国際戦略研究所 田中均「考」
【朝日新聞・論座】大きな曲がり角に来た日本の安全保障政策を真正面から論じよう
2022年05月25日 田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
ロシアのウクライナ侵攻が世界に与えた衝撃は余りに大きい。核を持ち、国連安保理常任理事国でありエネルギー大国であるロシアの行動を誰も制することが出来ない。今や、戦争を止め、これ以上の流血を止めるよりも、「将来の秩序維持のためロシアを勝たせてはならない」との論理で、ウクライナへの軍事支援と対ロ経済制裁が続く。力による現状変更はアジアでも起こり得る。ロシアに加え、核を持ち経済的には圧倒的にロシアを凌駕する中国の行動への懸念は倍加した。引き続き唯一のスーパーパワーであり続ける米国の抑止力も核を持った大国との関係では侵略を止めることは出来なかった。日本の安全保障政策が問われている。真剣な見直しを行う時期に来たのだろう。
日本国内の雰囲気と政治は変わった
日本の国民意識は変わった。過去を意識して極めて低姿勢に推移してきた安全保障へのアプローチは、変化した。東西冷戦時代は日本が安全保障面で出来ることは限られていたが、冷戦終了後は日本の自衛隊が安全保障のためにやるべき機能を拡大することが主要な課題となった。1996年の日米安保共同宣言に始まり、防衛協力ガイドラインの見直し、周辺事態法制定、「テロとの戦い」特措法に基づくインド洋での海上自衛隊の給油活動、イラクへの自衛隊派遣、そして2015年に至り集団的自衛権の一部行使を認める新安全保障法制の流れは、国民意識を変え、安全保障課題を自らの問題として受け止められるようになった。政党の捉え方も変わってきた。「軍事」がタブーとの意識は薄れ、与党野党の大勢にとっては、日本国憲法に整合的な自衛隊の機能と活動がどこまで認められるべきか、という捉え方がされるようになった。
そのような国内情勢の中で、敵基地攻撃能力・反撃能力、核シェアリング・核兵器共有、防衛費のGDP比2%への急速な拡大などの議論がかなり伸び伸びと提起されるようになった。単に一部有力政治家や官僚OB、保守学者が提起するだけではない。最近のウクライナ関連の報道番組に登場する元自衛隊、防衛研究所等多くの防衛省関係者も、これまでは自衛隊への世論を気にしてか低姿勢であったものが、口を揃え防衛力拡大の必要性を強調する。国民の間にもいわゆる「保守ナショナリスト」層が拡大してきた。ロシアのウクライナ侵入や北朝鮮の核・ミサイル実験に向けての不穏な動き、中国の軍事能力の飛躍的拡大の中で、防衛能力を飛躍的に拡大させる好機であるといった捉え方がされるようになった。
不可思議なことに、このような議論に対する「リベラル」識者の反論はあまり聞かない。少なくとも表立って反論をする雰囲気はない。野党勢力も安全保障政策として率直に議論するという雰囲気ではないようだ。
背景にある米国の抑止力と指導力の減退
米国の日本へのアプローチも変わってきた。従来米国は、日米安保体制は「瓶の蓋」であり、日本の軍事的拡張の歯止めとなっているのでアジア諸国にとっての安心材料であるとの議論を展開していた時があった。確かに中国が大きく台頭してくるまで日本の防衛力拡大は警戒され、日本は静かに防衛力の拡充に努めてきた。冷戦が終わり、更に中国がGDPで日本を追い越した2010年以降、軍事パートナーとしての日本への期待は明らかに増大し、米国が「瓶の蓋」の役割を果たすという意識は殆どなくなった。むしろトランプ前大統領は「アメリカ・ファースト」の考え方に基づき、日本の負担増大を求め、日本へF35を含め大量の武器装備品の売り込みを図った。トランプ政権を引き継いだバイデン政権を特色づけているのは中東での長い戦争の後遺症であり、アフガンから拙速と言われるほど撤退を急ぎ、ウクラ イナへのロシア侵攻に対しても早々に軍を派遣しないと明言した。同時にトランプ大統領時代の欧州との亀裂はウクライナ問題での軍事支援と経済制裁で再び強い結束を取り戻し、アジアでもバイデン大統領の日韓訪問により対北朝鮮、対中国、対ロシアでの連携を強化することに成功するのだろう。
バイデン政権は中国が唯一の戦略的競争相手であるとし、ロシアとの関係の安定化を望んだが、今日、米国が向き合わなければならないのは、ロシアの新たな脅威と最大の競争相手としての中国の両方である。米国が必要とするのは民主主義国との戦略的協調であり、G7のほか、独、仏、英、日本、韓国、豪州、インドとの二国間、多国間を通じる戦略的パートナーシップの構築だ。米国単独の抑止力は低下し、指導力も低下した分、パートナーシップが必要になるということだ。
日本は近隣諸国との外交を再活性化すべき
安全保障課題が活発に議論されるようになったことは好ましいことではあるが、重要な課題であるだけに多様な意見が戦わされなければならない。ここで国際関係の実態や国内施策プライオリティを踏まえたリアリスト的考察は重要だ。保守ナショナリスト勢力が言うように核や反撃能力を含めた防衛能力の飛躍的拡大が望ましく、且つ現実的であるのか。
まず、日本の防衛能力を論じる前に必要なことは日本を取り巻く安全保障環境を改善する外交が機能しているか否か、という点だ。安全保障環境が整っていれば殊更防衛能力拡大を言う必要はない。ウクライナ問題から得られる教訓は「ウクライナが核を持っていれば侵略されなかった」といった乱暴で短絡的な結論ではなく、やはり、外交が機能せず失敗したという点だろう。冷戦終了後から今日に至るまでNATO及び米欧はロシアとの関係の安定化のため真剣に向き合うことはなかったのではないか。クリミア併合やジョージアの戦争を含め、旧ソ連邦内の出来事として済まそうとした感は否めない。
日本が最も安全保障上の懸念を持つ中国などの近隣諸国と日本は十分な対話を欠いているようで、疎遠となっている。本来連携していかなければならない韓国との関係もそうだ。それは相手国に問題があると言えば、その通りだろう。ただこれら諸国との関係の実態を見れば、中国や韓国との経済相互依存関係は圧倒的に大きく、コロナ前には両国から日本への旅行者の数は他国を圧倒していた。ところがこの10年の日本の保守政権の外交の基本は仲間と親しく連携する事が最優先であり、問題を抱えている諸国と積極的に対話していくという姿勢は限られていた。唯一の例外は北方領土問題があったロシアであろうが、結果的にはロシアとの首脳外交は実を結ぶことはなかった。ロシアや北朝鮮の関係は二国間の外交を超え、同盟国とともに強調して行動していく事が中心とならざるを得ない。ロシアについてはG7であろうし、北朝鮮については日米韓だ。だが、中国については政治・安全保障・経済とあらゆる面における日本の利害関係は圧倒的に大きく、米国に追随するだけではなく戦略をもって能動的に動いていく必要がある。
米中関係は全ての面で対立する関係ではないことを理解することが肝要だ。政治安保関係では異なる体制間の対立と競争の関係にあるのは事実だ。しかし経済関係においては、米中貿易は2021年において輸出入とも過去最高を記録しており、ハイテクの市場分断(デカップリング)の動きはあるが基本的には相互依存関係があり、更には地球温暖化などのグローバルな課題においては協力がなければ問題解決には至らない。日中関係も基本的には米中関係と同様に異なる方向性の要素からなる関係である。日本が行うべきは、政治安保の対立競争関係に置いては抑止力の向上とともに対話と信頼醸成の枠組みの強化であり、経済関係に置いてはルールに基づく相互依存関係の強化を図ることである。
日本は米国が提唱するインド太平洋経済枠組み(IPEF)に積極的に参加すべきであるが、同時に、CPTPP(アジア太平洋における経済連携協定)への中国の加入のプロセスにおいて中国との協議を進めるべきだ。外交は重層的でなければならない。
日本の防衛体制はどうあるべきか
そのうえで、防衛体制強化の基本は日米安保体制のなかで米国との連携を強化するだけではなく、朝鮮半島について日米韓、インド太平洋についてQUAD(日米豪印)の国々やAUKUS(米英豪)諸国、ASEAN諸国との戦略的連携を強化する事だろう。戦略協議や共同訓練、情報交換を恒常的に行う体制も必要といえよう。日本については沖縄への米軍基地の整理縮小はこのような戦略的連携の大きな枠組みの中で考えていくべきなのではないか。
日米安保体制を強化する上でも日本自身の防衛体制も強化していく必要がある。しかしGDP比2%に増大するという数字ありきの議論であってはいけない。ドイツはウクライナ危機を迎えてGDP比2%の達成に踏み切ったが、ドイツは最も厳しい財政規律を持ち、これまで徹底的な財政合理化を行ってきており、財政的余裕がある。日本は公的債務のGDP比は250%を超え、プライオリティを厳選して支出すべき課題は多い。防衛費もさることながら長期的停滞から脱し国力を上げることが政策的プライオリティたらざるを得ない。仮に現状のGDP比1%から2%に増大するとすれば現在のGDPで5兆円だ。自衛隊の人件費が大きく拡大することはないので、大部分は装備に充てられる事となる。もしも今日議論されている「反撃能力」を広範囲の対象を念頭に習得するということになれば、足の長い戦闘機やミサイルなど装備の更新を伴う事となり、数字を満たすことになるかもしれない。しかしこれでは憲法や日米安保体制の下で構築されてきた「専守防衛」を覆すものであり、憲法論議なく、なし崩し的に進めるべき事ではない。このような事になっていけば近隣諸国の軍拡を招くことにもなりかねない。また核のシェアリングや日本における核の配置の議論は唯一の被爆国としての日本のアイデンテティを損なうのみならず日米安保条約に基づく米国の核の傘の信頼性を損なうものであり、非核三原則の例外を作るに値する事とはとても考えられない。
日本の戦略目的はあくまで地域の平和の達成にあり、いたずらに抑止力強化のみを論ずるのではなく、外交安保分野において重層的な戦略を構築していかなければならない。とりわけ、外交による安全保障環境の改善とパートナー諸国との安全保障上の連携は積極的に進めるべきであるし、防衛力についても「専守防衛」の範囲内で漸進的に拡充を図っていくべきなのだろう。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022052300008.html