Business & Economic Review 2004年03月号
【OPINION】
国際的会計基準統合の問題点-抜本的見直しを要する包括利益プロジェクト
2004年02月25日 藤井英彦
- はじめに
企業会計基準の国際的統一に向けた動きが進展している。2001年4月に設立された国際会計基準審議会(IASB:International Accounting Standards Board)は、発足直後の同年7月、合併や統合に伴う企業結合に関する会計基準や年金会計など、9テーマを選定し、以後、精力的に作業を進めてきた。すでに、企業結合会計や年金会計基準では公開草案が公表され、現在、実施に向けた最終的作業が行われている。
もっとも、そうした取り組みのうち、包括利益プロジェクトには根強い異論がある。そこで本稿では同プロジェクト推進の可否を検討し、そこでの議論を起点に会計基準の国際的統合問題においてわが国が今後取り組むべき課題を整理してみた。 - 包括利益制度検討の経緯
(イ)そもそも包括利益制度とは、わが国にはないものの、アメリカでは1997年にすでに導入済みのスキームである。もっとも、その導入は、97年以前の動きを整理し統合する観点から導入された色彩が濃い。すなわち、a.外貨換算調整額、b.年金資産の時価下落額、c.売却可能証券の未実現保有損益、の3制度である[大塚成男] 。具体的には次の通りである。
a.外貨換算調整額
まず、81年12月に外貨換算調整額制度が導入された。71年のニクソン・ショック以降、77年までドル相場は総じて安定して推移していたものの、貿易収支の大幅赤字転落を契機に78年以降ドル安が進行し、在外子会社の純資産について為替変動による大幅な差益が発生したという情勢変化を反映した動きである。計上方法についてみると、為替変動に伴う差損益であるものの、在外子会社の純資産が親会社などによって短期的に分配されたり費消される可能性は小さいことを根拠に、毎期の損益計算から除外し、貸借対照表上の持分の部、わが国会計基準に即していえば資本の部に計上する異例の取り扱い、いわゆる資本直入という処理が行われることになった。
b.年金資産の時価下落額
次いで、85年12月には年金資産の時価下落額評価制度が導入された。この背景には、70年代に入って産業空洞化問題が次第に深刻化するなか、79年の第2次石油危機に続いて82 年には世界同時不況が発生した結果、80年以降、年を追って企業倒産が増加するなか、株価も軟調に推移したという深刻な経済環境の悪化が指摘される。一方、計上方法については、毎期の期間損益に加算することは不適切との観点から、外貨換算調整額と同様、資本直入とされ、貸借対照表上の持分に計上されることになった。
c.売却可能証券の未実現保有損益[田中弘]
さらに、93年5月には売却可能証券の未実現保有損益が計上されることになった。発端は80年代後半の金融システム危機にさかのぼ。82年の預金金利自由化以降、貯蓄貸付組合(S&L:Savings &Loan Association)を中心に中小金融機関は利鞘の縮小による業績悪化に直面した。この難局を切り抜けるために、多くの中小金融機関は含み益のある投資有価証券を売却して利益を計上する一方、含み損のある投資有価証券については総じて処分しなかった。その結果、中小金融機関の資産内容は次第に悪化していったものの、会計原則が原価主義であったため、資産内容の悪化は金融機関が破綻するまで判明せず、金融システム危機が深刻化した。こうした経緯から、有価証券など、金融商品については、取得原価会計よりも時価主義会計が適切との見方が強まった。加えて、証券取引委員会(SEC:Securities and Exchange Commission)の後押しによって、適用対象企業が、金融機関のみならず、一般の事業会社にも拡大され、本制度が導入された。一方、計上方法については、保有目的別に区別され、売買目的で保有される有価証券であれば、その保有目的を踏まえ未実現保有損益が損益計算に参入される一方、売買目的ではない売却可能証券では、未実現保有損益は資本直入するとされ、異なる取り扱いとなった。
このように、損益と認識されながら損益計算書から除外される一方、貸借対照表には資本直入によって計上されるという異例な処理が行われる項目が次第に増えた結果、そうした項目を従来の純利益と区別しつつ一括して表示するために、97年6月、その他の包括利益Other comprehensive income)制度が導入され、未実現保有損益はその他の包括利益と位置付けられた。いわば、包括利益制度とは、企業業績を表章する純利益を算出する損益計算書と、取得原価主義に立脚する貸借対照表を2本柱とする従来の財務諸表の枠組みを維持しながら、未実現保有損益に関する情報を追加して情報開示することによって、企業会計に対する信頼性の回復・強化を目指したスキームと位置付けることが出来る。
そうした位置付けは、表記方法からも看取可能である。すなわち、a.従来の損益計算書をそのまま利用して純利益を算出したうえで、その下に、その他の包括利益および、純利益とその他の包括利益を合算した包括利益を追記する、いわゆる一計算書方式、b.従来の損益計算書とは別に、純利益とその他の包括利益を内訳とする包括利益計算書を作成する二計算書方式、c.従来の損益計算書および貸借対照表とは別に、貸借対照表の持分の部について、その詳細を記載する形式で包括利益を計上する持分変動計算書方式、の3通りが設けられた。さらに、実際の利用状況をみると、一計算書方式や二計算書方式ではなく、包括利益について業績としての位置付けを明確に否定した形態であるc.の持分変動計算書方式が利用の大半を占める。
(ロ)それに対して、今回IASBで検討されている包括利益プロジェクトはアメリカのスキームと大きく異なる。とりわけ、重要なポイントは、a.純利益の廃止、b.評価損益対象の拡大、c.リサイクリングの禁止、の3点である。
まず純利益についてみると、アメリカでは、上記の通り、包括利益制度が導入された後も、制度上のみならず運用面でも、純利益が企業業績を表章する重要な会計項目として位置付けられ、包括利益項目は未実現保有利益に関する情報として開示されてきた。それに対して、IASBは、企業業績を表す指標として包括利益を位置付け、純利益のスキームを廃止しようとしている。
次に、包括利益算出のために未実現保有損益を評価する対象についてみると、アメリカでは、81年以降漸次拡大されてきたものの、外貨換算調整と年金資産、売却可能証券の3項目にとどまる。為替市場や株式市場など、市場の変動によって評価額の変動が不可避であると同時に、企業活動のグローバル化や年金資産の増大、金融取引の活発化が進行するなか、企業の経営状態を判断するうえで重要な項目が個別にピックアップされてきた結果である。それに対して、IASBは、未実現保有損益を評価する対象を、金融商品や為替差損益に限定せず、土地や建物、工場などの事業性資産、さらにR&D 費用などの繰延資産まで拡大しようとしている、最後に、リサイクリング制度についてみると、次の通りである。まずアメリカでは、いったん未実現保有損益がその他の包括利益に計上されても、その後、実際の売買などによって損益が確定した段階で、損益金額が改めて損益計算書に計上され純利益に反映される、いわゆる包括利益から純利益に再計上するリサイクリングが行われる。それに対して、IASBは、リサイクリングを禁じるスタンスを明確にしている。純利益が廃止される以上、リサイクリングを認めても、加算する対象項目がないという見方も成り立つものの、リサイクリングを禁止すると、期間損益を計測する方策がなくなる。
(ハ)こうした新たなスキームをIASB が志向する根底には、現行の利益計算に対する次のような疑義がある。すなわち、現行の損益計算では企業の恣意的な会計操作が入り込む余地が大きいため、純利益に必ずしも業績が正確に反映されず、その結果、企業会計に対する信頼性回復・強化が困難になる一方、企業会計が果たすべき基本的役割の一つである企業間比較にも支障を来している、との認識である。恣意的な会計操作について、具体的に費用の計上基準をみると次の通りである。
そもそも利益は、売り上げから費用を控除して算出される。売り上げについては、一般に議論の余地は小さいのに対して、費用についてみると、当期の売り上げに対応するか否か不明確なケースが少なくない。そのため、費用を各期に特定し配分する方策として、これまで様々な計算手法が考案されてきた。しかし、そうした多様な計算手法が企業の恣意的な利益計算の温床になっているのではないかという問題意識が、現行企業会計基準に対するIASBの認識の根底にある。
まず流動資産についてみると、評価フォーミュラとして、先入先出法や平均法、後入先出法などがあり、計算方法を変更することで評価額の変更が可能である。次に固定資産では、機械・設備の減価償却法として定額法と定率法があり、流動資産と同様、計算方法の変更によって償却額が変化する。加えて、近年、市場の変化スピードや技術革新ペースが一段と加速してきたという情勢変化を映して、定額法や定率法が想定する以上のスピードで資産が急速に陳腐化したり、事業転換や事業統合、あるいはM&A によって資産価値が喪失されるケースが次第に増加するなか、一括償却や償却期間の短縮が行われると、それによって償却額は大幅に変動するものの、そうした会計処理は当該事業に対する個別企業の判断が起点となる。さらに、繰延資産についてみると、90年代入り後、製品開発競争が激化し、国境や企業規模を問わず、企業の研究開発費が増嵩するなか、当期の研究開発費を一括して経費処理するか、あるいは中期的な売り上げのコストという位置付けのもと、研究開発費を繰延資産と計上して毎期一定額を費用として処理するかによって、計上されるべき費用が変わる。
(ニ)こうした認識に立脚してみると、売り上げから費用を控除して利益を算出しようとする伝統的な損益計算方法、いわゆる収益費用アプローチは、費用の問題、すなわち、一過性でなく中期的に継続する費用である場合、当該費用を各期にそれぞれどれだけ配分すべきかという問題から逃れられず、それが、他社との比較に支障を来し、企業会計に対する信頼性を低下させる根本的原因である、という見解も成立し得る。
IASBは、こうした判断をもとに、利益計算方法を従来の収益費用アプローチから資産負債アプローチに変更し、それによって新たな業績報告スキームを構築していくことを目指した。すなわち、資産から負債を控除した株主持分について、前期末から当期末への増分を包括利益と認識するスキームであれば、企業の恣意性が排除された客観的な財務諸表の策定が可能になるという判断を下した。なお、この利益計算スキームでは増資や減資による影響は除外される。
一方、このスキームが有効に機能するためには、期首と期末の2時点における資産・負債の時価評価が不可欠となる。例えば、販売目的で製造した製品価格を、原材料費や人件費などの製造原価ベースあるいは取得原価ベースで評価しては売上高に相当する金額の計上が困難になるし、仕入れた原材料を取得原価で評価すると在庫評価損益が漏れてしまうためである。さらに、こうした時価主義会計に立脚したスキームが構築されると、企業の利益計算をめぐる恣意的取り扱いが排除されるうえ、様々な未実現保有損益が自動的に集計され、従来の純利益を包摂した包括利益が計上される。加えて、会計理論の視点からみると、包括利益を通じて貸借対照表上の株主持分の増減額と損益計算書の計算結果である利益金額とが一致する結果、貸借対照表と損益計算書との連携関係、すなわち、会計学上のクリーン・サープラス関係(Clean Surplus Relation)が成立し、会計実務において理論的整合性が実現される。
以上の議論を整理すると、IASBの包括利益プロジェクトの眼目は、未実現保有利益の評価対象を拡大することによってアメリカの現行会計制度を上回る豊富な情報を備えつつ、恣意性の排除によって企業間比較が容易に行え、かつ信頼性の高い企業会計制度を構築することにあるといえよう。それだけに、前述のa.純利益の廃止、b.評価損益対象の拡大、c.リサイクリングの禁止、というアメリカ現行会計基準との食い違いについてみると、IASBの包括利益プロジェクトにとって、その3点はスキームの中核であって、不可欠の焦点と位置付けられる。すなわち、資産負債アプローチによる利益計算を正確に行うためには、金融資産など一部の資産や負債に限定することなく、幅広く時価評価を行う必要がある一方、純利益を計上するには期ごとに発生する費用を改めて算出したり、リサイクリングを行うことが要請されるものの、それを容認すれば、収益費用アプローチをやめてあえて資産負債アプローチを採用し、費用の配分問題による恣意性を排除しようとした所期の目的が達成されなくなる懸念が大きいためである。このようにみると、アメリカの現行会計基準とIASB のプロジェクトは包括利益という術語を用いていることから表面上相似しているため、両者を同一視したり、あるいは、わが国はグローバル・スタンダードから立ち遅れているという言説が散見されるものの、両者は根本的に異なり、むしろ相反するスキームと捉えられる。
(ホ)もっとも、IASBの資産負債アプローチによる包括利益プロジェクトは単に会計理論に基づいて立案されたスキームではない。IASBがイギリス会計基準審議会(ASB:Accounting Standards Board)との緊密な連携・協力関係のもとに本プロジェクトに着手し、それを推進してきたため、70年代以降、イギリスで定着してきた以下のような会計慣行が色濃く反映される結果となったという経緯が指摘される。
イギリスでも、かつては取得原価主義が企業会計原則の中心に位置付けられていた。しかし、70年代以降、企業買収への対抗手段として資産に対する時価評価が採り入れられていった。すなわち、含み資産に着目した企業買収の動きが広がるなか、敵対的買収に対抗し、事業を継続するために、不動産資産を再評価して未実現評価益を株主持分、わが国の資本の部に計上し、自己資本を増加させる会計処理が採用された。その結果、イギリスでは、損益計算書は原価主義であるのに対して、貸借対照表は時価主義に基づいて策定される会計慣行が定着した。こうした会計慣行が体系的に整理され、92年に総認識利得損失計算書(statement of total recognised gains and losses )が主要財務諸表の一つとして位置付けられた。本計算書では、金融商品のみならず、土地・建物の固定資産や海外企業への投資などの未実現評価損益が計上され、それが純利益と合算されて総認識利得が算出される。さらに、本計算書でいったん未実現利益が計上されると、その段階で損益が確定したという判断のもと、後日、売却などによって現実に評価損益が発生しても、損益計算書の純利益に改めて計上する、いわゆるリサイクリングは認められず、今回のIASB の包括利益プロジェクトと同じ取り扱いとなっている。 - 包括利益プロジェクトの問題点
(イ)上記の通り、IASB は、企業会計に対する信頼性や比較可能性を高め、豊富な情報を盛り込むことを通じて、投資家のみならず、債権者や取引関連企業、政府や従業員など、会計情報を利用する様々なユーザーのニーズに応えるべく、包括利益プロジェクトに着手し推進してきた。しかし、資産負債アプローチに立脚した包括利益制度は、仮に会計理論上優れており、イギリスでは問題なく受容されるとしても、その他の国々では深刻な機能不全に陥る懸念が大きい。とりわけ重要な問題は、a.包括利益の情報価値が小さく、b.資産・負債評価が困難であるのみならず、c.本制度の導入によって、かえって企業業績や景気の変動が増幅され、経済が不安定化するリスクが大きい、という3点である。具体的には次の通りである。
(ロ)第1に、純利益から包括利益に変更すると、企業の業績指標として会計情報の価値が小さくなってしまうことである。
これは、IASBから包括利益会計基準に関する運用指針が公表される段階に至っていないため、具体的な取り扱いがどのようになるかは不明であるものの、収益費用アプローチが全否定され、資産負債アプローチが全面的に採用されるという極端なケースを想定した場合、発生が見込まれる次のような事態に端的に象徴される。まず、貸借対照表をベースに考えると、資産から負債を控除した株主持分の期中増加分が利益と位置付けられる以上、メーカーであれば工場で生産された製品が、流通業者であれば仕入れた商品が、それぞれ時価評価の対象となる。次に、そうした会計処理を前提とすると、販売された製商品については所有権移転の段階で売却金額だけ製商品勘定が減り現預金勘定が増え、その結果、一般に利潤が発生するのに対して、売れ残った製商品は不良在庫のリスクを抱えているにもかかわらず、そのままでは期末時点で時価評価され、利潤を含んだ評価金額が資産として計上されてしまう、という事態である。無論、一部には、期末時点で企業が保有する製商品が売り上げに繋がった場合の金額を知りたいという向きが存在する可能性は否定出来ないものの、当期の業績を確認したり、当期の販売動向や収益力から業績の先行きを展望する基礎データとして財務諸表を活用しようとする一般的な会計情報の利用ユーザー・サイドに立ってみれば、当期の実績が判然としない包括利益が提供する情報価値は純利益のそれを大きく下回る。資産負債アプローチのもとでも、そうした事態を回避し、当期の業績を明確に確定し表示するには、販売不振の製商品、あるいは事業転換によって事業分野から外れた製商品について、不良在庫として切り離し、計上すべき資産対象から除外する処理が必要になる。しかし、そうした処置は、市場ニーズの変化や技術進歩など、製商品の販売環境に左右されると同時に、値引き処分をするか否かも含め、当該製商品の販売可能性に対する企業の判断に依存するだけに、資産負債アプローチの導入によってIASBが排除しようとした企業の恣意的な判断を受け入れ、それに基づく会計処理を容認する以外に方策はない。
また、資産負債アプローチでは、事務所や工場など、事業性固定資産に時価評価が及ぶ。そのため、事業性固定資産の評価額が増加するケースを想定してみると、単に周辺の地価上昇に起因する場合がある一方、将来性の大きいR&Dや商品開発・企画を行う強力な組織形成に成功したり、利幅が大きく売れ筋の製品製造ラインを設けるなど、企業の競争力や収益力の向上によって割引現在価値が増大し評価額が増える場合や、さらに単なる地価上昇と競争力・収益性の向上とが相互の好循環を生む場合もありうる。当期の業績や当該企業の収益力の行方を展望するために必要な会計情報という観点からすれば、環境変化による評価額の増加部分と競争力強化や収益力アップの成果として獲得された価値増大の部分とは区別して捕捉されるべきであり、それによって会計情報の有用性が大きく高まる公算が大きいが、資産負債アプローチは企業の恣意性排除を原則とするだけに、そうした区分処理を導入することも困難である。
こうした使い勝手の悪さ、すなわち、企業の経営努力による成果と外部環境変化による効果とが区別されず混在するため、その革新性から世界の会計基準の改革をリードし、世界で最初に包括利益制度を導入したアメリカでも、包括利益情報を企業業績として利用する動きは依然低調であり、主として未実現評価損益の動向やその内訳を確認する情報として利用されているのにとどまる。一方、92年に総認識利得損失計算書制度を導入し、IASB の包括利益制度導入議論をこれまでリードしてきたイギリスでも、会計基準審議会(ASB)サイドでは純利益を廃止し包括利益に統合しようとする動きがみられるのに対して、企業サイドでは、今日でも、包括利益とは別に純利益が損益計算書を通じて計上・公表する形態が一般的とされる。
(ハ)第2は、時価評価の正確な実施が困難なことである。
まず、評価方法の問題がある。すなわち、市場が存在する場合、一見すると評価額の算出は容易であるようにみえるものの、そのケースでも評価基準として販売価格と再調達価格のいずれを選択するかによって金額が異なる。また、市場が存在しない場合には、一般に、割引現在価値を計算して評価額を算出する以外、有力な方策がないものの、このフォーミュラでは、前提となる割引率や各期の収入予測のわずかな違いによって、評価額の大幅な異動が不可避である。
さらに、評価金額の算出プロセスに、IASB が企業会計から排除しようと企図したはずの企業の恣意性が介在する可能性が大きいという問題がある。具体的には、市場性のない事業性固定資産(例えば個別企業独自の研究所や工場の生産ライン、機械設備)、あるいは、アメリカの地方圏など、土地の取引市場がなく、地価が存在しない地域に所在する不動産について時価評価を算出するには、上記の通り、割引現在価値に依存する以外、有力な方策はないが、その算出フォーミュラで使用される将来の収入に関する計数は、コアビジネスの必須資産か、リストラ有力候補事業の付随資産かなど、当該固定資産をどのように位置付け、さらに、今後の事業環境と自社の競争力をどのように展望しているか、という各企業それぞれの判断が起点となって計算される。
そもそも、包括利益プロジェクトとは、企業会計が網羅する項目を増やし、比較可能性を高め、情報価値を引き上げることによって、信頼性を回復することが所期の目的であった。しかし、このようにみてくると、資産・負債の時価評価とは、多様な算出方法のもと、各企業の経営判断や国や地域によって異なる市場構造を前提としたスキームであるだけに、各企業の計数はそれぞれ強固な独自性を随伴しており、単純な比較は誤解や誤認を生むリスクが大きい。
加えて、投入コストの問題がある。企業会計は経済活動に即した制度であるため、理論的にどれほど有力な制度であっても、導入コストが効果を上回る限り、採用されない。こうした観点からみると、わが国でも2005 年度に強制適用になる固定資産の減損会計が参考になる。
まず、時価主義会計はすでにグローバル・スタンダードであり、その導入は企業経営実態に関するディスクロージャー推進策として不可欠であるという観点から、わが国でも固定資産の減損会計制度導入が決定された。しかし、本制度は、ときに時価主義会計と呼称されることがあるものの、本来の時価主義会計とは根本的に異なる。すなわち、資産負債アプローチに立脚した包括利益スキームでは、原則として全資産を対象に毎期評価が行われ、時価との差額が未実現損益として認識されるのに対して、減損会計とは、減損の兆候がある資産に限定したうえ、回収可能価額との差額分だけ帳簿価格を減価させる会計処理であるためである。具体的に2003年10月末に公表された運用指針に即してみると、減損の兆候がある資産とは、市場価格が帳簿価格の半分以下となるなど、著しい価格下落に陥った資産、あるいは、当該資産からの営業収益が過去2 期連続してマイナスであり、かつ、当期でも黒字転換が明確には見込めない資産とされている。これは、ディスクロージャーによって増加する会計情報を巡る質向上や信頼性強化などのメリットが、従来の財務諸表作成に減損会計が上乗せされて増加する会計処理コストを決して下回ってはならないという判断基準のもと、計測すべき対象資産が限定された結果である。ちなみに、アメリカの減損会計基準でも、そうした観点から同様に対象資産の限定が行われている。
(ニ)第3は、資産負債アプローチに基づく包括利益制度が導入されると、それが、個別企業、さらに各国経済の撹乱要因となる懸念が大きいことである。
まず、資産価格が一般物価に比べて大きく変動しやすいことである。80年代の地価・株価バブルを経験したわが国のみならず、近年でも、返還前後での香港やこのところの中国沿岸部など、世界各地で活発な資産価格変動の動きが看取される。さらに、今回の包括利益プロジェクトの発端となったイギリスについて、90年代入り後の動きをみると、次の通りである。すなわち、ハリファックス不動産指数と消費者物価の年平均変化率を90~95年、95~2000年、2000~2002年の3期に分けて対比してみると、消費者物価では、順に▲1.8%、3.1%、9.9%であるのに対して、ハリファックス不動産指数では、▲2.2%、6.6%、12.9%であり、上昇期、下落期ともに、ハリファックス不動産指数の変化率が消費者物価のそれを上回っている。加えて、ロンドン地域に限定すると不動産価格の変動幅は一段と大きく、▲3.8%、13.9%、15.6%と、消費者物価変化率のほぼ倍の水準に達している。もっとも、不動産価格の変動が大きいうえ、下落と上昇では下落幅が相対的に小幅なものにとどまってきただけに、イギリスでは、不動産資産の含み益増加効果が大きく、その結果、上記の通り未実現保有損益の繰り入れが企業買収の動きを阻止する有力策として機能してきたといえよう。
しかし、そうした不動産資産の含み益増加効果は地域別格差が大きい。イギリス国内についてみても、地域別格差は顕著である。2002年のハリファックス不動産指数水準を1983年対比でみると、上昇倍率は、ロンドン地域の5 倍に対して、イギリス全体では3.5倍にとどまる。さらに、こうした格差は、各国内のみならず、各国間にも存在する。その結果、資産・負債の時価評価制度が導入されると、国内外にわたる不動産価格の地域間格差が、未実現評価損益の計上を通じて、包括利益に影響を及ぼすことになる。
加えて、各国のマクロ経済、あるいは各国・各地域の産業動向は、グローバル化の進展に伴って次第に相互作用が強まっているものの、必ずしも同期化していない。その結果、同様な資産あるいは負債であっても、当該資産・負債の割引現在価値に各国のマクロ経済の景況や産業景気の違いが反映され、時価評価が食い違うという事態が発生する可能性が大きい。
一方、グローバル化動向に目を転じてみると、90 年代半ば以降、国際的な資本移動が一段と活発化している。そうした情勢下、純利益が廃止され、企業業績を表章する指標として包括利益だけに統一された場合、投資家をはじめ、企業会計情報のユーザー・サイドでは、公開、非公開を問わず、従来の純利益を代替したり補完する情報をより積極的に収集しようとする動きが強まるとみられるものの、一方、少なくとも一部では、代替手段が見当たらないなか、企業業績を示唆する指標として包括利益が次第に利用され始め、包括利益の動向が国内外の投資活動を左右する傾向が強まる可能性は否定出来ない。
その場合、各企業の業況のみならず、各国のマクロ経済動向でも深刻な影響が発生する懸念が大きい。すなわち、包括利益の表面的な違いから企業に対する評価が実力から乖離する結果、割安なコストで潤沢に資金調達が出来る企業と、逆に相対的に資金調達コストが上昇したり、さらに資金調達自体に支障を来す企業が発生する一方、マクロ経済面では、不動産をはじめ資産価格評価損益の多寡や景況局面の違いが各国全体の包括利益動向や利益水準に投影され、その結果、資本の国際的偏在問題が発生したり、増幅される懸念が大きいことである。
さらに、問題はそれだけにとどまらない。まず、過大な資金流入は経済成長ならびに企業業績の改善に寄与するうえ、資産価格の上昇傾向に拍車を掛け、それが包括利益の上振れを通じてさらなる資金流入を招来する結果、実勢以上の経済発展と企業業績を実現する拡大サイクルが作動する。しかし、成長率や収益増加ペースが鈍化し始めていったん先行き期待が後退し剥落すると、資本が逆流し拡大サイクルが頓挫する結果、一転して深刻な景気後退や業績不振に陥る。そのため、上昇局面と下降局面とも、従来比、景気循環や企業の業績動向の変動幅が拡大されやすい。その兆しはすでにある。すなわち、90年代後半に発生した、東南アジアやロシアなど、エマージング経済の急速な台頭と金融危機後の深刻な低迷である。
一方、個別企業の立場に立ってみると、こうした会計制度のもとで勝ち組として生き残っていくには、包括利益の極大化が最大の経営課題となる。すなわち、本来業務を通じた利益増加の取り組みに比べて、不動産にせよ、金融資産にせよ、評価益の計上や追加が容易である限り、まずもって、含み益のさらなる増加に注力する動きが支配的となる。一方、研究開発拠点にせよ、販売・製造拠点にせよ、将来の競争力強化にどれほど寄与するとしても、深刻な評価損の発生が見込まれる場合、そうした資産について可及的速やかな処分が有力な選択肢となる。 - 今後の課題
(イ)このように包括利益プロジェクトには様々な問題がある。その結果、本プロジェクトは、わが国のみならず、アメリカからも強力に反対され、2003年央以降、急速に進捗テンポがペースダウンした。
そもそも国際会計基準の策定とは、企業会計の信頼性向上や比較可能性の拡大を実現するために必要な会計基準の統合と、各国・各地域に根差した会計・経済慣行との調和を追求する取り組みである。こうした観点を踏まえてみれば、IASBの包括利益プロジェクトでは、まず現在の議論の枠組みを根本的に見直し、アメリカの会計基準における包括利益制度を原点に仕切り直すべきである。その主な枠組みを整理すると、次の通りである。すなわち、a.取得原価主義を基盤とするこれまでの収益費用アプローチを堅持し、企業業績を表章する指標は、従来同様、純利益であるとの位置付けを明確にする。b.従来の財務諸表では必ずしも明確ではなかった未実現評価損益について、その全体像と内訳を示す項目としてその他の包括利益項目を設け、国際会計基準として各国会計基準の統合を図る。c.もっとも、未実現評価損益の具体的な対象項目については、国別・地域別の会計慣行や経済情勢、企業間取引の態様を踏まえて、各国が規定する一方、グローバル化の進展を取り入れつつ、将来的には具体的項目の統合を目指す、の3点である。
(ロ)無論、わが国独自の立場に立てば、仮にIASB が国際会計基準として本プロジェクトを強行したとしても、日本として採用しないというスタンスも選択肢の一つであろう。しかし、企業規模を問わず、国際取引が増大する一方、海外市場において株式は上場しなくても社債を発行する企業が増大するなか、そうした消極姿勢では将来に重大な禍根を残す懸念が大きい。
まず国際会計基準収斂に向けた取り組みが地域的にも一段と拡大し、無視出来ない動きとなっていることである。すなわち、IASBが策定する国際会計基準は、2005年以降、EUの会計基準として採用され、7,000社余りのEU域内証券取引所上場企業に適用される。一方、韓国やタイ、インドネシアを中心に東アジア各国では、98年の通貨危機以降、その根因として各国企業会計制度の未整備が指摘されるなか、国際会計基準の導入が急速に推進されている。加えて、アメリカの財務会計基準審議会(FASB:Financial Accounting Standards Board )は、IASBの包括利益プロジェクトでは強硬姿勢をとっているものの、2002年10月、国際会計基準の統合に向けIASB と緊密に連絡を取り合っていくことで合意し、爾来、積極的な相互協力関係が展開されているなど、わが国を巡る国際的環境が数年前とは大きく変化していることである。
一方、IASBでは、包括利益プロジェクトに対して引き続き積極的に推進するスタンスが堅持されている。すなわち、開始から2年たって成果の上がらないプロジェクトを見直すサンセット方式のもと、包括利益プロジェクトもその対象となったものの、IASBは、2003年6月、本プロジェクトについて、業績報告(Performance Reporting)から包括利益報告(Reporting comprehensive income)に名称を変更したのにとどまり、純利益の廃止やリサイクリングの禁止など、プロジェクトの基本的枠組みにはなんらの修正も行わず、これまでの議論や調査を踏まえ、さらなる検討を続けることとした。
(ハ)従来、わが国は、環境問題にせよ、知的財産権問題にせよ、国際間の議論に積極的に参画し、議論をリードするよりも、むしろ、国際機関が決定した枠組みを受容するケースが少なくなかった。しかし、国際企業会計基準の統一化は、その進行によって、わが国企業・経済が直接的に大きな影響を被る。加えて、包括利益プロジェクトに象徴される通り、国際的に深刻なマイナス影響の発生が懸念されたり、国際的に反対論が根強いにもかかわらず、特定地域の会計基準をグローバル・スタンダードとして位置付けようとする動きすら台頭しており、わが国にとって決して座視出来ない問題である。
こうした情勢下、経団連や日本財務会計基準審議会はすでに積極的な活動を展開している。しかし、欧米各国に比べてみると、相対的にわが国の活動が広がりに欠ける点は否めない。国際規模で経済や企業活動のスピード競争が一段と激化するなか、会計基準の国際的統一問題をはじめ、グローバル・スタンダード策定を巡る国際的議論において、わが国の主張を明確に展開して国際社会から支持を獲得し、国益の擁護・拡大を実現する強力な体制の構築が焦眉の急である。