Business & Economic Review 2003年10月号
【OPINION】
証券取引所の公共性確保についての試案-大証不祥事を機に改めて考える
2003年09月25日 新美一正
- はじめに
大学の経済・経営系学部における、証券市場にかかわる講義科目が「ファイナンス」という横文字名称に統一されて久しい。かつて、大学教育における証券論ないし証券市場論が、「取引所論」という古式ゆかしい名称の下で、もっぱら証券取引所の制度や機能を論じる「縦書き学問」として講じられていたという経緯を知る向きは、今や少数派であろう。幸か不幸か、筆者はその少数派に属する一人であるが、そうした旧人類に属する証券アナリストにとって、先頃発覚した大阪証券取引所(大証)幹部による不正取引(仮装売買による出来高水増し・相場操縦容疑)事件は、驚愕に値する出来事であった。
元々、相対で行われていた証券取引を一定の場所(取引所)に集中し、売買仕法や清算方法に関して一定のルールを定め、それによって、公正な価格形成と十分な流動性を保証し得る円滑な証券取引の執行を確保する、というのが証券取引所誕生の歴史的経緯である。すなわち、売買の執行とそれを実現させるためのルール設定(自主規制)は証券取引所の本源的機能にほかならず、その意味で、今回の事件は単なる証券取引法違反の域にとどまる問題ではなく、取引所の存在意義そのものを揺るがす大不祥事といえる。明治初期、株式会社制度の発展を図るうえで証券取引所の設立が不可欠であると考えた渋沢栄一は、自ら株式取引所の定款および規則を制定して、政府と交渉し、ついに東京株式取引所の創設に漕ぎ着けたが、法制上許されていたにもかかわらず、自らが株式仲買人となることは拒否し、そればかりか取引所の株式も早期に処分して、取引所に対する自身および彼が経営する第一国立銀行の影響力を断ったという。市場取引の公正性確保に向け、禁欲的なまでに清廉な態度を貫いた渋沢の目には、この不祥事はどのように映るであろうか。
事件そのものの全容は、いずれ司直の手によって解明されるだろう。証券市場・証券取引にかかわる調査・分析業務に従事するわれわれに残された課題は、この不幸な事件を契機に、ここ数年の証券市場改革論議において、ともすれば見落とされてきた「証券取引所の公共性」という論点に、改めて真剣に向き合うことではないか。そもそも、2000年12月の証取法改正において、それまで非営利の会員自治組織形態と法定されていた証券取引所の株式会社化が認められた背景には、市場間競争を促進することによって従来の非効率な運営の改善を図ることと、株主のモニタリングによる経営ガヴァナンスの向上という二つの狙いが込められていたはずである。ところが、その後の推移をみる限り、取引所数は廃止・合併により減少し、取引の東証集中は加速して、市場間競争圧力はむしろ低下傾向にある。一方、事件報道によれば、大証の仮装売買行為の背景には、東証との市場間競争に劣位することに対するあせりがあったとされ、市場間の競争圧力が常に市場参加者にプラスの影響をもたらすとはいえないことが示唆される。もちろん、今回の不正取引そのものは2001年4月の大証の株式会社化以前の時期に行われていたものであるが、株式会社化による営利の追求と、自主規制機関としての取引所の性格が矛盾し得る可能性については、古くから指摘されてきたところでもある。市場間競争が十分に機能しないことを所与とした、証券取引所のガヴァナンスや取引所内部における利益相反問題、それらを踏まえた望ましい自主規制の在り方、等々に関する議論はほとんど行われてこなかったのが実情である。現時点において、それら諸問題を、証券取引所ないしは証券取引そのものの公共性とのかかわりで検討する意義は少なくないように思われる。
以上が本小論の基本的な問題意識である。
以下、まず第2節では、取引所の株式会社化に関するここ数年間の国際的な動きを整理しておく。ここで浮き彫りにされるのは、諸外国と比較したわが国における取引所株式会社化の「特異性」である。続く第3節では、取引所が株式会社化された際に、とりわけ「証券取引所の公共性」との関係で問題となり得る幾つかの論点を整理する。第4節では、以上の議論を踏まえ、今後のわが国において、証券取引所の自主規制機能を最も望ましい形で発揮させるための制度的な手当てについて論じる。 - 証券取引所株式会社化の国際的な経緯とわが国における株式会社化プロセスの特異性
証券監督者国際機構(International Organization of Securities Commissions,IOSCO )が2000年12月に発表した“Discussion Paper on Stock Exchange Demutualization ”によれば、1999年時点において、調査となった52 証券取引所のうち、15取引所がすでに株式会社組織形態をとっており、14取引所が株式会社化に対する加盟員の承認を得ていた。さらに、15取引所がその時点で株式会社組織への移行を検討中であった。まさに、20世紀末の時点において、「証券会社の株式会社化は世界的な潮流」(二上季代司)であったといえよう。2001年4月の大証、同年11月の東証の株式会社化についても、いずれもこうした世界的潮流に沿った組織形態の変更と見なすことが出来る。
しかしながら、表面上の類似性にもかかわらず、諸外国における取引所の株式会社化と、わが国におけるそれとの間には一つの本質的な違いが存在する。この点を浮き彫りにするために、欧米における株式会社化のプロセスを簡単にたどることとしよう。
まず、アメリカにおける証券取引所株式会社化の背景には、90年代に入って急速に成長してきたATS(Alternative Trading System)と呼ばれる私設証券取引システムとの競合問題があったといわれる。ATSとは、大口機関投資家の執行コストへの関心の高まりに対応して、相対による大口取引に特化する、いわば「第三の取引所」である。こうしたATS勃興の影響が直撃したのは、値付けを担当するマーケット・メーカーに対して発注者(投資家)が値ざや(スプレッド)を支払わなければならないNASDAQ市場であった。ATSでは、投資家同士が自らの注文を付け合わせるので、スプレッドの負担は存在せず、少額の場口銭を支払うだけで済む。当然に、新興のATSは従来勢力であるNASDAQ市場との間で顧客争奪競争を展開することとなり、その結果、両者は顧客を誘引するに足る、より効率的な取引システムを構築するための巨額のシステム投資を強いられることになった。
ところが、NASDAQの運営主体であるアメリカ証券業協会(NASD)のメンバーには、株式を一切取り扱わない地方債に特化した業者も少なくなく、彼らは当然ながらこうしたシステム投資負担に対して強い拒絶反応を示すことになる。NASDAQ市場が自らの生き残りを賭けたシステム投資に踏み切るためには、相互自治形態で運営されてきた取引所を株式会社組織に改組し、自らの行動の自由を確保すると同時に、株式の売却による資金調達を図る必要があった。結果的に、NASDは96年1月に至って、自主規制機関NASD Regulation とNASDAQ市場の管理・運営を行うNasdaq Stock Marketの2社を設立し、両者を100%子会社として統括する持ち株会社に衣替えすることとなった。
一方、ニューヨーク証券取引所(NYSE )は、新興のATSのうち、とくにコンピューターによる注文の自動執行機能(Electric ommunications Network,ECN )に注目し、自動執行機能を持たない自身の補完的存在となるだけではなく、それらを取り込むことによって、長年の競争相手であるNASDAQ市場の取引を相当程度、奪うことが可能であるという思惑から、99年末に長年堅持してきた取引所集中原則(ルール390)の撤廃を決定すると同時に、将来的には株式会社組織に移行する構想を公表した。国際的なプレゼンスの大きさからしばしば見過ごされがちだが、NYSE は場内でスペシャリスト(値付け業者)が手作業で取引を執行する、いわば旧世代に属する証券取引所である。当然ながらスペシャリストはシステム売買への移行に対する抵抗勢力であり、市場間競争への対応には彼らに代表される既得権益者の排除が必要となる。NYSEは株式会社化によるそれへの対応を企画したわけだが、NASDAQ とは異なり、とくに新興勢力との激しい競争圧力にさらされていたわけではなく、しかも、自らの優位性を揺るがしかねない集中原則の放棄を伴うという思い切った方針転換を含むものだったこともあって、NYSEの株式会社化構想はアメリカ国内のみならず、国際的にも証券関係者に多大な衝撃を与えた。わが国における取引所株式会社化論議に与えた影響も極めて大きかったように思われる。
もっとも、当のNYSEの株式会社構想はその後、ほどなくして頓挫することになった。株式会社化に際して、NYSE の構想は自主規制機能を自らの子会社にとどめていたのだが、SECがこれに難色を示しただけでなく、NASDもまた、自らの自主規制機関との経営統合を主張し、三者間で折り合いがつかなかったためである。
以上が、90年代後半のアメリカにおける取引所株式会社化の経緯であるが、他方、ヨーロッパでは今少し早い時期に、すなわち80年代後半から証券取引所株式ヨーロッパ会社化の動きが始まっていた。当地における株式会社化の触媒はEU 統合であり、具体的にはEU域内における証券業務の「単一免許制(single passport)」の採用である。これにより、その国に支店を持たない金融機関・証券業者に対しても各国の取引所は門戸を開放しなければならないことになり、いわゆる「遠隔地会員」制度が定着することになった。しかし、この遠隔地会員制度は、見方を変えれば域内各国の金融機関・証券会社がすべてネットワーク接続され、すべての取引所もまたそのネットワークに連なる存在となることを意味するから、域内の全取引所が激しい市場間競争の波に飲み込まれることは歴史の必然であった。と同時に、域内の金融・証券業者は、国境の枠を超えた国際展開に活路を見いだす一握りの大規模業者と、従来のローカル・ブローカーないしディーラーの枠組みにとどまる大多数の中小規模業者とに分化されることになり、後者は当然に各取引所のシステム投資に対する抵抗勢力となるから、ここでも株式会社化によって後者の影響力を切り離すことが、取引所間の生存競争を勝ち抜くカギとなったわけである。
以上のように、欧米における証券取引所の株式会社化の背景には、取引所間の競争圧力の高まりがあり、市場間競争を勝ち抜くために不可欠となるシステム化投資の是非をめぐって、それに反対する勢力の影響力を削ぐという、経営ガヴァナンス面での要請が取引所の株式会社化をもたらすという構図になっている。一方、わが国における取引所株式会社化のプロセスは、こうした海外の事例とは決定的に異なっている。
そもそも、97年の金融ビッグバンまで、わが国の証券取引所は、取引所集中原則、テリトリー制、重複上場の三つのツールを使って、市場間の競争圧力を巧みにコントロールし、取引実態のほとんどない地方証券取引所の存在を維持してきた。ビッグバンによる外資系業者への門戸開放が始まったこと、市況低迷の長期化によって大手証券の中小証券系列化政策が維持出来なくなってきたこと、上場企業サイドでもリストラ圧力の高まりから重複上場制度の維持が困難になってきたこと、さらにインターネット取引の急速な成長により、いわゆるネット専業証券会社の発言力が強まってきたこと、等々の環境変化は、確かにわが国においても、欧米と同様の証券業者間の異質性・利害対立が顕在化しつつあることを示唆している。だが、本質的な意味での市場間競争-同一企業株式の売買が、同一の時間帯で行われる複数の取引所間での投資家争奪競争-は、わが国においてはこれまでほとんどみられなかったから、わが国における取引所株式会社化の背景を欧米と同様の「市場間競争圧力への対応」と見なすことは困難であるばかりか、株式会社化の影響を評価する際の重要な論点を見失う危険性すらあるのではないか。
二上季代司「市場間競争と証券取引所」『証研レポートNo.1613』日本証券経済研究所大阪研究所、2002年12月は、わが国における取引所株式会社化は激化した市場間競争への対応ではなく、「市場間競争を促進させるための一手段」(同、p.4 )であったとしている。しかし、株式会社化がどのようなプロセスによって市場間競争を促進するかは判然となっていないし、何よりも大証および東証が株式会社化されて以来の2年余の期間において、市場間競争圧力は高まるどころか、予定調和的に進展する地方取引所の整理・統合や、大証のナスダック・ジャパン市場構想の事実上の挫折など、逆に低下しているのである。むしろ、この株式会社化構想においては、市場間競争とは直接関係しない、取引所内部における組織改革や非効率性の是正を図るうえで、株式会社化をその突破口としたいという思惑が働いていたのではないか。もっとも、取引所株式会社化の目的自体を論じることは本小論の本旨ではない。わが国における証券取引所の株式会社化が市場間競争圧力の存在しない下で行われ、さらに近未来においても取引所間の競争圧力が急速に顕在化するような事態は想像し難い、という現状認識こそ重要なポイントである。このことは、次節で検討する、株式会社化と証券取引所の公共性(とくに自主規制機能)との関係を考えるうえで、非常に重要な意味を持つことになる。 - 取引所の株式会社化と自主規制機能
相互自治組織として運営されてきた証券取引所が株式会社化された場合、どのような問題が発生するであろうか。資金調達上の変化を差し当たり無視すれば、その論点は、取引所の自主規制機能をめぐる利益相反問題と効率性問題とに大別出来る。前者は、取引所の営利追求と自主規制機能との矛盾にかかわる問題であり、後者は、前者の存在ゆえに自主規制機能を取引所から分離した場合に生じる、既存証券取引監視機関(SECなど)ないし他市場の自主規制機関(部門)とのコンフリクト(審査・規制の重複や矛盾など)である。わが国の場合、市場間競争が事実上存在せず、公的な証券取引規制機構もまた未発達であるから、もっぱら株式会社化をめぐる問題は前者のカテゴリーに集中することになる。
そこで、以下では、この利益相反問題について具体的に検討していくこととしよう。
利益相反が懸念される具体例としては、例えば取引所の大口ユーザーである機関投資家の不正売買を摘発することが取引所利益の減少を招くケースとか、上場審査に手心を加えることによって上場企業数を増やし、上場に伴う賦課金収入を増やすというケースなどを指摘することが出来る。もちろん、こうした利益相反問題は相互自治組織においても顕在化し得るし、そのような実例がこれまでなかったわけではないが、株式会社化による収益性追求圧力がこうした利益相反問題を激化させる可能性は否定出来ない。もう一つは、自市場に取引所株を上場する場合の上場審査問題ないし自取引所株にかかわる取引規制問題であって、これは株式会社化を選択した場合のみに起こり得る問題といえよう。いうまでもなく、証券取引所の公共的な役割との関連では、前者がより重要な問題となる。
こうした利益相反問題の解消にはどのような処方箋が必要であろうか。以下では、海外の先例に基づきながら、幾つかの選択肢を提示することとしよう。
(1)自主規制機能を放棄し、規制はすべて公的機関にゆだねる。
これは、もっとも単純、かつ徹底的な提案であり、すべての証券取引にかかわる規制はSECなどの公的機関にゆだね、証券取引所はひたすら営利追求に特化するというやり方である。しかしながら、例えば、上場審査を公的機関にゆだねるということは、資本市場を通じた企業の資金調達を国家が管理するということにほかならず、資金配分の場としての証券市場の効率性を大きく阻害する危険性がある。
この方式のもう一つの欠点はコストの大きさである。現在でもアメリカではSECの運営コストの大きさがしばしば政治問題となっているが、自主規制機能を全廃した場合、公的監視機関に投入すべき費用は天文学的な規模に膨れ上がる可能性がある。逆に、資金面の制約から十分な費用投入を怠った場合、証券取引を監視する機関が存在しなくなるという新たな問題を引き起こすことになる。
(2)営利部門と自主規制部門とを制度的に分離する。
一般に、取引所が株式会社化された後には、営利部門と自主規制部門とを制度的に分離することが多い。もっともその程度はまちまちであり、情報や人事交流の遮断などのいわゆる「ファイア・ウォール」規制だけを付して(場合によってはそれさえも省略して)、従来通りの自主規制機能を行うというもの(東証・大証のケースはこれに近い)から、各部門を分離して子会社化し、持ち株会社がこれらを束ねる方式(NASDAQのケース)まで、実務上はかなり幅広い選択肢がある。このアプローチは、総じて株主による経営モニタリングが、近視眼的な利益追求を抑制し、自主規制機能の充実と営利追求とを両立させるという、楽観的な見通しに立つものといえよう。
もっとも、いかに制度的な分離を徹底したとしても、両者が一つの持ち株会社の下に連なる兄弟会社となることは否定出来ず、このアプローチでは利益相反問題は軽減されることはあっても、完全な解消は難しいという批判は免れ得ない。さらに、既存取引所から分離されることによって、子会社化された自主規制部門の財務上の安定性が脅かされ、結果的に利益相反問題を深刻化させる可能性も否定出来ない。
(3)自主規制機能を分離し、市場取引の公正性確保だけを自主規制の対象とする。
このアプローチの目新しさは、自主規制機能を「上場審査や取引の執行にかかわる部分」と「取引の公正性にかかわる部分」とに分離し、後者のみを本質的な自主規制機能とみなして、これを株式会社化された取引所から切り離す点にある。
確かに、例えば上場審査の基準や取引の執行仕法がすべての市場で統一される必要はない。放漫に過ぎる上場審査は問題だが、取引所によっては相対的に緩い基準を売り物にして積極的な上場企業の誘引を図るという経営戦略も否定されるべきではなく、その意味において、従来の自主規制機能と呼ばれてきたもののうち、「上場審査や取引の執行にかかわる部分」は競争原理になじむものと見なすことが可能である。一方、相場操縦やインサイダー取引に対する規制が市場間の競争原理によって歪曲されることは回避されなければならないから、これら部門を取引所から切り離したうえで独立の法人格を付し、業務の公共性に見合った公的補助を与えるというこの提案は、(1)、(2)両案に付随する欠点を巧みに克服した、魅力的なものに映る。
現時点における欧米の動向をみると、株式会社化に踏み切りながら(1)のアプローチを採るケースはほとんどなく(自主規制機能を尊重するあまり、株式会社化を拒否したNYSEの例はあるが)、総じて(2)の線に沿って、自主規制機能の分離を徹底するアプローチが採用されている。また、(3)の提案は、アメリカのSIA(Securities Industry Association)が提唱したハイブリッド方式と呼ばれる規制体系や、著名な証券関連法学者であるRuben Lee氏の提案(Lee,Ruben.What Is an Exchange?:The Automation,Management,and Regulation of Financial Markets,Oxford University Press,1998)に近いものであり、将来的にはこのアプローチに沿った自主規制機能の再編成が行われる可能性が高いといわれている。そしてまた、この方向性が競争原理の導入と証券取引所の公共性を両立させるという点で、現時点において提出されている諸提案のなかでは最も合理的かつ説得的なものであることも事実である。わが国においても、早期に、自主規制機能部門を別会社化し、さらにそのうち市場取引の監視部門については、完全に取引所から切り離して、独立の外部機関化する方向性を打ち出すべきである。
しかしながら、こうした基本的方向性を具体的な制度の設計に昇華させて行く際には、わが国の取引所株式会社化をめぐる特殊な経緯と外部環境とを十分に考慮する必要がある。なぜなら、諸外国における取引所株式会社化は、これまで強調してきたように、強い市場間競争圧力の下で行われてきたから、当然にその成果にも競争圧力の影響が含まれていると考えられるからである。海外において成功した制度・方策を市場間競争圧力が存在しないわが国にそのまま持ち込んだとしても、それが好ましい果実をもたらす保証はない。
さらに、わが国の特殊事情として、自主規制機能を取引所から分離し、公的な性格を帯びた取引監視機関化することにより、証券取引に対する「公的な干渉」の弊害が強まることが懸念されることも指摘しておくべきであろう。
そもそも、わが国の証券取引所は建前上は会員証券業者の相互自治組織であるが、現実には代表者に高級官僚OBが就くことが慣例化し、市場取引の規制・監督においても、会員業者ないし市場参加者よりも、行政サイドの意向を汲んだ方針の下に執り行われる傾向が古くから指摘されてきた。より具体的には、公正な取引の確保よりも、株価水準自体の維持を規制において優先させる傾向があるとされ、それが、例えば、市況低迷期における増資の量的規制や、投機取引の抑制措置の発動が株価上昇時と下落時とでは非対称である、という批判を喚起してきた経緯がある。現実に、こうした批判が妥当するような株式市場に対する直接・間接的な公的介入が行われていたかはともかく、将来的な自主規制機関の制度設計において、公的介入の余地については可能な限り縮減させていく方向性が不可欠である。なぜなら、日銀の銀行保有株式の買い取りや、産業再生機構の設置によって、公的部門は公益の代理人として振る舞うだけではなく、株式取引の直接的な利害関係者として行動する(あるいは、行動することが求められる)可能性が否定出来ないからである。このような、公的部門がミクロ・レベルの企業経営に深くコミットするような事態は、他の先進資本市場国ではほとんどみられない現象である。李下に冠を正さずの喩えではないが、自主規制機関の公的干渉からの制度的独立性の保証が、わが国においてとくに重要な政策的課題となる所以である。
以上の議論を踏まえ、次節では証券取引所の自主規制機能を最も望ましい形で発揮させるための制度的な手当てを考えることとしたい。 - 自主規制機能の発揮に向けた制度改革の方向性
以上の議論を踏まえ、証券取引所の自主規制機能部門の制度改革に関して、以下の3点を提言したい。
(1)自主規制機能部門は、上場審査や取引執行にかかわる部分だけを取引所内部に残し、取引の公正性を監視する部分は分離して、独立した外部機関化すべきである。
営利部門と自主規制機能との間の利益相反問題を完全に解決するためには、両者を分離し、後者については取引所外部にスピンアウトさせる方法が最善である。わが国のように、市場間競争が事実上存在しないケースでは、外部株主によるモニタリングでは利益相反問題を解消することは難しく、むしろ一層、問題を激化させてしまう可能性すらある。
なお、証券取引所が自市場に自己株式を上場する場合の審査については、他の上場銘柄とは切り離し、この独立規制機関にゆだねることが適当であろう。
(2)自主規制機関に対して公的な財政保証を行うべきである。
自主規制機関を取引所の子会社とせず、独立した外部機関とすることによって、規制機関の運営コストを誰が負担するのかという問題が発生することになる。もちろん、当該機関が生産する市場規制にかかわるサービスを取引所が有償で購入する運営形態は成立し得るが、その場合においても、規制サービス売却収入以外の財政的な手当てが講じられなければ、規制機関が事実上、取引所の支配下に置かれる懸念が残される。規制業務の公共性および国民経済的にみた重要性から考えて、当該機関に対しある程度の(運営費用の過半に達する程度の)規模で、公的な財政保証を施すことが適当であると考える。外部化された規制機関は、公的機関による市場取引監視機能の一部を代替し得る存在であるから、総体的にみた市場監視コストの削減という観点からも、こうした財政措置は正当化され得ると考えられる。
(3)自主規制機関の統治機構は市場参加者中心とし、取引所ないし行政府との人的関係を遮断すべきである。
行政府から財政的な補助を受ける際、最も危惧されるのは、現状以上に証券取引に対する公的な介入が強まることである。これを回避するためには、自主規制機関の意思決定機構(ガヴァナンス構造と言い換えてもよい)に対する、取引所ないし行政府の影響力を徹底的に排除する制度的手当てが必要である。具体的には、取引所ないし行政府との兼職はもちろん、OBをも含むこれら組織との人的交流を全面的に禁止し、ガヴァナンスの行使者をすべて市場参加者(機関投資家、個人投資家団体の代表者、証券業者)に限定することが適当である。
ところで、このような方向性に向けた証券取引所の自主規制機能の分離・独立が実現した場合、それは形式論理的には取引所の「自主」規制機関ではない。伊豆久「自主規制機能の分離・統合論-SIAの自主規制モデル案-」『証研レポートNo.1600』日本証券経済研究所大阪研究所、2001年11月が指摘するように、市場運営と市場監督との間に存在する「自治」という概念がもはや存在しないからである。しかし、このことは証券取引の「公共性」という意味からは、むしろ望ましいというのが本小論の基本的なスタンスである。と、同時に、「公共性」の強調と引き換えに、証券市場に対する公的な規制・介入が現状以上に強まることに対しても、警戒が必要である。市場取引を執行し、あるいは取引に直接参加する主体による自主規制の利点は、歴史が明確に証明するところであり、また、だからこそほとんどすべての先進資本主義国において、SECなどの公的機関による監視と、自主規制機関によるそれとを並立させる方式が採用されてきたのであった。歴史の針を逆回転させるような制度改革は回避されなければならない。
本小論における提言は、以上の二つの観点から、証券取引所制度改革のあるべき方向性を提示した、一つの試案である。