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人的資本経営の未来:期待される「人的資本家」と「人的機関投資家」の出現

2022年09月21日 岡田昌大


 現在、人的資本経営という言葉に注目が集まっている。経済産業省によれば、人的資本経営とは人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方と定義される(※1)。また人的資本とは従業員個人が持つ知識・スキル・能力の総称を指し、人的資本への投資とは従業員への教育訓練や職場環境の改善、エンゲージメントを高める施策等と捉えられる(※2)
 注目が高まった契機は、経済産業省から2020年9月に公表された「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書(通称:人材版伊藤レポート)」であろう。ここで提示された経営戦略に連動した人材戦略の必要性と、従業員への人材投資の重要性は、ESG投資の「S」に該当し、機関投資家が重視する情報として開示することが推奨された。2022年5月には経営戦略と連動した人材戦略を具体的にどう実践するかに焦点を当てた「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書(人材版伊藤レポート2.0)」が公表された。
 2022年8月には「人的資本経営コンソーシアム」が発足し、人的資本経営の実践に関する先進事例の共有、企業間協力に向けた議論、効果的な情報開示の検討が進められている(※3)

 株式市場においても主流になりつつあるESG投資では、図1のように機関投資家はマルチステークホルダーの意見を代弁しながら、投資対象となる企業に対して、エンゲージメント(建設的な目的を持った対話)を実行する傾向を強めている。



 これに呼応して、上場企業ではESG投資への対応を意識して、マルチステークホルダーとの建設的な目的を持った対話の手段として統合報告書などを活用した情報開示を進めており、一部の企業は高い評価を受けている(※4)

 人的資本経営について概観すると以上のようになるが、少し立ち止まって、高度経済成長期に萌芽し、バブル崩壊の1990年頃まで隆盛を誇った日本型雇用(日本的経営)と今回が具体的にどう違うのかについて確認しておくことは意義があるだろう。
 日本型雇用の特徴は、終身雇用、年功序列、企業別労働組合、の大きく三つにあると言われる。人を大切にする考え、中長期的な視点での経営という発想は、表面的に見ると、人への投資や中長期的な企業価値向上を標榜する人的資本経営と近いという印象を持たれるかもしれない。
 しかしながら、筆者が考察するに、その中身は全く異なると言わざるを得ない。なぜなら伝統的な終身雇用と年功序列では、建前上は(年齢が上昇すれば能力も高まるという意味で)能力によって給与を決める発想が採用されていたとは言え、実際に従業員が受け取る給与は人生のライフサイクルに合わせた生計費の色彩が濃かったからである。男性であれば、20代半ばから後半には結婚することを前提に、子どもが高校や大学に進学する40~50代に最も給与が高くなる制度設計になっていた。1990年代以降、成果主義という掛け声のもと、ハイパフォーマーとローパフォーマー間で昇給額に差を付ける、あるいは一定の範囲で昇給を止める措置が取られ、徐々に変革が進んでいるが、伝統的な日本型雇用の仕組み自体は依然として維持されているのが実態である。

 今回、それに対し風穴をあけようとする挑戦が、人的資本経営という概念には組み込まれていると考えたい。働く人のライフスタイルが多様化し、ステレオタイプな生計費の支給では働きがいを実現できなくなった企業においては、抜本的な発想転換を実現する必要がある。
 近年議論されている人的資本では人材を「資本」と捉え、人への投資と銘打つ以上、リターンが求められるはずだが、実際は、人的資本を企業側、ひいては経営者の立場で行うものがほとんどである。本来であれば、働く人が自らを「資本」と捉え、自分自身への投資を行ってリターンを得るという視点があっても良いはずだ。こう考えることで、給与や手当が生計費として支給されるという発想を塗り替えることができるのである。
 現時点では、人的資本経営への関心を寄せる主体のトップバッターは投資家で、優れた人材が集まることで優れた投資リターンが実現できるとの期待を高めている。次が経営者で、人材投資の上乗せと関連情報開示で業績や株価にポジティブな影響が及ぶことを期待している。
 しかし筆者が強調すべきと考えるポイントは、人的「資本」と呼ぶからには、働き手にとってのリターンにこそ注目すべきという点である。具体的には、資本の出し手である働き手と、資本を使う企業間の関係性を見直すことで、働き手の側が資本を健全に再生産もしくは再投資して自らの価値を高めていく状況を作り出せるかが重要なのである。
そのためにまず真っ先にすべきことは、働き手が自らの人的資本について、経営者と積極的に議論することではないかと考える。これは投資家と企業の対話に等しい。例えば、仕事を通じて人的資本を高める機会があり、賃金も上がる見込みがあるのか。産前産後休業、育児休業、介護休業が従業員の性別問わず取得でき、従業員エンゲージメントや心理的安全性が高くて、働きやすくかつ働きがいのある職場になっていくのか、といった内容にもっと関心を持って、上司や経営者と対峙していくことも時には必要である。
 これに加えて、機関投資家と企業の関係と同様に、個々の働き手を束ね、複数の働き手のエージェントとなって企業と関係を持つという姿が有効だという発想も生まれる。現在は人的資本経営に高い関心を示す機関投資家が増加してはいるものの、それが永遠に続くという保証はない。人的資本経営が優れた投資リターンを実現するという確信が薄れれば、人的資本経営は一時のブームと化してしまうことになるだろう。
 これは働き手にとっては、時代に合わなくなった制度が置き換えられる好機を逸することになる。金融資本家に頼らず、自ら「人的資本家」と名乗って、自社が貴重な人的資本を投資するに値する企業かどうかを吟味する。そのために、企業に独自の情報開示を求める、金融資本家とは異なる「新たな資本家」としての運動を期待したい。
人的資本家がエンゲージメントしながら企業に情報開示を促す具体例として、①その企業で働くことで他の企業に転職しても通用する汎用的なスキルが身に付くか、②どこの企業に行っても通用するような職業経験が蓄積できるか、といった働き手の人生の選択肢を増やすスキルや経験を、企業側が授けられるかに関連する情報開示が想定される。健康寿命の延伸によって個人の働く期間が長くなる中、勤める企業や事業にどんな危機が起こっても、なんとか次の職を見つけ、自らの足で歩んでいける人材を数多く生み出すことが、働き手はもちろん企業にとっても優秀な人材を引き寄せる大きな要素となるはずだからである。
 そのイメージは図2で示すとおりである。現在は、機関投資家と企業・経営者のあいだで語られる人的資本経営であるが、今後は働き手が自ら「人的資本家」として振る舞い、企業とのあいだで語られる状況を作る。それが、あたかも別個の市場として捉えられることが理想である。こうした状況のもとでは、企業の人的資本の活用度合いや情報開示内容を評価する「格付け機関」や、人的資本家の意見を糾合し、企業側にエンゲージメントを迫る「人的機関投資家」の出現も容易に想像される。



 以上より、人的資本経営の未来に向けては、「人的資本家」や「人的機関投資家」が出現し、働き手のリターンに着目した、いわば「人的資本市場」の形成が必要だと筆者は考えている。
もちろん本稿で「働き手」として掲げた人材像が、プライム市場上場企業を始めとする大企業の正規雇用のホワイトカラーに限定されるのではという指摘もあるだろう。当然、非ホワイトカラーや非正規雇用の働き手が保有する人的資本の考察も、併せて検討されるべきである。人的資本経営が将来にわたって多くの働き手にとって重要な議論となるためにも、非ホワイトカラーや非正規雇用といった働き手が、人的資本経営という概念のなかにどう位置づけられるのか、今後さらに目を向けていきたい。

(※1) 経済産業省『人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~
(※2) アメリカの経済学者ゲーリー・ベッカーによると、人的資本とは従業員個人が持つ知識・スキル・能力の総称であり、具体的にはknowledge(タスクを遂行するために必要な情報)、skills(タスクを遂行するための個人レベルの能力)、ability(種々のタスクに応用可能な継続的な特性)、other characteristics(さまざまなタスクの遂行に影響するパーソナリティー特性や関連する要因)の頭文字を取ってKSAOsと表現される。
(※3) 経済産業省『人的資本経営コンソーシアムが設立されます
(※4) 統合報告書を審査する代表的なイベントとして、日本経済新聞社が主催する日経統合報告書アワードがある。
以上

※記事は執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。
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