Business & Economic Review 2004年07月号
【OPINION】
原点再確認が構造改革成功の鍵-マニフェスト検証
2004年06月25日 藤井英彦
- 遅延する構造改革(イ)昨年秋、衆議院選挙に向けて各党からマニフェストが公表されてから、半年が経過した。さらに構造改革を旗印に小泉政権が2001 年4月に発足してから数えると、すでに3年が経過した。しかし、少なくともこれまでのところ、構造改革の進捗ペースは必ずしも速いとはいえず、その成果は限定的である。このところ進展がみられる主要改革、すなわち、a.官から民へ、b.国から地方へ、c.安心できる国民生活、の3分野について、現状を整理すると次の通りである。
(1)官から民へ
この分野では、まず、特殊法人改革が指摘されよう。すなわち、2001年12月に特殊法人等整理合理化計画が閣議決定され、77の特殊法人と86 の認可法人について抜本的な見直しが始まった。その結果、特殊法人等向け財政支出額は、当初予算ベースで2003年度には前年度の4兆1,565億円から1 兆1,251億円減少し、2004年度にはさらに前年度比1兆7,538億円減少することとなった。個別にみれば、簡易保険福祉事業団は2003年4月の日本郵政公社発足に伴って廃止され、石油公団も2005年3月末をめどに廃止の予定である。しかし、特殊法人等向け財政支出額の大幅な減少は、特殊法人から独立行政法人などに組織形態を変更した団体に対する財政支出が計算対象から除外された影響が大きい。そこで、こうした団体を含めてみると、特殊法人等向け財政支出額の前年度比減少額は、2002年度で2,393億円、003 年度では413億円にとどまる。
次いで、特殊法人改革のなかで、とりわけ、注目を集めた道路公団改革についてみても、その行方は依然不透明といわざるを得ない。確かに2004年3月に国会に提出された関連法案やこれまでの道路関係四公団民営化推進委員会での議論をみる限り、a.債務の償還期限が45 年と明示され、b.高速道路料金の引き下げが予定される一方、c.高速道路の新規建設については、地域分割して設立される各高速道路会社がそれぞれ判断し、当該債務の返済負担を負うスキームとなっているため、東名高速道路の料金収入を使って地方の高速道路を建設しようという動きが制約され、新規の高速道路の安易な建設に一定の歯止めが掛けられたといえよう。
しかし、現行の高速道路整備計画は、重複投資となる路線など一部を除いて原則として維持された。その結果、建設コストの圧縮が図られることとされているものの、新設される各高速道路会社が負担する有料道路の建設事業費は最大で7兆5,000億円に及ぶ見込みである。そのため、次の要因を加味してみると、今後、各高速道路会社を巡る経営環境は従来以上に厳しいものとなる公算が大きく、計画通り45年間ですべての債務が償還できるか否か楽観を許さないとみるべきであろう。すなわち、a.すでに40兆円に上る有利子債務があることに加え、b.今後、新たに建設される路線の採算性は総じて低く、距離当たり収入と建設コストのいずれの側面からみてもこれまで建設された路線を凌駕する路線は稀有とみられること、c.さらに、デフレ圧力が残存するなど価格競争が依然厳しいなか、高速道路の利用に対するユーザーの姿勢に従来にみられない変化の兆しがあること、すなわち、わが国経済が2001年度の実質マイナス成長から2002年度にプラス成長に転じ、景気回復が次第に本格化したという情勢下、日本道路公団の高速道路料金収入は、2002年度、逆に前年度比4.9%減とマイナスに落ち込み、景気回復を受けた物流の増加が料金収入の増加に繋がらなかったことである。
(2)国から地方へ
次に、国から地方への改革では、まず、国と地方の税財政改革、いわゆる三位一体改革が指摘される。もっとも、少なくとも現段階では補助金削減が先行する一方、地方交付税改革や税源移譲については、問題の核心が先送りされており、一体改革になっていない。すなわち、地方向け補助金は、2003年度に5,625億円、2004年度に1兆313億円削減されたうえ、2005、2006年度の2年間にさらに3兆円削減される方針が決まっている。これに対して、地方交付税改革では、削減の方針が打ち出され、2004年度の地方交付税交付金および地方特例交付金は17兆9,910億円と前年度比1兆845億円削減されているなか、今後、現行のスキームがどのように変更されるのか、削減額は総額いくらになるのか、といった根本的な問題は未定である。また、税源移譲についてみると、2004年度では、a.所得税収の一部を所得譲与税として4,249億円、b.特例的な交付金として2,309億円、合計6,558億円がいずれも将来の税源移譲までの暫定措置として国から地方に移転されたのにとどまり、基幹税の国から地方への移譲を具体的にどのように行うかについての議論はこれから本格化する予定である。
国から地方への改革では、財源問題と別に、権限移譲も重要なテーマであり、小泉内閣発足直後の2002年7月に構造改革特別区推進本部が設置され、特区構想が推進されてきた。その結果、これまで合計324件に上る特区が認定された。内訳をみると、産学連携や物流整備などによる地域経済振興型特区、および人材育成や幼保一元化などの教育関連型特区が大半を占めている。もっとも、地方自治体などから提案された特区構想は合計すると認定された特区数の5倍強に及ぶ1,695件に上っており、必ずしも政府の規制緩和が円滑に進展しているとは言い切れない。典型例が教育や医療分野への株式会社参入問題である。すなわち、まず教育分野への株式会社やNPO の参入については、2003年10月から認められることとなったものの、地方公共団体が教育上などの特別なニーズがあると認める場合に限定されている。一方、医療分野に対する株式会社の参入については、今国会に提出された構造改革特別区域法一部改正案の成立によって、今後、認められることとなるものの、業務が高度な医療に限定されているうえ、当該機関は保険医療機関になれないため、医療費が全額患者の自己負担となる自由診療になる。このように競争原理が十分に機能することが期待し難い点を踏まえてみると、こうした分野で特区の設立にこぎ着けても、それによる地域経済の活性化効果は限定的なものにとどまる懸念が大きい。
(3)安心できる国民生活
最後に、安心できる国民生活という分野で、今日、改革論議の中心となっている年金制度改革についてみると、次の通りである。
まず、2004年度の制度改正では、多様な生き方や働き方への対応と同時に、持続可能な年金制度の構築と年金制度に対する国民の信頼確保、すなわち、a.将来の現役世代の負担を過重なものとしない、b.高齢期の生活を支える給付水準を確保する、c.頻繁に制度改正を繰り返す必要のない持続可能な制度とすることが目的とされた。具体的には、a.在職老齢年金制度が見直され、60歳代前半の被用者の在職老齢年金制度について、従来、行われていた年金支給額の一律2割カットが廃止される、b.次世代育成支援の拡充策として、子が3歳に達するまでの間の育児休業期間について保険料が免除される、c.第3号被保険者の離婚分割を認めるなど、様々な変更が行われる一方、持続可能な年金制度構築に向けて、負担の増大と給付水準の見直しが実施され、将来の負担の上限と給付の下限が明示された。厚生年金に即してみると、保険料率は、2004年10月から毎年0.354%ずつ引き上げられ、2017年度に18.30%へ達した後、その水準が維持される一方、給付水準は実質的に切り下げられ、標準的な世帯についてみると、現役サラリーマン世帯の平均的所得に対する給付水準は現在の59.3%から2023年度以降50.2%に低下する。
しかし、次の点を踏まえてみると、持続可能な年金制度を構築するという今回の改正目的が達成されたとは言い切れない。
まず、国民年金のみならず、厚生年金でも空洞化問題がすでに深刻化し始めていることである。厚生年金の保険料を支払う被保険者数は97年度の3,347万人をピークに減少に転じ、2001年度には3,158万人と97年度対比189万人減少した。もっとも、厳しい内外経済のもと、失業者数が増え、雇用者数が減れば、厚生年金被保険者数の減少も避けられない。そのため、雇用者数の動きをみると、96年度以降2003 年度まで、年々の増減はあるものの、5,325万人から5,392万人とほぼ横ばいで推移しており、近年の厚生年金被保険者数の減少は、雇用情勢の悪化によるものとはいえない。ちなみに、雇用者数に占める厚生年金被保険者数のシェアは、石油危機以降のほぼ63%前後での安定した推移から、90年代半ば以降、低下に転じたうえ、その後、減少ペースが年を追って加速した結果、被保険者数のシェアは2000 年度に60%を割り込み、2001年度には59.0%に落ち込んだ。
その一因として、パート労働や派遣労働など、就業形態の多様化が指摘されよう。例えば、労働力調査をみると、35時間以上従事者数は、95年の5,067万人をピークに減少し始め、2003年に4,571万人となる一方、35時間未満従業者数は、95年の1,276万人から2003年には1,602万人に増加している。就業形態の多様化が人件費圧縮に向けた企業の雇用スタンスに映じた動きである点を改めて想起してみると、今回の年金制度改正によって企業の人件費コストが総額6兆円規模で増大すると見込まれるなか、企業の雇用スタンスが今後一段と厳しさを増す懸念は否定できない。そうした事態が顕在化し、被保険者数の減少傾向に拍車が掛かった場合、現行年金制度の維持は困難になる。
(ロ)もっとも、以上のような見方には根強い反論がある。上記3分野について主な指摘を整理すると、次の通りである。
(1)官から民へ
まず、道路公団改革については、新規の高速道路・有料道路の建設は地域経済再生の鍵であり、わが国全体として経済成長力を高めることによって道路収入を確保し、円滑な債務償還を目指すのが本道であって、新規の道路建設は採算性が低いとか、その結果、債務償還が一段と難しくなるという見方は皮相的との批判がある。さらに、道路のネットワーク性、すなわち、高速道路は他の道路網と繋がって初めてメリットが発揮されるのであって、孤立した状態では維持費が必要となるだけで、先行実施された公共投資が無駄になるという懸念も指摘されている。
次に、特殊法人改革のなかで、民営化準備室が本年4月に発足するなど、着実に改革が進展している郵政民営化では、現時点でも依然議論百出の状況にあり、コンセンサスの形成にはほど遠い。すなわち、民営化前後で郵便貯金や簡易保険契約を旧勘定と新勘定で分離し内部補助を遮断すべきである、また、郵政三事業を事業別に分割すべきであるといった市場競争原理の貫徹に向けた主張がある一方、郵便事業のユニバーサル・サービスを維持するためには税財政面からの配慮が必要であるし、地域経済に不測のダメージを与えないように郵政三事業の雇用を保全していくためには事業性の確保が不可欠であって、新旧勘定の分離や事業別分割に拙速に踏み切ることは近視眼的という見方も根強い。
(2)国から地方へ
まず、三位一体改革についてみると、現状は過渡期であって、一体改革とは、補助金削減と地方交付税削減、税源移譲の三改革を同時並行的に進行することまで意味するわけではないとの見方がある。こうした見方に立てば、現状では補助金改革が先行しているものの、今後、地方交付税改革や税源移譲の問題が解決される筋合いとなる。しかし、地方公共団体の立場からみると、補助金および地方交付税の削減額が税源移譲によって全額補填されるか否かは依然不透明である。例えば、国および地方の現下の深刻な財政状況を重視する向きのなかには、国と地方が痛みを分かち合う必要があり、税源移譲に併せて国債を国から地方へ移管すべきとの考え方も一部にある。
一方、特区についてみると、この制度はそもそも国がその権限を一時的にあるいは部分的に留保し、地方自治体の裁量にゆだねる制度である。こうした位置付けを踏まえてみると、各特区構想が認定されるためには、国が権限を留保するコストが、少なくともそこから得られるベネフィットを上回らないことが最低限必要となる。逆にみれば、社会的規制の要請が強く、国が権限を留保するコストが大きい場合、特区構想に安易に認定を付与することは将来に重大な禍根を残す恐れが大きいといえよう。前述の通り、特区構想の1,695件に対して認定された特区事業が324件にとどまっているという状況、すなわち、国から地方への権限移譲という制度目的に違背しかねない事態は、社会的規制の必要性を重視する考え方、さらにいえば、現行の国の権限を必然とし与件として受け止める見方が依然として根強く残存している結果と位置付けられる。
(3)安心できる国民生活
年金制度のサステナビリティーを確保するには、状況変化に応じて制度を機敏に見直し、そうした取り組みの蓄積を通じて、初めて国民の信頼が醸成されるとの見方がある。この立場からは、そうした見地から今回の年金制度改革が行われ、将来の負担の上限と給付の下限が明示されたとの主張が行われよう。
しかし、今回の改革が行われても、厚生労働省の試算によると、2100年度までの給付に対する財源不足額が厚生年金と国民年金を合算して480兆円に上るとされる。この問題を解決しようとすれば、大幅な保険料負担や国庫負担の増加、あるいは給付水準の引き下げ以外に方策が無い。そうなると、1960年以降、数年ごとに保険料率が引き上げられる一方、給付サイドでも、85年以降、給付水準の見直しや支給開始年齢の引き上げが行われてきた結果、国民の信頼が次第に喪失されるという悪循環からわが国年金制度が脱出するめどは依然として立っていないとみるべきであろう。
そうしたなか、年金問題の打開には、現行制度の抜本的見直しが不可欠との見方がある。その見方に立つ論者の主張を整理すると、主なポイントとして、a.厚生年金や国民年金、共済年金など、分立した制度を一元化して公平な制度に転換する、b.年金制度を基礎年金と所得比例年金の2階建てとする、c.基礎年金の財源は消費税など租税とする、の3点が指摘されることがある。
確かに、この改革構想は年金制度の根本的変革を前提としており、今国会に提出された政府・与党案と異なる。しかし、2100年度までの480兆円に上る過去債務の問題を解決し、年金制度を維持していくには、給付水準や給付開始年齢を見直さない限り、保険料率を引き上げるか、税負担を増やす以外に方策は無く、国民サイドからみれば公的負担が増大するという点で両者に大きな相違は無いともいえよう。
(ハ)以上の通り、改革を巡る議論は混迷を極め、国民各層の総力を結集して改革を断行・推進し、その果実を享受する状況にはいまだほど遠い。こうした議論の混乱は、改革が進み、個別具体的な問題が俎上に上る段階となり、制度適用の条件や技術的問題が検討され始めた結果というケースも一部にはあろう。
しかし、現下の議論が総じて改革の是非や制度の枠組みについて行われている点を踏まえてみれば、むしろ、骨太の方針をはじめとする政府の基本方針あるいはマニフェストの表現が包括的で具体性に欠けていたため、対立する見解の並存を許し、議論の拡散を助長した側面は否定できない。さらに、そもそも改革の意義・目的についてのコンセンサスの形成が不十分であった結果、政策の優先順位や価値判断に混乱が生じ、改革の是非などの総論部分のみならず、個別プロジェクトにおいて改革をどこまで徹底していつまでに行う必要があるかという各論部分でも、議論の集約に支障を来しているという事情が指摘されよう。 - 構造改革の目的
そこで、意義や目的、必要性など、構造改革のポイントを整理するために、わが国に先行して改革を断行した西欧主要各国の経緯をたどってみると、以下の通りである。なお、構造改革の対象分野は広範囲に及ぶため、ここでは、前章の分類、すなわち、a.官から民へ、b.国から地方へ、c.安心できる国民生活、の3分野を対象とした。結論を先取りすると、西欧各国の構造改革とは、戦後の高度成長によって実現し得た大きな政府から、石油危機後、さらに冷戦終結後の安定成長・低成長時代に即した小さな政府への転換であり、長期間にわたる持続的な取り組みであった。
(イ)官から民へ
民営化は、イギリスで始まり、79年4月に発足したサッチャー政権のもと、80年5月のブリティシュ・エアロスペースを嚆矢に、鉄鋼や電力、航空機や自動車製造業など、幅広い分野で相次いで行われていった。さらに86年にはフランスでもシラク内閣のもと国営企業民営化法が成立し、民営化が始動した。なお、ドイツの民営化は両独統合後に本格化し、代表的事例として94年のドイツ鉄道や95年のドイツ・テレコム、ドイツ・ポストがある。
もっとも、英仏で行われた民営化は、かつて国有化された企業の株式を再び市場に売却するケースが多く、わが国の特殊法人改革と一線を画す。そうした観点からみると、まず、イギリスの公的セクター改革が注目されよう。すなわち、イギリスでは、国有企業の民営化が一段落した後、政府組織の在り方や機能にメスを入れ、官民の役割分担を抜本的に見直す取り組みが本格化した。中心的スキームがエージェンシー化と市場テスト、PFIとPPPsの四つである。
具体的には、政府が政策立案機能と執行機能に二分され、政策立案が政府の役割とされる一方、執行業務はすべてエージェンシーが担うこととされた。エージェンシーでは、最高経営責任者(Chief Executive )がすべての事業責任を負い、経営判断を下す。従業員サイドについてみると、もともと公務員であったか否かを問わず、処遇や評価は業績に応じて決定され、かつ、エージェンシーで業績を上げた職員だけが政府本体に異動して政策立案業務に携わることができる体制となり、組織や政府機能の活性化が図られた。次いで、政府本体とエージェンシーとを問わず、既存組織よりも効率的に業務を遂行し、成果を出せる組織を外部に公募し、事業単位で民間に業務をアウトソースする取り組み、いわゆる、市場テストが推進された。加えて、民間の資金やノウハウを導入すると同時に、官民が業務遂行リスクを按分し住民サービスを提供する手法としてPFI が導入され、その後、資金面から政府もプロジェクトを支援できるスキームとして、PPPs(Public- Private Partnerships )が活用され始めた。こうした一連の改革によって、イギリスの政府サービス従事者数は、サッチャー政権発足時の79年の73万3,176人から2002年には49万420人へ24万人減少した。さらに、2002年の49万420人のうち、エージェンシーなど関係機関職員が35万5,660人と73%を占め、政府本体の職員は13万4,760人に過ぎない。このようにみると、わが国はイギリスの改革に注目して独立行政法人制度を導入したものの、わが国の独立行政法人はエージェンシーと根本的に異質であり、特殊法人改革は限定的な効果にとどまる懸念が大きい。
イギリスの公的セクター改革と並んで、わが国にとって参考となる事例がフランスの公的金融機関改革であろう。わが国の場合、特殊法人問題の中核が財政投融資制度の改革にあるなか、総じて先進各国にわが国財政投融資制度と同様のシステムは無く、唯一、フランスに類似の制度があったためである。
フランスでは、まず、郵便局(ラ・ポスト)と貯蓄金庫が非課税貯蓄預金を取り扱い、個人預貯金の受け皿となってきた[大山・成毛] 。ちなみに、99年末時点の個人預貯金に占めるシェアをみると、わが国が郵便貯金単体で36.2%であるのに対して、フランスでは、郵便局が15.8%、貯蓄金庫が23.1%と、単体ではわが国に及ばないものの、合計すると38.9%となり、わが国郵便貯金を上回る[ 総務省] 。さらに、郵便局や貯蓄金庫が販売した非課税貯蓄商品や生命保険商品が全額預金供託公庫に預託され、預金供託公庫では、それを原資に道路や橋梁などのインフラ向け融資や住宅向け融資が行われたほか、一般企業向け融資や投資銀行業務、あるいは資産運用業務など、様々な金融・証券業務が展開されていた。そのうえ、長期産業資金を融資するクレディ・ナショナルや、預金供託公庫の実質的経営管理下のもと地方公共団体向け金融業務を行う地方設備公庫、あるいは輸出金融に特化した貿易銀行など、政府の経済政策や産業政策推進の一環として多方面にわたって公的金融機関が整備されてきた。
しかし、86年の国有企業民営化法の成立を受けて、商業銀行のみならず、公的金融機関でも、87年の地方設備公庫を皮切りに90 年代を通じて民営化が積極的に進められた。業務範囲が広く、フランス国内で強力な競争力を持った預金供託公庫も例外ではなく、企業向け融資や投資銀行業務、生命保険業務など、民間金融機関と競合する分野は、今日、すべて分離・民営化されている。その結果、現在、預金供託公庫本体には、郵便局や貯蓄金庫が受け入れた非課税貯蓄預金を原資として行われる低家賃の公共住宅建設業者向け融資や都市のインフラ整備向け融資などの公共プロジェクト、司法手続きに伴う供託金の管理や公務員退職者年金基金の管理といった公的業務が残されるだけとなった。ちなみに、そうした民営化によって、フランスの国内民間部門向け総与信に占める公的金融のシェアは、90年末の4.3%から2001年末には10.6%に半減している。さらに、こうした段階に至って、郵便局からの貯金業務の分離問題がようやく政府サイドで本格的に検討され始めている模様である。
このような改革スタイルとなった要因を整理すると、次の3点が指摘されよう。すなわち、a.郵便局や貯蓄金庫の貯金業務を最初に見直すと、資金吸収力の後退、あるいは、預金供託公庫など、公的金融機関の経営悪化によって、そこから融資や投資を受けている様々な事業の推進が困難になる懸念が大きかった、b.そこで、民営化や業務の分離・独立など、公的金融機関改革を先行させ、公的金融の規模縮小と資源配分の歪みの是正を進めることでサプライ・サイドからフランス経済の強化を図った、c.そうした一連の改革が成就した後、郵便局や貯蓄金庫の貯金業務見直しについて検討を開始するという長期的な取り組みによって改革コストの極小化が志向されてきた、の3点である。
翻ってわが国の特殊法人改革をみると、大半は独立行政法人への組織形態の変更に過ぎず、上述の通り、財政支出面でも大きな変化がないなど、フランスの公的金融機関改革に比べて不徹底な面は否めない。この点を踏まえてみると、仮に現状のままで大胆な郵政事業改革を行えば、金融ルートの逼塞や途絶から不測の事態が発生する懸念が大きく、事実上、郵政事業改革を見送らざるを得ない事態に追い込まれる恐れも出てこよう。
(ロ)国から地方へ
近年、地方分権は、地域経済の再生・活性化を図る原動力として重要な政策課題と位置付けられ、積極的に推進する動きが世界的に拡がっている。典型的な中央集権国家と目されてきたフランスが、西欧主要各国のなかで最初に地方分権に着手したことも、そうした潮流変化を示唆する象徴的な事例といえよう。フランスと90年代末にようやく地方分権に着手したイギリスについてみると、以下の通りである。
フランスでは、82年3月に成立した地方分権法を端緒に、その後、地方分権が様々な分野で行われ、今日でも引き続き推進されている。そのポイントを整理すると、次の3点が指摘される 。
第1は82年地方分権法によって地方政府の位置付けが国の出先機関から自律性を備えた自治体に変更されたことである。かつてフランスの地方制度は市町村(Commune)と県の二層構造となっていたなか、県の首長は国から派遣される官選知事であり、市町村と県のいずれの地方議会の議決についても知事の事前認可が必要であるなど、事実上地方政府は国の後見監督下に置かれていた。しかし、82年地方分権法によって、従来の制度が大きく変更された。主な変更点は、a.県よりも広範囲の行政区域を持つ地方政府として州が位置付けられ、地方制度が三層構造に変更された、b.官選知事制度が廃止され、議会から互選によって選出される県議会議長が県の執行機関となり、従来の県知事職を実質的に代替することとなった、c.地方政府に対する国の事前の後見監督権限は廃止され、国は事後的な行政監督権限、すなわち、地方政府の行政行為に対して行政裁判所の判断を通じて地方政府の法令違反を是正する権限に限定された、の3点である。
第2は、83年に成立した権限配分法によって地方行政に関する事務の再配分が行われ、それぞれの行政事務は、その性格上もっともふさわしいレベルの地方政府に移譲されるという原則のもと、多くの権限が国から地方に移譲されたことである。具体的には、州には、地域開発や国土整備に関する計画、高等学校の設置管理、職業教育訓練、文化振興が、県には、社会福祉、県道整備、都市圏外への通学用輸送、中学校の設置管理が、市町村には、都市計画、小学校の設置管理、都市圏内の通学用輸送、図書館運営などの権限・行政事務が、国から移譲された。
第3は、こうした権限移譲に伴って財源の再配分が行われたうえ、歳入面での地方政府の自由度が拡大されたことである。まず、財源の再配分についてみると、自動車登録税は州に、自動車税や登録税、土地公示税が県に、国税から税源が移譲された。加えて、地方分権を推進する観点から、地方分権化一般交付税制度など、一般財源交付金を通じて国から地方政府へ財源移転が行われた。一方、歳入の自由度拡大についてみると、まず80年1月10日法によって地方議会が地方税の税率を自ら決定できることになった。ちなみに、地方税収のなかで4割を占める職業税、すなわち、固定資産と支払給与を課税ベースに賦課される、いわば事業税について、99年時点での税率分布をみると、最大が31.33%で、最小が18.46%、平均が22.59%であり、地域の事情に即した多様な税率分布となっている。次いで、地方債制度が82年の地方分権化法によって変更された結果、それまで国の管理下に置かれていた地方債の起債が自由化され、地方政府の自主判断に基づく起債が可能になった。さらに、地方分権化の推進を謳った2003年3月の憲法改正によって、地方政府の財政自主権が強化された。主なポイントを指摘すると、a.地方政府はすべての租税収入の全額あるいは一部を受け取ることができるとし、国と地方政府との租税収入の再配分が明記されたうえで、b.税収と固有財源が各地方政府の全収入のなかで決定的な割合を占める必要があるとして、自主財源確保の原則が打ち出され、c.さらに、国と地方政府との間で権限が移譲される場合、当該権限の行使のために充てられていた財源に相当する財源が地方政府に付与されるうえ、地方政府の歳出増となる権限の創出・拡大では、その遂行に必要な財源が法律によって措置されるとして、権限移譲や権限の拡大は財源措置とセットであることが明文で規定された、の3点が挙げられる。
一方、イギリスでは、ブレア政権が、97年の発足直後から地方分権を強力に推進した。スコットランドとウェールズでの取り組みと、イングランド内部の動きに分けてみると、次の通りである 。
まずスコットランドについてみると、98年11月に国会でスコットランド議会法が成立し、99年5月には同議会が発足する一方、首相が選出され、同年7月以降、国からスコットランド議会および自治政府に対して権限移譲が開始された。すなわち、外交や防衛、マクロ経済政策など、国が留保する権限は議会法に限定列挙され、それ以外の権限、例えば、地域の経済開発や産業・投資の振興、交通・物流政策や土地利用計画の策定、学校教育や保健医療サービスなどの権限が移譲された。財源については、従来、スコットランド省が国から受けていた包括補助金制度がそのまま維持されたうえ、上下3%の範囲内で所得税率を独自に変更でき、増減税がそのまま歳入に反映される域内税率変更権が認められた。なお、ウェールズの地方分権も、スコットランドとほぼ同様の枠組みおよびスケジュールで推進された。
次にイングランド内部の地方分権についてみると、ロンドンとそれ以外に分けられる。すなわち、ロンドンでは、わが国の東京都に相当するグレーター・ロンドン・カウンシルが86年に廃止された後、その行政事務を長らく国と区役所が受け持ってきたが、2000年7月にグレーター・ロンドン・オーソリティーが創設された。その目的は、国や区役所の単なる受け皿ではなく、土地利用や交通、産業誘致や教育センターの配置など、エリア全体に及ぶ総合的かつ戦略的な都市計画を策定し、強力な推進体制を構築することによって、ロンドン圏全体として力強い経済発展を実現していくことにある。同様な観点から、99年4月、ロンドン圏以外のイングランド8地域について、地域開発公社(Regional Development Agency)が国の特殊法人として発足した。同公社は、住民投票を前提に地域議会に脱皮する道が開かれており、地域議会が設立されると、同公社はその経済問題担当部局と位置付けられる。ちなみに、ロンドン圏では地域開発公社は2000年4月に設立されており、同年7 月のグレーター・ロンドン・オーソリティーの発足に伴い、その経済問題担当部局に編入された。
(ハ)安心できる国民生活
西欧主要各国の年金改革は、80年代にイギリスで始まり、90年代に入り、欧州全域に拡大した。そうした動きを整理してみると、a.公的制度の主体を所得比例年金とする一方、国庫負担の主対象を低所得者層に限定したり、b.公的年金制度を補完、さらに代替する制度として私的年金制度の普及を積極的に後押しすることによって、公的年金制度に対する財政負担の軽減、すなわち、年金分野での政府の役割の縮減が図られてきたといえよう。先行したイギリスおよび、近年、年金改革の成功例として有名なスウェーデンについてみると、次の通りである。
まずイギリスでは、基礎年金と所得比例年金の2階建て制度となっているなか、88年の改革で、国家所得比例年金(State Earnings- Related Pension Scheme)の給付率が引き下げられた。すなわち、給付額算出のフォーミュラが、保険料拠出の対象となった収入の上位20年分の平均×25%から、保険料拠出の対象となった収入の全期間の平均×20%に変更された。さらに、国家所得比例年金の代替制度として認められる企業年金の対象が給付建てに加え、拠出建て、あるいは個人年金にも拡大された。次いで99年には、国家所得比例年金の代替制度に、確定拠出型の個人年金であるステークホールダー年金が加えられ、公的年金から私的年金へのシフトが一段と推進された。その結果、所得比例の2階部分について公的年金の役割が次第に縮減されてきたという状況下、2002年4月以降、国家所得比例年金制度が国家第二年金(State Second Pension)に切り替えられた。この制度改正によって、従来の国家所得比例年金制度のうち、年収9,500ポンド未満の低所得者層などについて、9,500ポンドの40%、すなわち、3,800ポンドの定額給付が認められることとなった。
次にスウェーデンの年金改革についてみると、91年に改革プロジェクトが発足し、99年に制度改革が行われた。同国の年金改革は、賦課方式を維持しながら給付建てから掛け金建てへの転換に成功した点で有名であると同時に、年金分野での政府の役割縮減を実現した点でも典型的な改革であったといえよう。すなわち、旧制度で、全国民を対象に最低生活を保障する定額給付の基礎年金が税方式で運営されてきたのに対して、新制度では、基礎年金が廃止される一方、所得比例年金が原則とされ、低所得者層に限定して最低生活水準を保証する制度として保証年金が創設された。さらに、深刻な経済低迷や出生率低下などによって年金収支が悪化した場合、国会の議決を経ることなく、その逼迫度に応じて給付の切り下げができる自動財政均衡メカニズムが盛り込まれ、不測の財政負担発生が回避されている。加えて、同国の年金改革では、雇用増加に向けて企業負担を軽減した点も特筆されよう。すなわち、企業が負担する保険料率は、すでに95年から段階的に切り下げが開始されており、旧制度の18.86%から新制度では最終的に8%まで引き下げられる計画となっている。 - 西欧主要各国にみる構造改革断行の要因
(イ)前章を総括すれば、西欧各国では、80 年代以降、公的セクター、とりわけ、中央政府の役割を縮減する取り組みが拡大してきた。その要因をみると、イギリスにおける民営化の成功には、82年のフォークランド紛争に勝利した結果、83年の総選挙でサッチャー政権が世論の強固な支持を獲得し、それが改革の強力な推進力となった。フランスの地方分権改革では、ジスカールデスタン大統領(当時)と社会党のミッテラン候補とで争われた81年大統領選挙のなかで、中央政府のリーダーシップと地方の自主性とのいずれを重視するかが一つの重要な争点となり、当選したミッテラン新大統領は公約実現に努力したなど、様々な事情を指摘することが可能である。しかし、西欧各国の構造改革断行の根底には、深刻な経済停滞の問題があった。英仏両国を中心にその推移を整理すると次の通りである。
(ロ)第2次大戦後、英仏両国とも高い生産性上昇による経済成長と所得の増加を享受し、総じて失業率はイギリスが2%台前半、フランスは2%台半ばで推移してきた。しかし、70年代半ば、英仏両国とも物価が上昇する一方、生産性の上昇が止まって実質所得が減少するスタグフレーションに見舞われた。失業率は年を追って上昇し、70年代末にはイギリスが4.6%、フランスも5.9%と、いずれも5%前後の水準に上昇した。
そうしたなか、まずイギリスで構造改革が始まった。サッチャー政権が79年に発足し、民営化や行政改革、さらに年金改革が相次いで断行された。改革路線はメージャー政権に引き継がれ、さらに労働党のブレア政権では、構造改革が地方分権に拡大され、一段と広範囲で推進されている。
一方、フランスでは、地方分権から構造改革が始動した。その要因として、都市と地方の格差問題、すなわち、パリ周辺部の首都圏に比べて地方圏での経済停滞が深刻化するなか、地方経済の再生には、地方分権を断行することで中央集権システムを見直し、パリ一極集中を是正することが不可欠であるとの認識が浸透・拡大したことが指摘される。次いで、86年以降、米英の改革を踏まえて民営化が始動した。90年代に入って民営化が一段と進展した背景には、企業に対する国家の支援が禁止されるなど、EUの競争政策が作用した面もあるものの、フランス国内でも、現ラファラン政権を筆頭に、サプライ・サイドを強化し、フランス経済の競争力を再生・強化するには、EUの政策を積極的に活用し、構造改革を強力に推進する必要があるという認識が醸成されていたという事情が指摘されよう。
そうした英仏両国に対して、90年までのスウェーデンは対照的であった。すなわち、80年代を通じて実質2%強の成長が続くなか、80年代後半には、失業率が一段と低下して2%を割り込む一方、一人当たり賃金は年平均8%強のペースで増加するなど、好調な経済成長が実現され、改革の必要性は希薄であった。しかし、90年の金融危機を契機に、同国経済は深刻な低迷に陥った。91年から3年間マイナス成長となるなか、失業率は90年の1.8%から93年には9.5%へ急速に悪化し、就業者数は90年をピークに減少し始め、93年には90年対比11.6%減少した。そうしたなか、91年以降、行財政改革や地方分権、年金改革など、様々な構造改革が一挙に始動した。とりわけ、高福祉高負担の同国では、企業の公的負担が重く、それが、資本の海外流出や国内雇用の抑制など、経済再生の阻害要因になるとの認識から、保険料率のみならず、税制面でも企業負担の軽減が図られ、法人税率は従来の57%から30%と独仏を下回り、イギリスに並ぶ水準まで引き下げられた。
(ハ)以上の推移を整理すると、まず、70年代半ば以降、西欧各国が陥った深刻な経済停滞の要因として、一般に、74年の第1次石油危機や79年の第2次石油危機が指摘されることが少なくない。しかし、そうした一時的ショックが終息した後も、英仏両国をはじめ各国で経済停滞が続いた経緯を踏まえてみると、まず70年代から80年代では、日独経済が飛躍的成長を遂げるなか、アメリカ経済を含め、製品開発競争からの脱落や産業空洞化問題が顕在化したという側面を看過することはできない。さらに90年代に入ると、冷戦終了によって中国や東欧諸国が価格競争力を武器に国際市場に参入した結果、低成長を余儀なくされたという情勢変化が指摘されよう。
こうした点を踏まえてみると、西欧各国で行われてきた民営化や行政改革、地方分権など、一連の構造改革は、民間活力の発揚を通じて競争力の回復・強化を目指す取り組みであったと位置付けられよう。すなわち、80年代から90年代、さらに21世紀へ、次第に激化する国際競争のなかで、a.大きな政府から小さな政府への転換によって公的負担を減らし、b.公的セクターの分野縮減や規制撤廃によって民間セクターの活躍の場を広げ、c.地方への権限移譲によって地域の独自性を引き出し、こうした様々な経路を通じて競争力の回復・強化を図る国家戦略が20年余りにわたって推進されてきた。 - 今後の課題
翻ってわが国をみると、91年以降、経済が低迷し、いわゆる失われた10年に陥ったといわれるものの、少なくとも97年度までについてみれば、失業率は3%前後にとどまる一方、93年度の1年間を除けば、一貫してプラス成長が持続した。西欧各国の経緯をそのまま当てはめてみれば、少なくとも90年代まで、わが国があえて構造改革に踏み切る必要性は小さかったといえよう。
しかし、2001年以降、わが国でも失業率が、英仏が改革に踏み切った5%水準に達するなか、小泉政権が発足し構造改革が始まった。マクロ的にみればこのところ最悪期を脱する兆しが拡がっているものの、価格競争をはじめ、内外の企業間競争は一段と厳しく、現時点でも失業率は5%前後の水準で高止まりしている。
さらに今後を展望しても、わが国経済を巡る内外の環境変化は一層その速度を増していこう。すなわち、まず、中国や東欧経済は高水準の直接投資流入を原動力にハイペースの経済成長を当面続けよう。その結果、汎用品のみならず、高付加価値の製品・サービスについても、中国や東欧諸国の供給力が着実に拡大し、企業間競争はますます激化する公算が大きい。そうした情勢下、国内資本の流出を食い止め、海外資本の流入を促進するために、租税や社会保障など、公的負担の軽減や規制緩和を目指す各国政府の取り組みは、先進国と途上国とを問わず、一層拡大し、国際的な制度間競争が厳しさを増すと見込まれる。加えて、わが国は、他国に例を見ないスピードで少子高齢化が今後中期的に進むなか、改革に残された時間的猶予は短い。
こうした現状を踏まえてみると、今後、わが国経済が活力を取り戻し、力強い復活を実現するために徹底した構造改革の断行は焦眉の急である。改革を先送りしたり、不十分な改革にエネルギーを費消する余裕は残されていないし、不毛な議論を行う時日もない。各国の経験や知恵を総動員してコストの極小化と期間の短縮を図りながら、他の先進各国に例を見ない旧財政投融資制度のさらなる抜本的見直しも含め、様々な分野にわたる構造改革を実現しなくてはならない。そうした厳しい条件をクリアーし、構造改革を成功させるために、まずもって必要なポイントを整理すると、次の3点である。
第1は改革の目的と必要性、さらに時間的制約を再確認することである。これによって、現在、散見される不毛な議論に終止符を打ち、改革推進に総力を集中させることができる。とりわけ、このところ、わが国経済にも明るさが芽生えてきたなか、痛みを先送りしようとする動きを阻止し、経済成長を改革推進力の強化に結び付けていくためには、この点を、全国民を通じた共通認識として改めて確認しておくことが大前提となる。
第2は優先順位を設定し、ロールモデルを提示することである。必要性や時間的制約が明確に認識されても、改革の痛みが大きかったり取り組みが失敗しては、推進力が失われる懸念が大きく、逆に、構造改革のメリットを享受する人々を拡げていくことが改革成功の鍵となる。そのためには、推進力の分散を避け、優先順位を決めて課題を着実に解決し、改革を一つひとつ成就させていくことがポイントである。加えて、改革成功の具体的成果を開示し、改革への支持をより強固なものとすることも重要であろう。そうした観点からみると、特区プロジェクトを中心とする改革成功例について、ディスクロージャーの一段の強化は早急に推進されるべきである。
第3は具体的な推進プランの策定である。すなわち、個別の改革対象とマイルストーン、さらに改革手法や財源、推進主体を明確化すると同時に、改革のメリットや効果を具体的に示すことである。それによって、改革に対する国民各層の意識や理解がますます深まる一方、改革の推進期間および事後段階でのチェックが可能となり、そこから得られた知恵やノウハウがそれ以外のプロジェクトにも活用・応用されることで、改革推進力の強化が実現されよう。
マニフェストは、わが国の民主主義政治を進化させ、さらに現下の構造改革を成功に導く強力なツールである。もっとも、それが真価を発揮するには、少なくとも上記3点がマニフェストに盛り込まれる必要がある。こうした観点からみると、わが国では漸くマニフェストの効果が認識され、マニフェストを軸とした政治スタイル実現への取り組みが緒に就いた段階である。構造改革成功のためにも、一段のマニフェスト政治の進展が切望される。