RIM 環太平洋ビジネス情報 2002年1月Vol.2 No.4
グローバル化:機会と挑戦
2002年01月01日 香港駐在員事務所長 呉軍華
はじめに
2001年、9月17日から19日にかけて、「第6回世界華商大会(The 6th World Chinese Entrepreneurs Convention)」が中国の南京で開かれた。同大会は1991年、世界の華人(中国系外国人)や華僑のビジネス交流の促進を目的に、リー・クアン・ユー元シンガポール首相や香港の財界人等の提唱によってシンガポールで始まった。以来、香港(第二回、93年)、バンコク(第三回、95年)、バンクーバー(第四回、97年)、メルボルン(第五回、99年)を経て、今回に至った。初めて中国本土で開かれたこともあって、計4,735人の参加者が集まり、海外からの参加者もこれまでの最高となる3,300人に上り、計77カ国・地域に及んだ。
大会は、経済人の団体である中華全国工商連合会主催、中国海外交流協会・中国国際貿易促進委員会・中華全国帰国華僑連合会共催、南京市政府後援の形で開かれたが、中央政府も多大な関心を示し、李瑞環全国政治協商会議主席、朱鎔基首相、銭基副首相をはじめとして、北京から多くの指導者がかけつけた。江沢民主席の祝電で開幕し、初日に、李瑞環主席が開幕スピーチを行った。最終日には、朱鎔基首相が一時間以上にわたって熱のこもったスピーチを行った後、国家計画委員会や中国人民銀行(中央銀行)、対外経済貿易合作部などの中央官庁のトップによる「中国経済論壇」が開かれた。
筆者は日本からの唯一の代表として、中国内外の著名な企業人、エコノミスト20人とともに、「名人論壇」で「グローバル化:機会と挑戦」と題するスピーチを行った。大会招待の特別ゲストのため、李瑞環主席、朱鎔基首相をはじめとする中国政府の指導者と面談する機会にも恵まれた。とりわけ印象に残ったのは、「今後の中国で必要なのは現代的な管理手法、先進技術、人材だ」という朱鎔基首相の指摘と、「中国は引き続き資金が必要だが、より必要なのは人材だ」と強調した戴相龍中国人民銀行総裁の言葉であった。資金、技術の導入で始まった中国の対外開放は、いよいよ人材の導入に重点が移り、これに伴い、中国の国づくりも、人々の物資的生活のレベルアップから、社会制度や文化といったソフト面も含むトータルのシステムのレベルアップや変革を目指す段階を迎えたという実感を得ることができた。
以下は、筆者が同大会で行ったスピーチである。
ご来場の皆様、今日は。
まず、この場を借りて、在日華人・華僑の代表として、「名人論壇」に推薦してくださった日本中華総商会、在日本中国大使館に感謝の意を表したいと思います。また、大会特別ゲストとして招待してくださった中華全国工商連合会の経叔平主席にもお礼を申し上げます。世界の華人・華僑が一同に集まった「世界華商大会」で発言する機会を与えて頂き、とても光栄に存じます。
私の演題は「グローバル化:機会と挑戦」です。ご存知の通り、これはすでに多くの専門家や識者によって議論し尽くされてきたテーマです。それにもかかわらず、私はここでまた斬新で独特のオピニオンを述べることができるのでしょうか。正直に申し上げますと、それほどの自信を持っておりません。しかし、少なくとも私の講演を聞いて頂くこれからの20分間が、皆様の昼寝の時間にならないように心掛けてみます。
今日の話は、具体的に二つの側面から進めていきたいと思います。まず一つは、われわれにとって、グローバル化とは何を意味するものであるか、言い方を変えれば、グローバル化は、一体われわれに何をもたらしているのかということです。もう一つは、どのようにすればグローバル化による挑戦に対応し、グローバル化という諸刃の剣を己の用にすることができるのか、ということです。
グローバル化はわれわれの世界に何をもたらしてくれているのでしょうか。この問題に答えるために、まず簡単に議論の対象となる「グローバル化」の定義を改めて確認させて頂きます。「グローバル化」の定義は何でしょうか。これは議論する人の立場やコンセプトによってかなり違ってくるものだというべきでしょう。私がここでいう「グローバル化」は、あくまでも以下のような理解に基づいております。すなわち、「グローバル化」は、各種の生産要素、または資源が伝統的国民国家の国境や政治・イデオロギー、社会制度の差異を乗り越えて、自由に動くことによって、最適配置をする過程とその結果です。この定義によって明らかな通り、ここでの「グローバル化」はあくまでも経済のグローバル化を指します。それでは、この経済の「グローバル化」は、われわれの経済にどのような影響をもたらしているのかを考えてみましょう。私は二つ挙げることができると思います。
まず一つは、「グローバル化」により、世界各国の景気変動の同時性と不安定性が増しているということです。現在のアメリカ経済の一挙一動に、各国が一喜一憂するという現実に象徴されている通り、「グローバル化」が進展すれば、各国経済の景気サイクルの同時性が高まることは明らかです。歴史を振り返ってみても、この現象を確認することができます。ご承知の通り、19世紀後半から20世紀初期にかけて、「グローバル化」が急速に進んだ時期があります。
その時期には各国経済、とくに英米をはじめとする当時の主要先進国の景気変動は非常に強い同時性を表していました。だからこそ、われわれはアメリカ経済の不況やイギリス経済の停滞という代わりに、1929年の大恐慌を「世界大恐慌」と称しているわけです。「グローバル化」がわれわれの経済にもたらしたもう一つの大きな影響は、グローバルな世界市場の形成です。グローバルな世界市場の形成は、資源をグローバルな範囲で有効に配分することを可能とします。いかなる国、企業、個人も国際間で展開される協力・分業体制に参加することによって、自らにとって最も適する発展の方向と方法を見つけることが可能です。過去 20年来、改革・開放路線のもとでの経済分野における中国の成功は、中国が「グローバル化」によってもたらされた挑戦に対応し、その機会を利用するに当たって、とりあえずの合格点を得たことを示唆します。経済成長率が世界トップ・クラスに達していると同時に、中国経済の貿易依存度と輸出依存度が1978 年の9.8%、4.6%から、現在の46.4%、24.4%まで大きく上昇したことに象徴される通り、中国は「グローバル化」を拒否しなかっただけにとどまらず、「グローバル化」を自らの経済開発に生かしてきました。少なくとも現在に至る段階においては、「グローバル化」の進展を背景に展開されてきた国際間の経済協力・分業体制を利用するに当たって、中国は勝者であると言って過言ではありません。
それでは、「グローバル化」によって敗者となる者はいるのでしょうか。先進国にとっても発展途上国にとっても、「グローバル化」は敗者のいないウィン・ウィン・ゲームだという人がいます。一方、「グローバル化」は金持ちがますます豊かになり、貧者がますます貧しくなるというゼロ・サム・ゲームだという人もいます。私は、この二つの見方はともに事実を部分的に反映しており、完全に正しいとも完全に間違っているともいえないと思います。個人的には、私は前者により多くの共感を得ています。なぜでしょうか。われわれは「グローバル化」の進展を背景に日増しに激化する経済競争が、どの国、企業、個人にとっても完全に公平で平等ではないことを認めなければなりません。競争するに当たっての初期条件や持っている競争能力において、先進国と発展途上国の間に大きな格差があることも否定できません。さらに、歴史的な原因によって、現在の国際社会で通用する競争ルールや競争条件のほとんどは先進国によって制定されているために、多かれ少なかれ先進国にとって有利であることも事実です。それにもかかわらず、なぜ私は前者に、より賛同するのでしょうか。程度の差はあっても、「グローバル化」は先進国か発展途上国かを問わずいかなる国にとっても、経済開発を進めるに当たっての大きなチャンスであると同時に、「グローバル化」の進展に伴う衝撃、リスクは、決してその国の発展段階の違いによって異なってくるものではないとみているからです。
「グローバル化」が急速に進展した1980年代と90年代の歴史を振りかえってみれば分かるように、世界全体としての所得分配が悪化しました。しかし、一部の発展途上国がますます貧しくなっているなかで、一部の先進国、例えば日本や一部のヨーロッパの国々の所得水準も相対的に下がってきています。なぜ、このような現象が現れてきたのでしょうか。「グローバル化」という鏡を通じて、そのおおよその原因を見出すことができます。1980年代から90年代にかけての各国の発展の歴史は、われわれに以下のようなことを教えてくれます。すなわち、経済の成長率が世界の平均水準を上回った国、言い換えればグローバル時代の勝者となった国は、ほぼ例外なく「グローバル化」による衝撃を直視し、「グローバル化」の進展に伴って激化する競争に、積極的に身を投じた国でした。逆に、そうでない国はグローバル時代の敗者になってしまいました。
歴史はまた、われわれにもう一つの真実を伝えてくれます。すなわち、南北格差が拡大する背景には、一部の国、特に一部の発展途上国が「グローバル化」を拒否したことがあるということです。鎖国的な政策が取られた結果、いわゆる民族産業が振興できなかっただけでなく、その国全体の発展ペースも、世界平均のレベルから取り残されました。
すでに申し上げました通り、私は「グローバル化」に伴うリスクや衝撃は、決してその国の発展レベルによって異なるとは考えておりません。「グローバル化」並びに「グローバル化」に伴う競争を拒否したが故に、貧しい国がますます貧しくなっただけでなく、一部の豊かな国の所得水準も相対的に下がってしまいました。日本はよい例でしょう。ご存知の通り、アメリカの一部の著名な学者も含めて、90年代初期までなおJapan as number oneと主張していました。しかし、日本経済はどうしてその後、突如元気を失ったのでしょうか。どうして、貿易立国で身を立て、国際間の産業協力・分業を通じて大きな利益を得てきたはずの日本が、今や中国と葱やシイタケなどの農産品を巡って通商摩擦を起してしまったのでしょうか。その背景にはいろいろの原因がありますが、そのなかの一つは日本において、一部の人、企業、または団体が、自らの既得権益を守るために競争を恐れ、競争を拒否しようとしていることにあると思われます。
拡大し続ける世界の所得格差や日本の経験を通して、われわれは「グローバル化はフリー・ランチではない」ことを理解することができます。「貧者更貧(貧しいものがますます貧しくなる)」という運命から脱出するために、中国はたえず懸命に努力するほか道がありません。では、どのようにすれば、「グローバル化」という諸刃の剣を己の用に利用することができるのでしょうか。答えはただ一つです。すなわち、中国政府も中国の企業も中国の人々も、ともに利用できる方法やチャンスをできるだけ生かし、自らの競争力を絶えず高めていくことです。そして、競争力を維持し強化していくためには、まず現存制度の不合理な部分を取り除かなければなりません。
「グローバル化」は市場の競争原理に基づいて進められてきたのですが、それに適合するための制度の創造的革新は、決して経済分野に限られるものではなく、政治・社会システムを含む広範囲の革新が求められています。このうち、時代の先を読み取り、適切な政策を決定できることが、日増しに複雑化し変化する競争環境において、勝者の地位を保ちつづけるための前提条件の一つとしてあげることができます。そのためには、マクロ的にもミクロ的にも、政策に対する異なる意見を受け入れるシステムが不可欠であり、寛容性のより高い社会の構築が必要となります。
歴史の経験は貴重ですが、われわれは同時に歴史の束縛から自らを開放しなければなりません。中国では、「憶苦思甜」、すなわち、新中国誕生以前の苦しい生活を憶えつつ共産党支配下の幸せな現実を有難く思うという伝統教育が行われてきました。確かに、「憶苦思甜」的な教育は経済開発などにおいて、これまでに達成してきた成果を確認することによって、今日の幸せな生活の大切さを実感させることができます。しかし、こうしたあくまでも自分の過去との比較に満足するような教育は、自画自賛、自我麻痺の精神的麻薬にもなりうると思われます。思い起こせば、バブル経済が弾けた当初、日本が大きな危機に直面していると指摘した識者がいました。それにもかかわらず、なぜ1990年代は結局、日本にとって「失われた十年間」になってしまったのでしょうか。その背景には多くの原因がありますが、最大の原因はつい最近まで、政府から企業、個人まで、日本社会では抜本的な改革を推し進めるに当たって不可欠な危機意識が、欠如していたことだと思います。「憶苦思甜」とまでいわなくても、多くの日本人は自らの歴史という縦との比較においても、他の国という横との比較においても、いまでにトップレベルの生活をエンジョイできています。世界第2の経済大国である日本は、まだ多少とも余裕があるかもしれませんが、国民の平均所得がやっと 800ドル台になった中国は、これまでの経済開発を進めてきた過程で成し遂げた成果に自惚れをするようでは、明るい未来を開くことができません。「憶苦思甜」的思考パターンは早く終るべきです。中国に必要なのは、かつて小平氏が呼びかけた一生懸命に経済発展に励まないと、中国が地球の一員である「球籍」を失ってしまう可能性があるという危機教育です。
グローバル時代の挑戦に直面して、中国は自らの文化に対しても反省をしなければなりません。
学生時代、「貧しくても自分の国を愛すべきだ。しかし、絶対、狭隘な民族主義者になってはいけない」と父親にいわれたことがあります。日本文学を学ぶ4年間の大学生活は、日本を通じてアジアをみる視点を与えてくれました。この結果、私は半ば「アジア主義者」になり、西洋、とりわけアメリカのカルチャーに対してかなりの抵抗感を持っていました。心の奥から、アジアにはアジアに相応しい発展の道があるはずであり、あるべきだと堅く信じていました。戦後の日本経済の奇跡的な高度成長はこのような私にとって大きな励みとなり、大学卒業と同時に日本に渡りました。しかし、バブル経済が日本で膨張し弾けた過程を目撃する一方で、苦しい構造調整を通して蘇ったアメリカ経済の活力を目のあたりにして、私の信念が大きく揺れ動きました。その原因を探るべく、アメリカのカルチャーに興味を持つようになりました。昨年9月から、会社の支援によって、太平洋を渡りハーバード大学のビジティング・スカラーになりました。当然のことながら、わずか一年足らずの時間で、アメリカのカルチャーを深くかつ全面的に理解するのは不可能です。しかし、このわずかな滞在経験は、すでに中国文化を反省するうえでいくつかのヒントをあたえてくれました。
ご承知の通り、アメリカ社会は世界各国からの移民によって構成されているため、サラダ・ボールに例えられています。アメリカでの生活が始まってすぐ、この言葉の意味がリアルに分かったような気がしました。一時期、いわゆるアメリカン・イングリッシュを勉強したいと思っていた私がアメリカにきて学んだものは、結局世界各国の言葉の訛りが混じりあった英語になるのではないかと心配するほどでした。なぜなら、アメリカで出会った人々は、たとえすでにアメリカに移り住んで10年や15年、20年経った人も、回りのことを気にせず、ごく自然に強い母国語訛りの英語を喋っています。単一民族国家である日本に長年住んできた私は、最初はとても大きな驚きを覚えました。しかし、しばらく経つと、何か悟ったような気がしました。なるほど、アメリカ社会は確かにサラダ・ボールです。しかも、このボールに盛り合わせたサラダの材料となる果物や野菜は、基本的にそれぞれのオリジナルの味をそのままキープしているのです。問題は、元の味をそれぞれキープしていた果物や野菜で構成されているアメリカ社会が、なぜ強い求心力を維持することができたかということです。私の答えは、アメリカはその出身がどこれあれ、すべての人の味覚に合うようなドレッシング、すなわちアメリカン・ドリームという名のドレッシングを用意しているということです。まさに、このドレッシングをもっているからこそ、移民で構成されたアメリカ社会が、これだけ強い求心力を維持でき、また、まさに各種果物や野菜のオリジナルな味をそのまま残しているからこそ、アメリカ社会が柔軟性を保ち、建国以来常に上り坂を歩みつづけることができたのではないでのでしょうか。
サラダ・ボールたるアメリカ社会を観察しつつ中国のことを思い出しました。中国人社会については、昔から「一盤散砂」、すなわち、散らばっている砂であるとの例えがあります。しかし、良く考えてみればサラダ・ボールと「一盤散砂」は、実は異なる物資の同じ状況に対する描写とも考えられます。そうしますと、中国人社会はなぜ求心力が欠けているのでしょうか。あるいは、中国人同士の内部紛争が比較的多いのはなぜでしょうか。私は、中国人社会が一つのものを欠いているからだと思います。すなわち、オリジナルな味を持つ果物や野菜を美味しいサラダに仕立てるドレッシングを欠いているということです。ばらばらの砂を固いコンクリートに仕立てる粘着剤を持っていないということです。もし、中国政府、中国企業の経営者が人々にアメリカン・ドリームのようなドレッシングを与えることができれば、中国はきっと「グローバル化」による挑戦に対応でき、また、21世紀が中国の世紀になるというのも決して夢ではないと、期待も込めて、私は信じております。
ご静聴、ありがとうございました。