国際戦略研究所 田中均「考」
【朝日新聞・論座】小泉訪朝から20年、いまだに北朝鮮問題が解決できないのは何故か
2022年07月27日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
小泉首相(当時。以下、肩書はすべて)が訪朝し、北朝鮮金正日国防委員長と会談し、平壌宣言に署名したのは今からおよそ20年前の2002年9月17日だった。その後、北朝鮮が最初の核実験を行った2006年10月までの4年間の間に、拉致・核・ミサイルを中心課題とする北朝鮮問題を前進させる機会は二度あった。一つには日朝平壌宣言のフォローアップであり、もう一つは2005年9月の6者協議(日・米・中・露・南北朝鮮)共同声明の実施である。このプロセスは何れも比較的短期で崩壊する。何故うまくいかなかったか。
「田中さん、悔しくないですか?」
小泉訪朝までの経過はともかく、小泉訪朝後の展開については、これまで多くを語ってこなかったが、先日、友人の祝賀会で偶々席を同じくした初対面のまだ若いビジネスマンから質問を受けた。「田中さん、小泉首相の訪朝を仕掛けられたのはもう20年前のことだと思うが、5人の拉致被害者が一時帰国したあと、何故北朝鮮に帰国させず日本に留めおいたのか。北朝鮮との約束通り一旦返して、その後平壌宣言に書かれているような北朝鮮との正常化の道のりを歩んでいれば、日本主導で拉致問題の解決だけではなく核やミサイルなど朝鮮半島の平和を作る外交が出来たのではないか。一貫して準備に当たってきた田中さんは何故、日和ってしまったのか。個人的に悔しくないのですか?」
これまで、私は、一時帰国した5人の拉致被害者を一旦は約束通り北朝鮮に返すべきだと強硬な主張を行ったのは怪しからんとして強い批判を受けてきたので、このような質問を受けるのは稀なことだ。
一旦返すべきだと強く主張したわけではない
もう誤解を正す意味もないが、私は一旦返すべきだという強硬な主張を行ったわけではない。返さなかった時には家族を取り戻す交渉は長くかかるだろうし、また、私が交渉をしてきたXとのルートは難しくなるだろうことを官邸の協議で小泉総理や福田官房長官、安倍官房副長官に申し上げただけだ。それが北朝鮮へ帰すべきだという主張をしたと喧伝されメディアの集中砲火を浴びた。結果的に子供たちを北朝鮮に残してきた拉致被害者自身の意向も聞いた結果、政府は拉致被害者を戻さないと決定した。官僚として政治家が嫌がることであれ専門的見地から意見するが、これ程繊細な問題について決めるのは政治指導者であり、政府としての決定に従うのは自分の一貫した行動原理だった。
実際問題として北朝鮮に戻すという選択肢はなかったのだろうと思う。拉致被害者の一時帰国、子供たちと一緒の永住帰国という北朝鮮との合意は日本政府も事前に了解していたのだから、今後の事も考え約束通りにしようと私が主張していたならば、これまで伺ったことはないが、小泉総理や福田官房長官は理解をしてくれたのかもしれない。しかしそれは既に激しく燃え盛っていた反北朝鮮の雰囲気の中で北朝鮮と交渉し続けることを意味し、せっかく戻ってきた拉致被害者が再び人質に取られる恐れもあり、余りにリスクが大きすぎた。
朝鮮半島の安定無くして日本の安全はない
他方、このような決定を内心悔しく思ったのも理由があってのことだ。私は1987年に朝鮮半島担当の課長に就任してから小泉訪朝・平壌宣言に至るまで15年間、朝鮮半島にかかわってきた。外交官という職業柄、同じ部署にいるわけではなく、その間、英国やサンフランシスコで勤務したが、何故か節目になる事がらには直接関与し続けた。北朝鮮工作員による1987年の大韓航空機爆破事件(工作員は日本の偽造パスポートを使った)、1994年の第一次北朝鮮核危機(北朝鮮は核開発に向けて動き出し一触即発の事態となった)、北朝鮮有事を念頭に作業した日米防衛協力ガイドライン(1997年)、など全てについて私は中心的に関与した。日本にとり東アジアの安全と安定は最も重要であり、北朝鮮との関係を軌道に乗せないと日本の安全保障も担保できないと思い続けてきた。
そして2001年に外務省アジア大洋州局長に就任した時、真っ先に官邸に行き、北朝鮮と交渉がしたいということを小泉総理に申し上げ、小泉総理の指示により政府内の少人数だけが知る水面下の交渉の形で約1年の間、交渉を行ったのである。秘密を守り通すということは容易なことではないが、世論にさらすことなく交渉を行う事には大きな利点があった。拉致は人命を賭けた交渉である。途中段階で世論の厳しい反発を受け交渉がとん挫することはなかった。限られた数の政府関係者の間で交渉の前後に詰めた協議をしていけばリークも起こらず、合理的な外交が出来るような気がした。北朝鮮には世論は不存在であり、トップが決めるとおりになるという想定をしていた。小泉訪朝により金正日総書記は拉致を認め、謝罪し、生存者を帰国させ、その他の人々について徹底的に調査をすると約束した。平壌宣言でも北朝鮮は従来の植民地支配に対する「補償」請求を諦め、対韓国と同様の請求権の相互放棄と経済協力方式に同意した。そして核問題を国際的枠組みで扱っていく事にも合意した。
長続きしなかった6者協議の合意
拉致被害者の永住帰国後、北朝鮮は、日本側は約束を守らなかったとして、日朝間の交渉はスムーズには進まなかった。子供たちを取り返すまでに2年近くかかり、小泉首相の再度の訪問(2004年)を必要とした。日朝間で拉致問題や正常化問題が進んでいかなかった背景にはやはり相互の根深い不信があった。他方、米朝間では紆余曲折はあったが、核問題をめぐっては日本が主張し北朝鮮を説得してきた6者協議が開催されることとなり(日本が積極的に動かなければ米・中・南北朝鮮の4者協議になる可能性が強かった)、2005年9月に6者間の合意が共同声明として発表された。その6者協議の合意では核を検証可能な形で廃棄することが合意され、それに至る包括的なロードマップも示された。日朝は平壌宣言に従って正常化協議を行う事となり、3年前の平壌宣言で想定した世界に立ち戻ったと考えられた。日本だけでは動かせない核ミサイルを扱う仕組みが米国を中心に作られ、拉致問題や日朝正常化を全体の枠組みの中で行うのは日本にとって最善の合意だと思われた。2002年に私たちが思い描いたシナリオを実現する第二の機会が来たのだと思われた。
しかしこの合意も短期間で崩壊することになる。米国はこの合意を作るのと並行的に北朝鮮に対して金融制裁を課し、マカオの銀行バンコ・デルタ・アジアの北朝鮮関連口座を凍結することにより事実上北朝鮮が外貨を動かすことが出来なくなった。一方、核廃棄の検証の方法について米朝間で合意は出来なかった。基本的には米国内で北朝鮮との交渉に強い猜疑心を持ち、小泉訪朝にも執拗に反対したチェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ボルトン国務次官などの所謂「ネオコン」と言われる人々の巻き返しというべきか。
北朝鮮問題を難しくした最大の理由
勿論、北朝鮮を信頼することは出来ない、というのは日米共通の認識であるが、北朝鮮側の日米に対する猜疑心も極めて強いものがあり、相互不信を埋めていく為にはやはり首脳の関与が必要ということなのだろう。そして北朝鮮は2006年10月に初めて核実験を行うことになる。
私が長く北朝鮮問題を扱って考えざるを得ないのは、根深い相互不信と国内の強い反北朝鮮感情の下でオープンな形で外交を継続するのはとても難しいということだ。それが北朝鮮問題の進展を難しくした最大の理由ではないかと思う。外交をプロセスとして捉え、協議のたびに世論の動きを考えながら交渉を続けても解は得られないだろう。おそらく唯一の方法は20年前に小泉訪朝で試みた様に、水面下の入念な事前協議の下でシナリオをつくり、首脳会議で一気に合意をする事しかないのだろう。しかしそれは首脳の強い決意とともに、首脳が強い政権基盤を有し、且つ世論を説得する覚悟を持たない限り無理な事なのだろう。その日が再び来ることを願いたいと思う。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022072500004.html