Business & Economic Review 2003年12月号
【STUDIES】
マクロ経済政策の方向性に対する長期的視点からの考察-構造VARによるフィッシャー命題への国際比較アプローチ
2003年11月25日 新美一正
要約
- マクロ経済政策の立案・評価においては、長期的な視点からの考察が不可欠である。短期・近視眼的な視点から発動されたマクロ経済政策が、長期的には意図とは逆に、マクロ経済に好ましからざる影響をおよぼす危険性は、多くの識者が指摘してきたところである。本稿では、いわゆるリフレーション政策(マクロ経済政策の発動により、デフレーションからの脱却とマイルドなインフレーションの実現をめざす経済政策)の評価を、とくに長期的な視点から行う。具体的な分析対象は、「インフレ率の上昇は名目利子率の上昇によって完全に相殺され、実質利子率は長期的には不変である」という、いわゆるフィッシャー命題である。
- フィッシャー命題は、いわゆる「貨幣の中立性」という概念のなかでも、とくに「超中立性」と呼ばれる範疇に属する経済的命題である。一般に、貨幣の中立性とは、経済的な意思決定は実物要因のみに基づいて行われるので、貨幣を媒介とした金融政策の効果は長期的にはゼロ(中立)となること、と解されている。この中立性命題は、貨幣量と諸経済変数の水準変化に関しては、理論・実証の両面から強く支持され、また、それゆえに多くの経済学者によって半ば公理のように扱われてきた。これに対し、貨幣の超中立性は、貨幣量の変化率と経済変数水準との関係を対象とする概念である。意外なことに、いわゆる新古典派経済理論の枠組みにおいても、貨幣の超中立性を否定するような経済モデルの構築は十分に可能であり、既存の実証研究もまた、超中立性の成立に関しては必ずしも強い支持を与えてはいない。それゆえに、フィッシャー命題の成立を唯一の根拠とした、実証的手続きを欠くリフレ政策否定論は、十分な説得力を持ち得ないように思われる。リフレ政策の功罪を正しく評価するためには、現実のデータに基づく実証研究の積み上げが不可欠であり、これは本稿における主要な問題意識でもある。
- 貨幣の中立性に対して実証的な分析のメスを入れる場合、期待の変化や、経済変数の予期されざる動き(ショック)の恒久性などの問題を明示的に考慮したモデルの設定と推定作業とが必要である。近年のこの分野における実証研究の大部分が、データの時系列特性に配慮した構造VARアプローチを採用しているゆえんである。本稿では、Rapach[2003][25]による研究の拡張を意図し、インフレ率、名目利子率、実質GDPから成る3変数システムを、Blanchard and Quah[1989][4]が提示した識別スキームを用いて、構造VARとして推定した。そして、その推定結果から、Fisher and Seater[1993][15]が考案したARIMA モデルにおける中立性の評価指標(ある経済変数の恒久的ショックと他変数の変化との間の長期的な弾力性値)であるLRD(long- run derivative )を算出して、フィッシャー命題の成立をチェックした。対象国はOECD 加盟国のうち戦後期のデータがほぼ完備されている18カ国(データの特性から、実際に推定作業が行われたのはうち16カ国にとどまる)であり、対象国数の増加、わが国のデータに基づく推定作業を行っていること、および1990年代後半以降の世界的なディスインフレ~マイルド・デフレ局面におけるデータをサンプル中に含んでいること、の3点が、本稿における実証分析の主要な拡張部分である。
- 本稿における実証分析結果は以下の4 点に要約される。
(1)ほぼすべてのケースにわたって、インフレ率(π)と名目利子率(R)間におけるLRDの点推定値(LRD R ,π)は有意に1を下回っている。これは、恒久的なインフレ・ショックに対して名目利子率が完全には調整されない(したがって実質利子率は低下する)ことを意味しており、フィッシャー命題が現実経済においては成立していないことが確認出来る。
(2)推定対象国の平均インフレ率(年率)は3%台から10%にまで広がっているが、平均インフレ率とLRD R ,πとの間に統計的に有意な相関はみられない。このことは、少なくとも年率で1桁の枠内に長期的なインフレ率水準がとどまっている限り、インフレ率ショックに対して実質利子率が低下するという(1)の知見が頑健であることを示唆している。
(3)ほぼすべてのケースにおいて、インフレ率ショックと実質GDP(y)の水準との間のLRDの点推定値(LRD π,y)は正の値をとる、いずれも統計的にゼロから有意には離れていない。このことは、インフレ率に生じた恒久的ショックが、実質利子率の低下を通じて、長期的な実質GDP水準を引き上げるというメカニズム(いわゆるマンデル- トービン効果)が存在する可能性を示唆している。ただし、こうしたインフレとマクロ産出水準との間の正の相関は、仮に存在するとしても、かなり限定されたスケールにとどまるようである。
(4)このLRD y ,πを各国の平均インフレ率に回帰すると、回帰係数は負、かつ5%に近い水準で有意になる。したがって、相対的にインフレ率水準が高い国においては、インフレとマクロ産出水準との間の正の相関は、相対的低インフレ国に比較して、さらに一層、減衰している可能性が高い。この結果からは、インフレ率水準の国際格差は、長期的にみれば、各国におけるマクロ経済政策の効力に有意な影響を与えていることが示唆される。 - 本稿の分析結果から引き出される、わが国のマクロ経済政策における中長期的な方向性に対するインプリケーションは、以下の3 点に集約される。
(1)フィッシャー命題の成立を根拠としたリフレ政策無効論は、現実のデータによって否定される。インフレ率に予期しない恒久的ショックが生じた場合、実質利子率は低下し、それは長期的に軽微なマクロ産出水準の押し上げ効果を伴っている。その意味において、リフレ政策は副作用が少ないマクロ経済政策である。デフレの深刻な弊害を考えれば、現下のわが国経済のように、経済がデフレないしそれに近い状態に陥った場合、大胆なリフレ政策の発動をためらうべきではない。
(2)ただし、インフレ率とマクロ産出水準との間の正の相関関係は、かなり限定されたスケールにとどまるものであり、長期的な経済成長の原動力として期待することはもとより困難である。リフレ政策と供給サイドの強化政策とは、しばしば二者択一的な政策選択肢として理解される傾向があるが、その意味において、両者は、むしろ補完的な存在として理解されるべきである。「リフレ政策の発動が構造改革の進展を阻害する」という通俗的な主張は正鵠を得ていない。
(3)いったん、経済に高インフレ体質が定着してしまうと、リフレ政策のもたらす実体経済へのプラス効果はほぼネグリジブルになり、むしろインフレがもたらす社会的な損失の弊害の方がより憂慮される状況となる。リフレ政策を発動する場合には、将来的なインフレ率の上昇に対する自動的な安定装置をあらかじめ組み込んだ政策スキームを準備することが不可欠である。機動的な発動が可能な金融政策を主、この点で難がある財政政策を従とし、さらに政策発動を目標インフレ率の充足条件付きとする政策スキームは、この条件に合致する。多くの先進資本主義国において、マクロ経済政策の重点が金融政策に置かれ、同時にインフレ率目標を採用する国々が増えてきていることは、以上の考察と整合的である。