RIM 環太平洋ビジネス情報 2004年1月Vol.4 No.12
人民元切り上げは容易ではない
2004年01月01日 環太平洋研究センター 顧問 渡辺利夫
人民元切り上げへの国際的圧力がにわかに強まっている。急先鋒はアメリカである。中国はアメリカにとって最大の貿易赤字相手国となり、現行の人民元レートが持続すれば、貿易赤字はほどなくして許容範囲を超えよう。再選の成否を問われる大統領戦の開始を眼前に控えて、ブッシュ政権はその政治的支持基盤である産業界からの人民元切り上げ要求を真正面から受け止めざるをえない。繊維産業や鉄鋼産業の「族議員」たちの対中強硬発言が日増しに強まっている。人民元が実勢に比して切り上げられている分だけ対中輸入関税率を引き上げるべきだという、自由貿易原則からの逸脱を平然と主張する政治家さえ少なくない。
WTO(世界貿易機関)に加盟した中国が身の丈に応じて為替レートを切り上げることは国際的責務だという主張は、アメリカはもとより日本やEU諸国の産業界やジャーナリズムでも根強い。確かに中国の対先進国貿易収支は圧倒的に大きな黒字を計上しており、何よりも中国への企業進出(直接投資)の累増傾向はやむ気配がない。対中直接投資は対米直接投資を抜いて世界第1位である。
その結果、中国の外貨準備高は日本に次ぐ世界第2位となったのだが、これを可能ならしめたのが、1994年に30パーセント以上切り下げられた人民元レート(1ドル=8.2760~8.2800元)を堅持するための恒常的な外国為替市場介入である。管理フロート制とはいうものの、このレートが10年近くも維持されてきたというのであれば、実質的には固定レート制である。
外国為替市場介入による膨大なドル買い・人民元売りは、当然、通貨発行量を増大させてインフレ圧力となるが、これを国債発行によって吸収し通貨流通量を抑え込んで固定レート制を継続してきた。いずれにせよ、中国がこれだけ大きな対外不均衡を抱えもつ以上、言葉の真の意味での管理「フロート」制にもどすべきだという日欧米の主張には理がある。
「柔軟な為替レート」に移行しない限り、中国は日欧米との貿易摩擦を一段と深刻化させるという代償を支払わざるをえない。このことを中国指導部が知らないはずもない。事実、中国の政府ブレーン・エコノミストの間には、人民元を一定の幅のなかで制御しながら変動を許容すべしとする意見が出ており、国際会議の場などでそうした見解を発言する研究者も生まれている。
しかし、すべての決定を党中央にゆだねる中国である。党中央が切り上げに踏み切るかどうかといえば、現行レートを可能な限り維持しようという考えているにちがいない。解決を要すべき国内問題と現行レートとが分かち難く結びついているからであり、党中央の選択の幅は外国から眺めるよりもはるかに狭いと私はみる。
WTO加盟後に成立した胡錦濤=温家宝体制の最重要の課題は、高まる労働供給圧力に抗して社会的・政治的安定性をいかに守るかである。WTO加盟にともなう関税率引き下げ、非関税障壁の撤廃などがいよいよ本格的な実施段階に入った。製造業はもとより流通、金融、情報通信さらには農業にいたる全産業分野で、中国はグローバルな大競争の波に洗われる。非効率的な企業や産業の市場淘汰は不可避であり、そこから排出されるであろう膨大な失業者、一時帰休者にいかに就業の場を提供出来るかが現政権の政策ポイントである。就業機会の拡大は高成長によってこれを実現するよりほかない。実際、1昨年秋の第16回党大会、昨春の全人代(全国人民代表大会)における政治的スローガンは、2020年の国内総生産額を2000年の4倍にするというもの(「翻両番」)であった。この間に要する年平均の実質経済成長率は7.2パーセントである。
中国の都市失業者は就業者総数2億4,000万人のうち3,000万人を超え、農村の潜在失業者は5億の農村就業者のうち1億6,000万人に及ぶという。WTO加盟による自由化・規制緩和により、非効率的な国有企業の淘汰が都市失業者を累増させ、農業の自由化・規制緩和が農産品の輸入増加を招いて農村の潜在失業者を顕在化させる危険性がある。
2000年の人口センサスによれば、戸籍地を6カ月以上離れて他地域で生活・就業する「流動人口」は1億2,000万人、そのうち他省へ流動する人口は 4,250万人に達する。貧困な中西部から発展する沿海部諸都市への流動が主流である。今井宏氏の推計によれば、実質成長率が7.2パーセントを今後20 年持続したとしても、2001年末時点における2億134万人の失業者および潜在失業者は、2010年末において2億2,639万人、2020年末において2億1,624万人のレベルに高どまりするだろうという(渡辺利夫編日本総合研究所調査部環太平洋研究センター著『ジレンマのなかの中国経済』東洋経済新報社、2003年)。7.2パーセントは中国にとっては、これを下回れば社会的不安定性を誘発するという意味で、政治的に許容可能な最下限の値なのである。
現在の中国に高成長をもたらしている要因は、まぎれもなく外資系企業の対中進出である。製造業生産額の約3割、輸出の5割以上を担うのが外資系企業である。花形産業である情報通信産業、次代のリーディングセクター自動車産業においてこの比率はさらに高い。中国は「大国」の歴史的先例にない高い外資依存国なのである。民族系企業がいずれ中国経済の中枢を占めることになろうが、その「いずれ」は予見しうる将来ではない。対中進出企業の投資と輸出によって高成長を維持するというのが、現在の中国に与えられているほとんど唯一のシナリオなのである。
人民元の切り上げはこのシナリオを狂わせるものとして、党中央によって認識されているにちがいない。あらゆる手段を動員して労働供給圧力に抗するというのが現政権の重要課題であってみれば、人民元切り上げが政策課題として浮上することはしばらくないであろう。先にも指摘したごとく、党中央の政策選択の幅は思いのほか狭い、というのが私の直感である。