国際戦略研究所 田中均「考」
【毎日新聞・政治プレミア】日中関係再考の時
2025年12月10日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所特別顧問
高市早苗首相の台湾有事国会答弁に端を発した日中関係の悪化はどこまで続くのだろうか。ようやく再開されようとしていた日本産水産物輸入の再停止、観光客や留学生の訪日自粛要請や各種交流イベントの中止、さらには東シナ海や尖閣周辺における中国軍艦船や航空機の活発な挑発的活動、ひいては中国戦闘機による自衛隊機へのレーダー照射など軍事的に脅威を与える中国側の一方的な行動はエスカレートしていく。高市政権は右派政権と言われ中国の警戒心は発足当時強かったが、戦略的互恵関係をうたう首相就任演説や靖国神社への参拝見合わせなどを評価してなのか、比較的早期に日中首脳会談が実現した。しかしその後、高市首相がアジア太平洋経済協力会議(APEC)台湾代表との会談を習近平主席との首脳会談直後に自身のSNS(交流サイト)でプレイアップしたことや台湾有事に関する国会答弁などへの反発は強く、「核心的利益」とする台湾問題を巡る中国の反発は容易に収まりそうにない。
日本国内では過剰な中国の反発と捉え、反中嫌中の世論が高まっている。しかし、ここは、中国の動きに惑わされることなく、日本にとって対中関係はどういう重みを持ち、将来どういう関係を作り上げていくべきか真剣に検討すべき時に来ているのではないか。中国を巡る国際関係も激しく動いており、その中での日中関係を考えなければならない。特に日本の政治が「反中」のポピュリズムに流されていくのではなく、日本の国益の観点から客観的に日中関係を洞察していくことを望みたい。
日中関係は政治主導で構築されてきた
日本と中国は1894年の日清戦争に始まりおよそ50年の間に日清・日中の2度の戦争を戦った。これらの戦争は日本の大陸進出の野望の下で戦われた戦争だった。戦後1972年に中国共産党支配下の中国と日中共同声明で国交を樹立するに至った。この背景には72年のニクソン訪中で発表された「上海コミュニケ」による米中の敵対関係の終止符という動きがあり、さらに「ゴールデン・トライアングル」と言われた米・ソ・中の関係があった。すなわち、当時ソ連と国境紛争を抱えていた中国を味方にすることにより、米ソ冷戦における立場を強くする思惑だった。ニクソン訪中は直前に知らされた日本にとっては寝耳に水(ニクソン・ショック)だったが、72年9月、田中角栄首相は訪中。日中共同声明を結び中国との国交を樹立し、日本国内に強いロビーが存在していた台湾と断交した。日本は米国に追随した形となったが、そこには田中氏や大平正芳外相(いずれも当時)らの政治的決断があった。
さらに日本は78年の日中平和友好条約締結後、対中政府開発援助(ODA)の供与を開始した。筆者は当時東南アジア諸国を担当する課にいたが、中国担当課長に対して対中ODAを急激に増やすべきでない、と申し入れたことを思い出す。しかし対中ODAはそれまで最大の受益国であったインドネシアを追い越し瞬く間に最大のODA受け取り国となった。やはりこの背景には日中関係の「井戸を掘った」自民党田中派の強力な後押しがあったからだろう。
「日中友好万歳」的な雰囲気が変わったのは、まず89年の「天安門事件」があり、その後ソ連の崩壊により冷戦が終了する一方で中国が急速な経済成長を遂げた90年代から2000年代初頭にかけてであった。米国は徐々に中国を最大の競争相手とみなし始め、中国が日本を追い越し世界第2の経済大国となった2010年ごろには日本国内で反中ナショナリズムがみられるようになった。この間、日中間では靖国問題など過去の歴史に起因する問題が噴出し、国際社会においては中国の拡張的な海洋進出や「一帯一路」(シルクロード経済圏構想)のほか、「戦狼外交」と言われる攻撃的な外交が批判の的となった。安倍政権下では米国と共に「インド太平洋構想」を掲げ中国を意識した構想が推進されていった。
国際政治構造の変化
世界は冷戦終了時に匹敵するような国際政治構造の大きな変化の時を迎えている。中国を筆頭とする新興国の追い上げで米国一極体制は後退し、多極的な体制に入ったようだ。
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