オピニオン
実害のない虫たち ~自然と都市住民との間のバリアを考える~
2024年06月11日 高保純樹
春の陽気が心地いいある週末のこと。私の乗る山手線車内に、体長2cmほどのカメムシが飛び込んできた。その名をキマダラカメムシと言い、平たい焦げ茶色の体に、名前のとおり黄色の斑模様が付いた姿をしている。カメムシは車内を飛び回り、他の乗客の腕や服に着地しては、取り乱した乗客に床に叩きつけられる。それでもカメムシは懲りずに飛び回るので、いつしか周囲の乗客の多くが体を強張らせ、「こっちに来るな」と言わんばかりに、険しい表情で警戒の視線を向けるのだった。 少なからず多くの読者の方が、この乗客に同情感を抱きながら、冒頭の導入記述を読まれたのではないだろうか。しかし実のところこの虫は刺したりしないし、まして毒も無い。少し邪魔である以外には何の実害もないのである。筆者の感覚では、この虫に限らず、都市で遭遇する多くの虫も同様である。それなのに我々都市住民は、無害な虫にまでヒステリックに反応しすぎていないだろうか? 事実、都市住民の多くは虫を嫌っている。埼玉県が2022年に実施した「衛生害虫についての意識調査」 では、虫の好き嫌いを尋ねた質問で、2,000人超の回答者のうち実に77.5%が「虫が嫌い」または「どちらかといえば虫は嫌いな方である」と回答した。 この状況は、昆虫愛好家にとって嘆かわしいというだけではない。虫嫌いの増加は様々な場面で弊害をもたらしていると言われている。例えば、社会の虫への関心の無さが、生態系の重要な一員である虫たちの保全活動が進まない原因になっている。また、タンパク質危機の有望な解決策とされる「昆虫食」の普及が進まないのも、昆虫に対する嫌悪感が一因であることは想像に難くない。 さらに身近な問題として筆者が注目したいのは、虫が持つ人と自然環境との間のバリアとしての特徴である。近年では、子どものうちから自然と接することで免疫が改善することや、緑を感じることで精神的健康にいい影響があることが科学的にもわかってきている。しかし、極度の虫嫌いは、人を自然体験から遠ざけることがある。「虫がいるのが嫌だから、アウトドア活動はしたくない・・・」という人が、読者の方やその周りにもいるのではないだろうか?あるいは、虫が苦手な親や保育士のような立場の大人が、子どもを虫や自然との触れあいから遠ざけてしまうこともあるだろう。 実はこのことは、人と自然の関係を巡る悪循環の一部である可能性がある。千葉大学大学院の深野祐也准教授(当時東京大学大学院助教)と東京大学大学院の曽我昌史准教授は、2021年に発表した論文の中で、都市化が虫嫌いを助長するメカニズムを進化心理学の観点から考察している(※) 。そこでは、虫嫌いが、自然から離れた環境で暮らしていることが原因で強化されているという仮説が導かれている。 都市生活で虫が嫌いになり、虫が嫌いすぎてますます自然体験にも行かなくなる。虫を介したこの悪循環を断ち切る根本的な解決策は、住環境自体が自然豊かになることだが、そのトランジションの段階では、虫が少なくとも「平気」な人を増やすことも重要であると考える。そのためには、都市でここまで虫が嫌われるに至った原因にアプローチしていくことが有効だろう。 先の論文では、都市化が虫嫌いを助長するメカニズムとして、2つの経路が提示されている。第一の経路は、居住空間内(室内)で虫を見る機会が増え、人間の「病原体回避」の心理が強く反応するようになったこと。第二の経路は、虫を判別するための知識が失われた結果、その虫が危険か否かにかかわらず、エラーマネジメントとして広範な虫を嫌うようになったことだ。 この2つ目の経路であれば、即効性のある解決策が望めるかもしれない。近年では、AI画像認識により虫の種類が自動でわかるサービスが普及している。これを応用して、例えば市民がスマートグラスで目の前の虫を見れば、その正体と「害の有無」を簡単に知ることができるアプリなどの方法が考えられそうだ。 ところで、冒頭で登場した山手線のカメムシは、筆者が捕獲し途中下車することで難を逃れた。もしあの時の乗客たちが極度の虫嫌いを卒業してくれていれば、腕にとまられたのをそっと振り払う程度で、カメムシは床に叩きつけられずに済んだかもしれない。そんなふうに適度に嫌い合うくらいで、共生していく道を探っていきたい。(※参考) Fukano, Y. & Soga, M. (2021) Why do so many modern people hate insects? The urbanization-disgust hypothesis. Science of The Total Environment 777, 146229 . ※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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