国際戦略研究所 田中均「考」
【毎日新聞・政治プレミア】アメリカは変わってしまったのか
2020年10月06日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
今からおよそ20年前、サンフランシスコで日本国総領事をしていた頃に娘が通っていた私立女子高校のクラスで、女子生徒たちからいろいろな質問を受けた。「米国大統領による広島・長崎への原爆投下の決断をどう思うか?」が真っ先に受けた質問だった。
どう答えるべきか一瞬迷ったが、「数十万の市民を一瞬にして殺戮したわけで、戦争につながった日本の行動がどうあれ、今日の価値観で判断すれば人道にもとる許されない行為だったと思う。ただ、今の価値観で過去を断罪するわけにもいかない。当時の米国の大統領は、より大きな犠牲を出さないように戦争を早く終わらせるという考えだったように思う」と答えた。国民の意識と価値観を踏まえた判断だったのだろうが、米国大統領の決断は重い。
米国の価値観は変わってしまったのか
その米国大統領を選ぶ選挙が終盤に差し掛かり、トランプ大統領がコロナに感染し入院したことにより大統領選挙の見通しは著しく不透明となった。ただ、初回の大統領選テレビ討論会を見て慄然とした。見るにたえない無頼の言い争いだった。米国大統領が討論のルールを無視し、事実に基づいたとは思われない非難を浴びせかけ、双方が口汚くののしる様は異様だった。
このような討論はこれまでの米国では考えられないことであったが、時が移り、富裕者か貧困者か、保守かリベラルか、肉体労働者か頭脳労働者か、白人かマイノリティーかといった形で社会の分断が進んだ今、分断をあおり、分断された一方にくみする「乱暴」な議論をすれば自己を利すると考えたのであろうか。
また大統領は最大の権力者であり、国の象徴であり、責任をとる最後の砦(とりで)である、といった米国の「Presidency」についての価値観は損なわれたということなのか。アメリカで時間をかけて培われてきた、公人は人種差別を匂わす、あるいは女性を蔑視するような言葉は厳に慎むべき、という「政治的公正性(Political Correctness)」の概念も雲散霧消したということか。
国民の意識や価値観が変われば指導者もきれい事をかなぐり捨て、自己の利益に走るということか。トランプ大統領が掲げる「アメリカ・ファースト」も同じことなのか――。
冒頭で述べた広島・長崎への原爆投下は、その後の価値観の変化により核を行使するという判断を著しく困難にしたという意味で、大統領の決断の重さを示す例として取り上げた。大統領選挙の討論会で見たのは、米国の価値観が著しく劣化し、大統領の威厳も喪失してしまった様だった。
米国社会の分断は今に始まったわけではない
米国建国以来250年近くかけて築かれてきた米国大統領職の伝統が、トランプ大統領のみによって壊されたと考えるのは早計かもしれない。これこそが過去30年あまりの米国社会の分断と二極化によってもたらされている。
2001年の同時多発テロがある意味、変化のきっかけとなった。ニューヨークのツインタワー(世界貿易センタービル)という米国の中枢がテロにより崩壊させられたことが、いわゆるネオコン勢力の「悪の元凶はテロを支援するならず者国家にあり」という主張に勢いを与え、米国民の愛国心を高揚させ、結果的にテロとの戦いやイラク戦争につながった。この二つの戦いで多くの人命が犠牲となり、数千人の米国兵士も命を失った。
しかし、8年続いたイラク戦争がイラクを民主的統治の下での安定した国家に変えることに成功したわけではなかった。この戦争によって最も大きな傷を負ったのは多大のコストを支払ったアメリカ社会そのものだろう。米国民の強いフラストレーションがイラクからの撤兵を掲げたオバマ政権の成立を可能にした。米国で黒人大統領が誕生したこと自体、考えられないような変化と捉えられたが、8年間のオバマ民主党政権の下、同性婚をはじめ社会的少数派(マイノリティー)の権利保護やオバマケアの下での社会保障の拡充など、米国の政策はリベラルに大きくスイングした。
そしてトランプ時代。16年の大統領選挙は既成の政治勢力か否かという選択だったのだと思う。ブッシュ、オバマという2代の大統領は結果的に米国社会を分断し、国を一つの方向に導くことはできなかった。もはや既成の政治勢力にはしがらみが多すぎて米国社会をまとめることはできないのではないか、政治の中枢にいたクリントン女史ではなく、未知の不動産王でリスクはあるがトランプ氏に託してみよう、と選挙民は思ったのではなかろうか。しかしトランプ大統領は、国を一つの方向に導くために他の政治勢力との妥協も含め統治をしていこうという意識は持ち合わせていなかった。トランプ大統領は、白人労働者を中核とする「岩盤支持層」を念頭に置くスタイルを貫いた。
新型コロナウイルス感染拡大の下での選挙戦が、アメリカ社会の二極化をさらに深めたということも言える。新型コロナウイルスの問題は「感染拡大の防止」と「経済再生」を巡り、また警察官の黒人への扱いが「人種差別反対」と「治安維持」の保革の二極化へとつながっていった。さらに民主党の予備選挙においてサンダース上院議員に象徴される民主党内の左派勢力が台頭してきたことも、米国社会の分断に寄与しているということも言えるだろう。…
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