国際戦略研究所 田中均「考」
【朝日新聞・論座】日本の統治機能の劣化にどう向き合うか―新型コロナウイルス対応でも見られたガバナンス不全
2020年02月27日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
この国の統治機能(ガバナンス)が著しく損なわれていると思わざるを得ない出来事が次から次へと起こっている。
批判を受けると説明責任を果たすことなく二人の閣僚が唐突に辞任し、国会会期中にかかわらず雲隠れし、ようやく公の場に出てきても説明を拒否する。首相主催の「桜を見る会」についても問題が報じられると「今年は中止」を早々に決めるが、過去に誰がどういう基準で招待されたか、などについて十分な説明責任が果たされたとは国民の多くは思っていない。IR関連汚職問題や東京高検検事長の定年延長問題なども不透明の一語に尽きる。道義的にも国民に範を示すべき総理大臣補佐官の公私混同的な問題も理解を超える。新型コロナウイルス感染拡大問題については海外の報道を見ると日本の初期対応は不十分・不適切だとの評価が多い。
民主主義の下で、ガバナンスを云々する前に政府がまず従わなければいけないルールは、透明性の確保であり説明責任の履行なのだろう。これが統治の大前提だ。政治権力が説明を渋り真正面から向き合っているように見えないのは、明らかにできない理由があるからではないかと疑念を持つ。問題が明らかになれば責任をとらなければならない。
政府ガバナンスにおける二つの重要側面
昨今、大手民間企業において「企業ガバナンス」には厳しい目が光り、株主など利害関係者(ステークホールダー)の利益を守るため、経営者を監視する仕組みが取り入れられている。社外取締役制度の導入や指名委員会、報酬委員会などにより、企業の幹部人事や報酬に透明性を持たせようという試み、さらには経理監査制度の充実などだ。これだけグローバリゼーションが進めば企業統治についてもグローバルスタンダードに合せないと競争力を失う。
ところが統治(ガバナンス)の本元である政府のガバナンスについては日々改善されていくどころか、民主主義制度の基本的原則が損なわれ劣化しているのではないかと思う。政府のガバナンスにはどういう問題があるのか。昨今のガバナンスの劣化を考えるとき、二つの重要な側面がある。
第一には、「政策ガバナンス」だ。正しい施策を実行していくためにも、専門的知見が十分反映されなければならないが、近年は大衆迎合的、いわゆるポピュリズム的傾向が強くなってきた。ポピュリズム的傾向の大きな問題は、政府が専門的知見を離れ、世論をベースに行き過ぎた政治的配慮をし、結果的には国益を損なうことだ。
第二には、「チェックとバランス」だ。資金や人事、情報をコントロールする権力は、常にチェックされ監視されないと、驕り横暴になり、過ちを犯す。本来のチェック機能である国会やメディア、あるいは政治権力からは距離を置くことが求められる検察や警察の機能が保全されているかという問題だ。
新型コロナウイルス問題対応から浮き彫りになるガバナンスの劣化
新型コロナウイルス感染拡大への対応も適切なガバナンスが機能していないことを如実に示している。この問題は十分な専門的知見を組み込むことが出来なかった事例だろう。
新型であり未知の病気であるだけに感染拡大を防ぐうえでいくつもの難題があったに違いないが、判断の根本になければならないのは独立した専門的知見であったはずだ。
特にクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号を巡る対応だ。問題の核心は感染拡大の防止であり、同時に国民全体の利益のためどこまで個人の人権を制約できるのかということだ。感染者が乗船していたことが明らかとなった時の対応は、本来独立した科学的知見に基づき、何時どういう条件で下船を認めるのか、船内の感染拡大にどういう措置をとるのか、そして船内に閉じ込められる人たちにどういう人道的配慮をするのかという、極めて専門的な課題であったはずだ。また下船させるにあたってのガイダンスはより明確にさせるべきではなかったか。後になり、実は検査漏れがあったとずさんな体制が報告されてからでは遅い。海外の批判は極めて辛らつである。
専門家集団としての官僚は機能しているか?
残念ながらそういう科学的知見に基づく判断が行われたとは思えない。すべてが世論の動向を見ながらの後付けだったのではないかという見方も多い。専門家会議が招集されたのは問題発生から相当期間を経過したごく最近のことだ。
日本には米国のCDC(疾病予防管理センター)に当たる組織はなく、国立感染症研究所が限られた予算と人員の中で一定の役割を果たさなくてはならないという制度的な問題はある。しかし、国民は権威ある専門家の説明を求めている。
メディアの姿勢も問われる。多くのテレビ局は専門家を番組に呼んでくるが、このように未知の感染症については多様な意見があって自然であり、視聴者に対してはバランスが取れた複数の専門的意見を発信する工夫がなければならない。
政治が専門的知見に欠け、国民世論を強く意識した施策に走りがちになる背景には、官僚の役割が大きく縮小したことがある。従来は官僚が圧倒的な専門家集団として、ある程度独立して機能していたのだと思う。おそらく厚生労働省にしても技官系の専門家がこのような場合に省内の意見集約に大きな役割を果たしていたのだろう。
過去、官僚の専横が目立つようになり、民主党政権下の「官僚政治からの脱却」、そして安倍政権下の人事を通じる官僚の掌握と官邸への権力の集中により、専門的な意見がなかなか通りにくくなった。官僚は委縮し、多くの官僚幹部はまず官邸を見、官邸から方針が下りてくるのを待ち、あるいは官邸の意向を忖度して行動するようになった。
コロナウイルスに限ったことではない。外交の分野でもその傾向は濃厚だ。例えばロシアとの関係について首相はプーチンと二十数回首脳会談を繰り返し、領土問題を打開し平和条約を結ぶと宣言して久しいが、今日ロシアでは憲法改正を行い、領土割譲を禁じると規定すると伝えられる。掛け声のみで、実は具体的結果を作るプロフェッショナルな外交が行われているとは考え難い。
官僚の使命感が薄れ、いわゆる政治の下請け機関となったのは、過去、官僚が一線を越えて傲慢な存在になったという官僚自身の問題なのだが、だからといって今日のように専門家集団としての機能を大幅に失うことがあってよいとは思わない。私が12年にわたって受け持った東大公共政策大学院のゼミから外務省、防衛省をはじめ多くの省庁に多くの卒業生が就職していったが、残念なことに相当数の人々が「使命感を持つことが出来ない」と辞職していった。今日、中央省庁に職を求める人の数も大幅に減ったという。
権力のチェック機能は働いているか?
政府ガバナンスにおけるチェック機能の欠如は今や深刻な問題だ。
本来は国会、野党やメディアが主要な役割を果たすと考えられてきたが、果たして十分機能しているか。
さらに、権力をチェックしていくうえで政治の介入を排し独立的な機能を持った機関の存在が重要だという意味で、政治と警察や検察との関係が一体となっていくような印象を与えるべきではない。従来はあまり考えられなかったが、今日、警察官僚が官邸の枢要なポストについていることや、さらには昨今の検察の独立性が疑われるような人事介入には疑念を持つ。
これが杞憂に終わればよいが、もし、世上言われるように官邸の引きが強い東京高検の検事長の定年を延長し、今夏に検事総長に就任させるということが現実となれば、疑念を超えて深刻なガバナンスの問題を惹起することとなる。このような統治機能の劣化と思われる事象に対して、国民の危機意識が高いとは到底思えない。民主主義国家にあって最終的な審判は選挙によって下されるが、今日、内閣支持率へどの程度影響しているのだろうか。
私は世論を作る上で、メディア、そして有識者と呼ばれる人々の役割が大きいと思う。本来、メディアは正確な報道とともにオピニオンリーダー、権力の番人としての使命を持っているはずだ。勿論、右や左といったイデオロギー的傾向の違いはあっても、権力の番人として権力の横暴をチェックするという役割はどのメディアにも共通だと思う。この役割を果たすには権力との適切な距離を保つ必要があるのだろうが、学者や有識者と言われる人々にとっても権力を真っ向から批判することが容易であるとは思わない。権力に遠ざけられる、あるいは攻撃を受けることが学者や知識人にとって有利に働くわけがない。しかし、知識人である限り知的一貫性(インテグリティ)やプロフェッショナルとしての使命感を維持することも重要なはずだ。権力におもねることは知的敗北に他ならない。また逆に、政治権力は自己への批判に寛容でなければいけない。
国民はもっと怒らなければならないのではないか。新型コロナウイルス感染防止の過程で、チャーター便での邦人の武漢脱出やダイヤモンド・プリンセス号の現場で、わが身を忘れ奮闘してきた官僚や医師・看護師の強い使命感に応えるうえでも、権力への忖度を排し有識者は発言すべきだし、メディアは権力の番人としての批判的精神を忘れてはならない。