国際戦略研究所 田中均「考」
【ダイヤモンド・オンライン】政治問題化した「USスチール買収」の行方、 経済安全保障を名目にした保護主義の危うさ
2024年09月18日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所特別顧問
|「ウィン・ウィン」のはずが政治案件に
|USスチール本社所在地は「激戦州」
日本製鉄のUSスチール買収計画は2023年12月に、両社が合意を発表。全米鉄鋼労働組合(USW)は反対しているが、株主は賛成している。日本製鉄にとってみれば、米国鉄鋼市場への輸出がトランプ前政権の関税賦課以降難しくなっていく状況で、引き続き成長が期待できる米国内に生産拠点を持ち事業が展開できるメリットは大きい。
USスチール側にとっても株式の高価での買い取りや労働者の雇用維持、新たな設備投資など他にはない好条件での日鉄の買収であり、圧倒的な株主の支持を得た。ところが、実現に暗雲が立ち込めることになったのが、大統領選挙の投票を2カ月弱に控えた米国の政治状況だ。
米大統領選挙はバイデン大統領が撤退を決めなければ、トランプ優勢の勢いが増し、トランプ前大統領の復帰という事態も十分想定された。ハリス副大統領の登場は、高齢問題が致命的となりえたバイデン氏の弱みを今度はトランプ氏の弱みに転化した。
直近の世論調査では、ハリス氏への支持がトランプ氏を上回っているようだ。だが、両者の岩盤支持層が大きく揺らぐとは考えられず、接戦州7州での勝敗が決め手になるという状況に変わりはない。民主・共和両党の選挙戦もここに集中するのだろう。
USスチール本社はペンシルベニア州ピッツバーグに所在し、5万人の雇用を擁する工場も近郊に展開する。USWの頑なな反対が変わらない限り、トランプ氏が買収反対の姿勢を変えることは考えられない。「ラスト・ベルト」の製造業労働者を守るというトランプ氏の主張をまさに象徴している案件だからだ。
2日の集会でのハリス氏の「我々は米国の製造業を強化していく」「USスチールは米国内で所有・運営される企業であり続けるべきだ」という発言は、トランプ氏への対抗を意識したものといえる。
バイデン大統領が立場を翻し、日鉄の買収を認めることも考えにくい。買収を認めるとなれば、トランプ氏に格好のハリス氏攻撃材料を提供することになる。選挙戦が煮詰まった今の段階で、接戦州での選挙戦に不利になる材料を作るとは考えられない。
同盟国企業の買収は安全保障を脅かすか
注目されるCFIUSの審査
大統領が最終判断をする前提となるCFIUSの審査は、米国の国家安全保障への影響に係るものだ。バイデン大統領は3月に「USスチールは国内で所有、運営されるアメリカ企業であり続けることが不可欠だ」との考えを示し、外国企業の買収に否定的な考えを示している。
だが他方で、バイデン大統領は中国などの経済的進出に対抗し同盟国や友好国とのサプライチェーンの強化の重要性を訴え続けており、立場には大きな矛盾がある。
また日本製鉄の買収は、米国内での生産拠点の保全や労働者の雇用の維持、経営についての米国人の役割などについて、米国へ配慮したものになっている。
ハリス副大統領の発言のあと、4日に日本製鉄が発表した買収完了後のUSスチール運営方針でも、3人の米国籍の独立取締役を含む取締役会の過半数を米国籍とするなど、経営中枢メンバーを米国籍とすることや、日本製鉄がUSスチールの米国内生産を最優先することなどを打ち出している。米国の国家安全保障を脅かすものとして買収差し止めの合理性があるとは到底思われない。
これまでCFIUSが差し止めた投資案件のほとんどは中国の関連であり、日本企業の例はない。もし国家安全保障に有害だとすれば、果たしてどういう説明をするのだろう。
|米国を象徴する企業の買収は
|トラの尾を踏む?
USスチールは1901年に創設され、一時は米国の鉄鋼生産の3分の2を支配していたという歴史を持つ。 いまは米国内の鉄鋼メーカーでも3位であり、世界的に見れば、中国やインド、韓国、日本の企業の後塵を拝している状況だ。しかし買収をさせないというのは、米国の鉄鋼業を象徴する企業だけに、国家安全保障というより、米国民の感情への配慮から単に外国に保有されたくないということなのだろうか。
これまでの日米関係をたどってみれば、日本企業の行動や米国進出が米国の強い反発を買い「トラの尾を踏んだ」事例がないわけではない。
筆者は1980年代後半に外務省の担当課長として日米経済摩擦の真っただ中にいたが、幾つもの問題が起こった。ニューヨークの象徴的なビルだったロックフェラー・センターやエンパイアステートビルの日本企業による買収も対日批判の材料となった。ソ連潜水艦のスクリュー無音化に東芝機械の工作機械が使用された東芝機械ココム事件は、同盟国でありながらソ連の軍事に貢献し米国の国家安全保障を損なったとして、米国議会の激しい対日批判を引き起こした。
当時の最大の日米経済摩擦は自動車問題であり、日本製自動車が米国市場で大きくシェアを伸ばし、米国の自動車産業を脅かし、高い失業率を生んでいるとして全米自動車労働組合(UAW)などの激しい批判にさらされた。
この問題では、対米自動車輸出の自主規制措置を導入し摩擦を緩和したが、同時にトヨタなど自動車の主要メーカーが米国での現地生産を開始し、米国での雇用創出に資するとともに、米国の企業としてUAWにも加入することにより摩擦を解消していった。
日本製鉄のUSスチール買収はまさに米国で雇用を生み、米国鉄鋼業の高度化に資するものだけに、USWの強い反対は理解に苦しむ。
|貿易や投資に制限拡大すれば
|米国産業だけでなく世界にマイナス効果
日本が最も懸念すべきは、経済行動が国家安全保障を害するとして、合理的な範囲を超え自由貿易や自由な投資活動が制限される結果になることだ。「国家安全保障」の概念は無限に広がる危険があり、世界の繁栄を支えてきた自由貿易主義が害される結果となり得る。
2018年にトランプ前政権が鉄鋼に25%、アルミに10%の追加関税を導入したが、国家安全保障は表向きの理由であり、実際の狙いは国内の鉄鋼、アルミ産業を保護することだったのだろう。
中国からの過剰生産に基づく安価な製品の流入を防ぐことが一義的な目的だったと考えられるが、保護主義政策は長期的には国内産業の競争力を強化することにはならず、実際、米国鉄鋼産業はグローバルには競争できない存在となりつつある。USスチールの業績が悪化し、体質強化のためには相当な資本と高度な技術の投入が必要となったのもその結果だ。
保護主義を阻止し加盟国間の紛争を処理する機能を持っているのは世界貿易機関(WTO)だが、米国は、WTO上級委員会の運営や権限の強さへの不満から委員選任手続きを阻止してきており、審理を行う委員の定数が満たされないままWTOの紛争処理機能は事実上、停止している。
米国が国家安全保障のために必要とする鉄鋼・アルミ関税が正当なものかどうか、国際的に判断する機能が失われているのは残念なことだ。
今回の買収問題のように、国家安全保障の名の下に貿易だけではなく投資にも合理的な範囲を超えて制約が拡大していくことは世界経済にとってもマイナスの影響が大きい。
米大統領選で、トランプ大統領が勝利すれば、ほかにも一律10%の関税実施など貿易や投資に制限が加えられるなど自国優先の貿易政策や産業政策が実施される可能性が高い。一方でハリス氏勝利となった場合も、現状ではUSスチール買収問題がどのように解決されそうなのかはみえていない。
日本の経団連などの経済団体が懸念を表明しているが、この問題の行方は国際貿易や投資環境に大きな影響を持つものであり、日本政府は米国に対してきちんと問題提起をしていくべきだ。
ダイヤモンド・オンライン「田中均の世界を見る眼」
https://diamond.jp/articles/-/350612