私は9月16日の論座で『新政権に望む~「権力維持の罠」にかかった政治から脱却を!』

菅内閣への期待は大きいが
菅政権の滑り出しは上々で期待は高い。私は先のコラムで、国民の歓心を買うための短期的行動から脱却して日本再興のための中長期的な措置を地道に追及してほしいと訴えた。
菅内閣は人気が高いうちに解散総選挙に打って出るというような事ではなく、まず実績を作ることに注力するという構えだと思う。また規制改革やデジタル化といったもう猶予できない事柄に断固取り組むという構えも好ましい。しかし統治の在り方についての最大の懸念であった「権力を背景に異論を排除する」という行動が再びとられている疑念を目の当たりにして驚き、失望した。
とくに学術と政権の関係は思想・言論の自由と深くかかわり、どこの国でもどの歴史の道程においても、最も微妙な配慮を有する問題であるにもかかわらず、これまでの考え方に反し、日本学術会議が推薦した新会員のうち6名を排除し、その理由も説明しないという。菅首相が安倍内閣において官房長官として政界人事や官僚人事の中核を担ってきたことから、前政権と同じように権力を背景とした人事権の行使により異論を排除しているのではないかという疑念を持ってしまう。
これまでの慣例に反して日本学術会議推薦の学者の一部を除くという以上、何故なのか、従来の国会答弁にかかわらずもはや形式的任命権ではないという事なのか、実質的な任命権を行使するならば、日本学術会議の新会員とするのを否定する理由を説明するべきだというのはもっともな意見のように聞こえる。特に新会員推薦基準が優秀な研究または業績を有する科学者とされている以上、拒否の明確な理由が必要だろう。説明がなければ、「政府の予算によって賄われている機関である以上、政府の政策に反した意見を述べた学者を入れる必要がない」という理由で拒否されたと推定されても致し方ないのだろう。
権力と学術の関係に慎重な配慮を
この議論は権力と知識人の関係の本質にかかわることなのでうやむやに済まされるべきことではない。「政府の機関である以上、政府の考えを支持する学者が会員であるのが好ましい」と言いうるのか。学者やその他の知識人にとって政権であれ、学会の権威的意見であれ、批判的に考えるのは当然のことなのである。
学者や知識人の役割は批判的に物事を考える事であり、そうすることにより学術的な進歩が得られる。批判を排除し、政府の意見通りの日本学術会議であってほしいと少しでも考えているとしたら、これは近代民主主義国家のあるべき姿ではない。そのような日本学術会議の持つ意味を深刻に問わねばならなくなる。
私たちは中国やロシアがますます強権体制を強め国内の引き締めのために知識人の意見を封殺しているのに対し、強い反発を覚える。私が親しく交流してきた中国の学者たちはもう自分の意見は言わない。政府の公式論のみを口にする。これではもう意味ある知的交流は成り立たない。
私は1997年外務省北米局で沖縄問題の担当者であった時、米軍基地の継続的使用を担保するため駐留軍特措法の改正をお願いし、圧倒的多数で可決された。その時法改正にかかわる特別委員長であった野中広務議員が、一定の批判票が重要と考えたのか「大政翼賛会とはならぬようお願いしたい」と発言したのを昨日のことのように思い出す。この背景には、政府の強権を確保することなのだから一定の批判票があって当然だ、米国や沖縄に対しても国会が一色であるのは好ましくないという認識があったのではなかろうか。
政府広報と「Public Diplomacy」
対外関係に目を向けても、政府の対外広報について近年同じような傾向を垣間見る。政府は近年、歴史や領土問題についての中国や韓国の一方的な宣伝に対抗するうえで予算を拡大し政府広報に力を入れている。これは当然のことだし、政府が在外公館の広報活動を強化するとともに、例えば内閣が国内だけではなく、会見などを外国人記者に幅広く広げて対外的に権威ある説明をすることは急務だ。
そのような対外広報活動の活発化に加えて、近年政府は「Public Diplomacy」という概念で相手国の国民に直接語り掛けるという手法を強化してきている。政府が直接というより相手国の大学への資金的援助や日本の学者、有識者をセミナー等に参加させることにより日本理解を深めようとする。ところがここでも「政府がお金を使う以上、政府の意見に忠実でなければならない」と、相手国の大学に枠をはめ、学者有識者を選択しようとする。
しかし先進国でのセミナーやシンポジウムなどでは個人の学問の自由、表現の自由は尊重される。政府の公式見解を開陳するのに終始するとすれば、それは中国やロシアなどの強権国家と変わらない。真に日本理解を深めるためには国内の意見、考え方などを含め問題点を語ることが出来る客観性を持つ有識者を出す方が好ましいと思うし、諸外国もそれを望んでいるわけだが、どうも日本の考え方はそうではない様だ。ここでも官邸主導の頑な考え方があり、官僚は政治権力を忖度しているようだ。
政権の再考を願う
日本学術会議の活動は政府の予算で支援されているが、その原資は国民の税金であり、国益に資する使い方がされねばならない。日本学術会議の独立性、自律性を担保することが国益であって、政府の意見に近い人を会員にすることが国益であろうはずがない。日本に対する深い理解を増進することが「Public Diplomacy」の目的であり、政府の意見を広報するのが目的ではない。政府の意見を周知徹底するためには政府が直接行えばよい。
さらに、政治権力が特定の民間人を批判し、或いは日本学術会議のケースのように特定学者を排除するのは極めて恣意的なレッテル貼りに繋がってしまい、そこから一斉に忖度が始まり、それが個人の不利益につながることをよく認識するべきだ。政治権力に批判され、排除された学者や知識人は政府関係の場だけではなく、メディアや民間会議のような場でも活躍する機会が減っていく。それが政治権力の狙いではないことを心から願わずにはいられない。
菅内閣は物事に真正面から向き合う内閣だと思うし、国民の期待も高い。支持率も70%を軒並み超えている。だとすれば、ここは不毛な議論を繰り返していくより、日本学術会議の独立性を担保するため日本学術会議の推薦通り新委員を認めてほしいと思う。迅速に行動されれば、それは朝令暮改ではなく結果的には国民から評価されることになると思う。
朝日新聞・論座
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020100500006.html