDは、ロンドン登記の英国企業であり、経営者も英国人であったが、取締役会の現地化が行われた結果、77年にマレーシア籍の企業へと改組、79年には本社をマレーシアに移転して、マレーシア企業として新スタートを切った。SDの現在の最大株主は、大蔵省傘下の国策投資会社であるPNBである。
PNBについて簡単に説明しておきたい。周知のようにマレーシアは、マレー人、華人、インド人から成る複合民族国家であり、国家の安定的な発展のために、民族間の経済格差是正を国是としている。その実現のために、70年にマレーシア政府は、ブミプトラ(マレー系マレーシア人)優遇策である新経済政策(NEP)を採用したが、その具体的な目標の1つは、株式会社におけるマレー人の持ち株比率を30%まで向上させるというものであった。しかし、ブミプトラの企業活動は低調であったため、政府資本が外資および華人資本の持ち株を買い取り、ブミプトラ個人に分配するという方式が考案された。その実施主体となったのが、国策投資会社であるPNBである。PNBは、国内最大の機関投資家であり、ブミプトラ個人が委託した資金によって企業株式を取得し、ブミプトラ化を推進するとともに、投資に応じた配当を行う。PNBの出資先は、旧英国系プランテーションや、旧華人系金融機関、民営化された旧公営企業など多様であり、マレーシアを代表する大手企業も多い。PNBは、出資は行うが、経営への関与は小さい。
旧英国系商社としての出自と、現在の最大株主が国策投資会社であるという特殊性によって、SDの経営は、所有と経営が一体化したファミリー・ビジネス的な経営スタイルとは一線を画している。現地化後の新生SDにおける経営の変化をみると、78年に組織改革が行われ、事業部制を採用、(1)プランテーション、(2)トラクター、(3)商品貿易および加工、(4)貿易・製造(香港)、(5)貿易・製造(アセアン・太平洋)、(6)西欧、の6事業部が設置された。現地化後、初代会長となったのは、元大蔵大臣のTan Siew Sin氏であったが、経営のトップには英国人のJames Reid Scott氏がスカウトされ、82年にAhmad Yahaya氏がCEOに昇進するまで、リリーフの役割を果たした。30年生まれのAhmad Yahaya氏は、66年から29年間にわたって中央銀行の役員を務めたが、78年に48歳にして民間企業の副CEOとしてSDに参加し、82~93年までCEO、93年以降は取締役会副会長として、新生SDの発展に貢献している。
(2) サイム・ダービーの経営陣
現在、CEOを務めるNik Mohamed氏は、新生SDの3代目である。同氏は、中央銀行人脈から離れた初のトップであり、就任当時、「生え抜き」という形容詞が使われたが、SDへの参加は85年である。50年生まれの同氏は、70年代に、当時はまだSDの傘下に入っていなかったダンロップ・マレーシアに現場勤務として入社した。78年に就学のために退職し、豪マナッシュ大学でメカニカル・エンジニアの学位を取得、製造業企業への勤務を経て、85年にSDの子会社の1つであるCentury Batteries社に就職した。その時点の職務は、同社の社長である。その前の勤務先である製造業企業の名は不明であるが、ファミリー・ビジネスであったと説明されている(注14)ことから、ファミリーの一員ではない同氏の昇進が限られたものであったこと、しかし、Century Batteries社に社長として採用されるだけの実績を示すポストにあったことが想像される。SD参加後は、88年にマレーシア事業部長、91年に事業部長(Director of Operations、現在はこのポストはない)へと昇進、92年には取締役会に名前を連ねた。93年には、43歳の若さでCEOに就任し、「保守的」といわれてきたSDに新風を吹き込み、対欧米投資拡大などの積極策を採用、95年にはマレーシアの「Manager of the Year」に選出された。一方、2代目会長の座には、62~80年まで中央銀行総裁を務めて、PNB会長となったIsmail Mahamed Ali氏が就いた。同氏は、98年7月に79歳で亡くなるまで、10年にわたってSDの会長職にあった。同氏の後任となったAhmad Sarji Abdul Hamid氏は、長期にわたる官僚生活の後にPNB会長となった人物であり、SDの会長は最大出資者であるPNBから出されることになっているとみられる。
98年8月現在のSDの経営陣をみると、取締役会のメンバーは12名であるが、経営執行部在籍者および経験者は4名であり、残りは社外役員によって構成されている。いずれもアセアン各国の財界人で、現地子会社でも会長職を務めているケースが多い。タイのアナン元首相、元シンガポール通貨管理庁長官、インドネシア・カルテックス会長などが名前を連ねている。SDの取締役会は、米国企業の取締役会と同様の性格を持つものであり、経営は執行部によって行われる。執行部は、製品事業部と地域事業部を中心に、15人の本部長によって構成される。各事業部には、5~11人から成る経営チームが置かれ、6~52社の子会社を管理している(図2)。
SDにおける採用の方法は、各種の媒体を通じた公募とヘッドハンティングが基本である。SDでは求職者の情報をデータベース化しており、これを用いてアプローチすることもある。国内有数の優良企業であるSDブランドの威力は大きく、求職者は多い。管理職候補生は、大卒以上の学歴が必要であり、留学経験者も多い。キャンパス・リクルートという形で新卒者の採用を行い、内部選抜を行うが、上級管理職についてはヘッドハンティングも行う。専門職(technical positions)以外は内部昇進を重視しているが、上級管理職の場合、ポジションで求められる役割を果たせなければ、外部採用者に取って代わられることもある。能力を示すのに与えられる期間はほぼ3年であり、評価は複数の上司によってなされる。(注15) 現CEOをみる限りでも、ある程度、内部での昇進を重ねた人物であれば、勤務期間の長短や中途入社は問題ではないようだ。限られたサンプルではあるが、現在の幹部の社内歴によれば、いくつかの子会社のトップを経験した後、子会社が属する事業部の責任者へと昇進し、複数の事業部責任者(製品事業部と地域事業部の両方)を経験するというパターンがみてとれる。しかし、現CEOが2つ目の事業部長の段階で取締役会に参加したのに対して、同様の抜擢を受けた者は現在のところいない。
(3) 金融部門への参入とスカウト人事
新規事業参入に伴うヘッドハンティングでは、金融部門への参入が好例である。95年11月、SDは国内第3位の華人系金融グループであるMUBC株の60%を買収し、金融分野に参入した。この時期、マレーシアでは、将来的な金融セクターの自由化をにらんで、海外の金融機関に太刀打ちできる「グローバル・バンク」の育成に向け、合併を通じた金融機関の大型化や集約化が奨励されており、資金力のあるSDの金融業参入は大きな注目を集めた。
MUBCの買収後、SDは金融界の重鎮ともいえるIsmail Zakaria氏を、同行のCEOおよびグループの金融事業部門の責任者としてスカウトした。同氏は、マレーシアのトップ行であるMaybankに14年勤務したが、91年にDCB Bank(現RHB Bank)のCEOとして転出、長らく銀行協会会長職も務めた。94年には、かつての同僚であるAhmad Mohd Don氏(Maybank CEO)と中央銀行総裁の座を競った。(注16)
97年6月終了の年度決算では、金融部門は、実にグループの総利益の約3分の1を稼ぎ出すという好パフォーマンスをみせ、SDの新たな中核事業としての期待を集めた。金融部門の利益は、Sime Bankと改名された旧MUBCの銀行部門が上げたものであった。しかし、97年12月の中間決算では、金融部門は一転して、18億リンギという巨額の欠損を報告した。銀行間借り入れに依存した、過大な貸し出しが理由とみられている。当時、グループの最高財務責任者(CFO)であったSyed Fahkri Barakbah氏は、Sime Bankに対し、クレジット・リスクに対する警告を発していたが、事業部の独立性は強く、チェック機能はほとんど働いていなかった。(注17) Ismail Zakaria氏は、98年1月にSDを退職、99年4月には不正融資に絡む罪状で起訴されている。この経験は、外部から大物経営者をスカウトして権限を一任する場合の難しさを物語るものであろう。
その後、SDでは、95年に半ば引退していたAhmad Yahaya氏がSime BankのCEOに就任し、事後処理を行うと同時に、事業開発(Corporate Development)部長に退いていたMartin Smith Berry氏がCFOに返り咲いて、グループの引き締めを図っている。両者は、現地化当時からSDに参加し、グループのCEOとCFOとして80年代半ばの不況を乗り切ったベテランであるが、再登板して今回の苦境に当たることとなった。現地紙はこの動向を「保守化」と評している(注18)が、その後のSDは拡大路線から一転して、金融事業のRHB Bankへの売却、海外のリゾート事業の売却などのリストラ策を実行している。
SDはその特殊性ゆえに、早期から専門経営者による経営が行われてきた企業であるが、専門経営者の割合が増大していくアジア企業にとって、1つの先行例を示していると考えられよう。
III.システム進化への模索
80年代以降、アジア企業における人的資源管理は、近代的なシステムへの進化を模索している。進化を促した第一の要因としては、事業の多角化・拡大が挙げられる。経営判断をサポートする専門知識、システマティックな管理に対する必要性の増大が、高度な教育を受けた専門経営者による経営参加を促進した。その結果、こうした人材を獲得・育成していくための管理システムが必要となった。
第二の要因としては、外資系企業の大量の進出が挙げられる。50年代には、欧州における米国企業の大量の進出が、欧州企業の経営近代化を促進した(注19)といわれる。身近に出現した競合相手の異質の経営手法から学ぶというモデル効果や米系企業でスキルを身につけた人材のスピンアウトによる移転効果があったためであろう。80年代後半以降のアジアにおいても、外資系企業で「訓練された」マネジャーの絶対数は明らかに増大しており、程度に差はあっても同様の効果が生じたと考えられる。
さらに、通貨危機後、企業経営に対して透明性が強く求められているのは周知の通りであり、アジアにおいて、国際標準とみなされる(実際には米国型の)ビジネス慣行が急速に浸透していく可能性が高まっている。人的資源管理も、こうした動きと無縁ではない。
米国型への接近を受容する要素は、企業の内側にも生じている。例えば、管理職およびその予備軍に占める欧米留学経験者の増大である。UNESCOの統計年鑑(注20)によれば、アジアから欧米への留学生は、年間約69万人に達している。絶対数としては、中国の留学生が約12万人と最も多いが、人口比でみると、香港、シンガポール、マレーシア、韓国の留学率が高く、韓国の留学生は絶対数でも日本を上回る規模にある。留学先をみると、その4割以上が米国であり、2位のドイツ(8%)、3位の英国(7%)を大きく引き離している。これらの留学生は帰国後、外資系企業や、地場の大手企業グループ、官庁に幹部候補生として就職する。大手のファミリー・ビジネスの後継者自身が欧米留学経験者である例も多い。これらの人材にとって、明示的な米国型の管理システムは馴染みやすいものであることが想像される。
留学生に限らず、高学歴層では一般に、欧米系企業の人気が高い。海外経済協力基金(1997)のアンケート調査から、タイ、インドネシア、フィリピンの大学生の希望就職先をみると、タイでは欧米系企業への就職希望者50.9%に対して日系企業への就職希望者が17.2%、インドネシアでは欧米系30.9%に対して日系33.3%、フィリピンでは欧米系43.2%に対して日系24.9%であり、日系企業を希望した学生が欧米系企業を希望した学生を上回った国は、インドネシアのみであった。
深川(1997)は、韓国の労働市場について、外部労働市場を補完する形で専門教育が充実した米国型でもなく、内部労働市場を補完する形で企業教育が徹底した日本型でもない点を指摘しているが、この特徴はアジア全体に共通していると考えられる。II でもみたように、アジアの大手企業の人的資源管理システムは、形成途上ながら、明確な職務範囲の設定や客観的評価に対する強い志向など、米国型の管理システムからの影響を示している。労働市場についても、高成長下で好条件の職場が次々に出現したこともあり、転職がマイナスに働く社会ではない。しかし、人材の流動性の高さは、企業の社内教育に対する意欲の低下や、教育そのものの阻害要因となる可能性が高い。専門教育が発達していない状況下での人材の流動性は、質を伴う管理職の需給ギャップの拡大を招いたと考えられる。人材の育成をどこが引き受けるかという課題が残されたのである。
注
- 本稿では、理念、手法も含めた管理体制という意味で、システムという言葉を用いている。
- 詳しくは、伊丹・加護野(1989)など。
- 猪木(1996)p.187。
- 小池(1997)p.51。
- 詳しくは、小池(1991)を参照。
- 「文脈的技能」が、企業内部の文脈において情報共有を有効に行うための技能であるのに対して、その対になる「機能的技能」は、ある特定の情報処理に特化しており、かつ企業を超えて通用する技能とされている。青木・奥野(1996)、p.78~79。
- 橋本(1995a)、p.178。
- 胥(1996)、p.31。原典は、Kaplan, Steven N., 「Top Executive Rewards and Firm Performance
: A Comparison of Japan and the U.S.」(『Journal of Political Economy』 102、1994年所収)で、「Fortune」誌(1981年)にランクされた日本企業119社の社長、米国企業146社のCEOのデータを基にしている。
- 高橋(1998)、p.58。
- 加藤(1996)、p.61~63。
- 末廣(1997b)、p.144。
- ただし、不況のため、現在は新卒採用を中止している企業も多い。
- タイの事務系高学歴者の勤務傾向として、チュラロンコン大学のMBA課程の学生のバックグラウンドを紹介しておきたい。83~97年の入学者累計979人のうち、過去に転職経験がない者は38.8%、転職経験1回の者は34.7%で、残りは2~4回の転職を経験している。転職の理由は、(1)より良い職を得るため(20%)、(2)新たなキャリアへの挑戦(17%)、(3)より高いポジションを得るため(13%)と回答している。また、最初の職歴に、金融関係を挙げた者の比率が51.1%と高く、現在の職業をみても49.0%の者が金融機関に就労している。累計のデータがないため、97~99年のデータでみると、海外の大学卒業者は全体の3割前後、平均年齢は27歳と若い。
- 96年8月28日付け「Business Times」紙。
- SD社におけるヒアリング(98年5月)。
- 結局、Ahmad Mohd Don氏が総裁の座に就いたが、同氏は金融緩和策をめぐって首相と対立し、98年8月に事実上、更迭された。
- 『Far Eastern Economic Review』誌、98年3月19日号。
- 98年1月23日付け「Business Times(Singapore)」紙。
- 橋本(1995b)、p.58。
- 対象年は94~96年と、国によってばらつきがある。
主要参考文献
- 青木昌彦、奥野正寛『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会 1996年
- 伊丹敬之、加護野忠男『経営学入門』日本経済新聞社 1989年
- 猪木武徳『学校と工場』読売新聞社 1996年
- 遠藤公嗣「人事査定制度の日本化」(橋本寿郎編『日本企業システムの戦後史』東京大学出版会 1996年所収)
- 加藤秀樹編『アジア各国の社会・経済システム』東洋経済新報社 1996年
- 海外経済協力基金(OECF)開発援助研究所『東南アジア3カ国の高等教育の現状と課題』 1997年
- 小池和男『大卒ホワイトカラーの人材育成』東洋経済新報社 1991年
- 小池和男『日本企業の人材形成』中公新書 1997年
- 小池賢治、星野妙子編『発展途上国のビジネスグループ』アジア経済研究所 1997年
- 末廣昭(1997a)「タイにおける労働市場と人事労務管理の変容」(東京大学『社会科学研究』第48巻、1997年所収)
- 末廣昭(1997b)「企業家と革新」(アジア経済研究所『テキストブック開発経済学』有斐閣 1997年所収)
- 末廣昭、南原真『タイの財閥』同文館 1992年
- 高橋俊介『人材マネジメント論』東洋経済新報社 1998年
- 橋本寿郎(1995a)『戦後の日本経済』岩波新書1995年
- 橋本寿郎(1995b)『20世紀資本主義I-技術革新と生産システム』東京大学出版会 1995年
- 深川由起子『韓国・先進国経済論』日本経済新聞社 1997年
- 胥鵬「経営者インセンティブ」(伊藤秀史編『日本の企業システム』東京大学出版会 1996年)