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国際戦略研究所 田中均「考」

【ダイヤモンド・オンライン】刻々と迫る「香港の中国化」、歴史の変節点に日本はどう向き合うか

2020年06月17日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長


|香港版国家安全法の制定に動く中国|
|揺らぐアジアの安定|

 歴史の変節点だ。
 1997年7月1日に英国が香港を中国に返還した後も香港は高度な自治権を得て繁栄してきた。ところがここに来て中国は、香港版国家安全法を直接制定することにより、自治権を損ね香港市民の自由を制限するような行動に踏み出した。「香港の中国化」だ。香港の情勢は台湾にも間違いなく飛び火し、台湾は中国から離れ米国に一層、接近するだろう。一方でアジア地域の安定の要である米国のトランプ大統領は自らの再選しか眼中にないようだ。米中の狭間で、日本は香港問題にどう向き合っていくべきなのか。

|経済成長に資した「一国二制度」|
|香港を通じ世界経済とつながる|

 中国現代化の足掛かりを作った中国共産党の最高指導者、トウ小平氏は経済改革と成長を最優先課題としたが、香港を中国本土の経済成長のためにどう活用するかを考えたはずだ。それが「一国二制度」、すなわち軍事と外交は本土、それ以外についてはいくつかの例外はあっても基本的に香港に任せることとし、香港に高度な自治と自由な資本主義を認めたのだ。そして香港は世界でも最も自由な経済体と位置付けられ、航空貨物の世界最大のハブや経済緊密化協定の下での中国への中継貿易の基地のほか、ニューヨーク、ロンドン、シンガポールとともに世界有数の金融センターとなり、多くの国際企業がアジア本部などを置き、中国元の国際化の基地にもなった。香港は膨大な中国市場を後背地に、安定して自由な経済体制の下で繁栄してきた。
しかし、当初、中国が怖れていたのは、香港の自由が中国本土に浸透し、「中国の香港化」が進むことだった。一方で返還後の香港の政治・経済体制を定めた香港基本法の中には、高度な自治を認める一方で、「国家反逆、国家分裂、反乱扇動、中央政府転覆、国家機密窃取、外国の政治組織・団体の政治活動、香港の政治組織・団体の外国の政治組織・団体との連携」を禁じる安全法制の制定を香港に義務付けている。
 香港政府は2002年以降立法手続きを始めたが、言論の自由が脅かされる危機感から多くの香港住民は立法に反対し、03年7月には50万人のデモにつながり、法案は廃案に追い込まれた。その後、行政長官選挙法改正への反対を巡る14年の雨傘運動や19年の逃亡犯条例改正案(中国への容疑者引き渡しを可能にする)への反対デモなど、中国政府の香港への介入強化の試みに民主派は団結し、結果的には法案や条例の成立は阻止されてきた。

|「経済大国」化で自信、攻勢に出る|
|綿密な戦略で香港社会を切り崩し|

 これまで中国政府が直接的に強硬策に出なかったのは、そのことが中国自身の利益に資さないと考えてきたからだろう。高い経済成長を維持することが共産党の正統性を示す大前提であり、これを大きく損なうことは避けようという力が働いてきた。それが10年には日本を追い越して世界第2位の経済大国となり、グローバル化の下で「世界の工場」として各国との経済の相互依存を深め、「一帯一路」などの独自の経済外交で影響力を拡大する中で、中国は自信を深めた。
 米国との貿易摩擦も、中国が米国穀物の一大輸出市場である限り関係が崩れることはないと踏んでいるのではないか。トランプ大統領の米国は、「アメリカ・ファースト」の行動のために世界で求心力を失い、米国が主導して対中包囲網を作ることもなかなか難しくなった。ここに来て中国政府が香港版国家安全法制を香港の頭越しに立法する方針を明らかにし、「香港の中国化」に向けて動きだしたのは、こうした世界で存在感の高まりと自信を深めたことがあるのだろう。
 米欧の民間企業に対しても中国は「踏み絵」を迫っている。最近、ビデオ会議システム「Zoom」の運営会社が中国の要請に応じて米国在住の人権活動家へのサービスを一時停止したことが伝えられた。英国金融大手HSBCホールディングスや英スタンダードチャータード銀行も国家安全法を支持する声明を発出した。中国は自国の膨大な市場をてことして民間企業との関係でも強い影響力を行使し始めている。
 香港市民に対しても、デモや治安の乱れによって経済活動が阻害され、香港の繁栄が損なわれ、自分たちの生活が脅かされると宣伝し、このキャンペーンはそれなりの効果を上げているようだ。香港国家安全法制に賛成だという約300万人の署名が集められたといい、香港内の共産党系シンクタンクの世論調査では、6割の香港市民が安全法制制定に賛成だというニュースが盛んに流されている。
 コロナ・パンデミックにより、そもそも街頭デモに加わる人が少なくなるだけではなく、香港警察はデモ参加者をコロナ感染防止を名目にした規制で取り締まっている。さらに、これまでは民主派といわれる人々がデモを組織していたが、最近の大規模デモの際にはデモを組織する民主派ないし民主派学生も少なくなり、中学生や高校生といった極めて若い層が刹那的に「反抗」している姿が目立つようになったと伝えられる。雨傘運動のように香港住民が法律に反対して結束して行動するという図式は薄れている。中国は綿密な戦略の下、香港社会の切り崩しを行ってきたのだ。

|中国本土と同じ保安体制|
|監視社会化も進む懸念|

 それが功を奏し、全人代常務委員会は具体的法律を今月中にも策定し、基本法の例外規定を使って香港に押し付けることに成功するのかもしれない。もし国家安全法制が香港で成立し、中国本土と同様の保安体制が敷かれるなら、これまで香港市民が享受してきた言論や行動の自由は制限され、国家安全の名の下に法の支配が損なわれるということになりかねない。香港の司法制度は英国式のコモンローの下にあり、最高裁では多数の外国人が裁判官となっている。中国と同じ法体系を香港に持ち込むということになれば「一国二制度」は完全に崩壊する。安全法制の執行機関が香港に常駐することも想定されているようだ。そうなれば香港も中国と同じ監視社会と化していくのではないかと危惧される。

|国際金融センターはシンガポール|
|台湾の「台湾化」進む|

 中国の動きを阻止できるとすれば、それは国際社会の圧力しかない。米英など4カ国は国家安全保障法制に反対ないしは深い懸念を表明する声明を出し、日本も中国に懸念を直接、申し入れている。G7で共同声明を出す動きもある。トランプ大統領も、米国が現在、香港に対し取っている関税や査証面で優遇措置を撤回するのではないかとみられている。しかし香港への優遇措置を撤回することが中国を思いとどまらせるほど大きなダメージを与えることができるかは疑問だ。そして制裁措置というのは成果が見えない限り、どんどんエスカレートしていかざるを得なくなるし、一方で国際社会が結束して制裁に参加するのかどうかも見通せない。
 そのような制裁の道筋に行く前に、本当に必要なのは、「一国二制度」を崩すことがどういう結果を生むのか、そして、それが中国の利益に資さないことについてしっかり認識させることだ。 まず、「一国二制度」が崩れれば、香港がこれまでのような自由な経済都市として東アジアでの貿易や物流のハブや国際金融センターとして機能することは難しくなり、中国が得ている経済的利益は損なわれる。中国本土にある上海や深センなどの金融市場は共産党独裁体制の下で資本規制などの制約があり、国際金融センターとしての十分な要件に欠ける。香港の金融センターとしての機能の多くはシンガポールに取って代わられることになるだろう。自由であることを前提に香港に活動拠点を求めてきたグローバル企業は香港に居続けることになるのか。1997年の香港返還の際には多くの香港市民が海外に居住の地を求めて移住したが、今回はそれ以上の市民の流失が始まるのかもしれない。すでに英国は香港人滞在の要件緩和方針を示している。
 台湾は蔡英文総統の下での政権2期目に入ったが、香港で「一国二制度」が形骸化していけばいくほど、台湾では独立を意識した台湾化が進む。蔡英文総統は「一国二制度」の台湾への応用は断固受け入れない考えを明確にしている。おそらく台湾は米国との公式な交流を、例えば蔡英文総統のワシントン訪問・要人との面会などの方法で増やそうとするだろうし、米国の1.8億ドルの対台湾武器輸出も発表された。つまり香港への中国の強い介入は、台湾を米国に追いやることにつながる。

|米国は「中国排除」|
|正面対決では中国は力不足|

 そして米中関係は一層、対立が先鋭化するだろう。秋の大統領選での再選を目指すトランプ大統領だが、再選を巡る展望はコロナ問題への対応のまずさもあり、日に日に見通せない難しい状況になっているようだ。経済の「V字回復」が望めそうにない中でトランプ大統領にとって再選戦略で意味を持つのは対中強硬策だ。米国内では対中強硬論については大方のコンセンサスがあり、トランプ大統領は香港問題を契機に一層の対中強硬策に踏み切る可能性が高い。その基本戦略は「中国デカップリング(排除)」だ。米国株式市場への中国企業の上場排除や中国へのハイテク産品の輸出制限、ファーウェイなど中国ハイテク企業の製品の締め出しのほか、米国での中国人留学生の受け入れ制限・監視の強化など、さまざまな対中措置が列挙された長いリストがある。
 香港問題が軍事的衝突につながる可能性は低いが、「中国排除」がエスカレートすれば米中が真っ向から対決することになる。中国は米国と正面から対決していく覚悟はあるのだろうか。香港問題でその引き金を引く覚悟はあるのだろうか。おそらく習近平国家主席は米国との関係改善は望めないことは十分に認識しているのではないか。世界各地で中国の影響力拡大に走り、米国との関係悪化の中で援助戦略などを絡めた独自の外交で連携する国を増やそうとは考えているのだろう。しかしまだ中国は力不足であり、米国と正面から対決するだけの力はない。

|二制度放棄の愚かさを|
|説得する役割、日本に|

 このような状況を考えると、香港問題の合理的解決のために行動できる国は日本しかないのではないか、と筆者は考えている。日本の経済力、米国との強い同盟関係、欧州や東南アジアとの関係は日本に強い外交力を生むはずだ。日本がやるべきことは中国を静かに説得することだ。もちろん中国政府が香港国家安全法制定をてこに「一国二制度」をなし崩しにする動きをすれば、米国やEUなどと連携して対中非難の声明を出し日本の基本的立場を明らかにしなければならない。しかし一方では中国と静かな対話を進め、香港で「一国二制度」を放棄することがいかに愚かなことか説得しなければならない。これは一刻の猶予も許されない。
 全人代常務委員会が国家安全法の具体案作成を行っていると伝えられるが、「一国二制度」の維持はその内容次第だ。国家安全法が合理的な内容にできる余地はまだあるはずだし、香港の繁栄を一挙に損なうことはどこの国の利益にもならないはずだ。これほど重大な国益がかかった課題に効果的に対応できないとすれば、日本は外交不在といわれてもやむを得まい。

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