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アジア・マンスリー 2009年7月号

【トピックス】
社会保険制度の拡充に乗り出す中国

2009年07月01日 三浦有史


中国では農民や出稼ぎ労働者を意識した社会保険制度の整備が進められている。「和諧社会」実現のためには、中央政府は社会保障の地方政府への「丸投げ」を廃し、自らが主導的な役割を果たす必要がある。

■年金を農民と農民工に
胡錦濤総書記は、5月末、共産党の学習会で社会保険制度の整備を急ぐ必要があると指摘した。第11次5カ年計画(2006~2010年)で「社会的公平を一層重視し、すべての人民に改革・発展の成果を共有させるべき」とされたことを受け、政府は公的年金や医療保険の一層の拡充を図るため、2008年末に社会保険法の草案を公開し、法制化に向けた準備を進めている。同総書記が改めてこの問題に言及した背景には、金融危機の影響で貧困層の生活不安が高まっていることへの懸念があると思われる。

法制化が見込まれる社会保険法の目玉の一つは、これまで実質的に制度の枠外に置かれてきた農民および「農民工」と呼ばれる農村からの出稼ぎ労働者を救済することにある。現在、様々な取り組みが試行されており、その多くが法案に盛り込まれている。注目される取り組みの一つが年金制度改革である。農村の加入者比率は1割に過ぎず、公務員や国有企業の就業者から構成される「職工」のほぼ全員が年金制度に加入しているのと極めて対照的である。この状況を打開しようと政府が普及に努めているのが「新型農村養老保険制度」である。

「新型農村養老保険制度」は2006年から一部地域で試行されてきたが、その特徴は集団(郷鎮政府や企業)や地方政府の補助を増やし、個人の保険料負担を軽減した点である。現在の年金制度は、個人が納めた保険料を積み立て、一定年齢に達した加入者に給付する仕組みとなっている。集団は可能な範囲で補助を行うとされていることから、貧困地域は「低負担低給付」となり、加入者比率も上がらない悪循環に陥っていた。「新型農村養老保険制度」では、集団および地方政府からの補助が大幅に増えるため、加入のインセンティブが高まると期待されている。

年金制度改革においては農民工の救済も図られる予定である。都市の年金制度に加入している農民工は2005年時点で15%程度にとどまる。保険料の雇用主負担が重いことや頻繁に移動する農民工には加入のメリットが少ないことがその原因とされている。政府は2006年に、本来雇用主20%、本人8%となっている保険料負担を農民工についてはそれぞれ12%、4~8%に引き下げ、他の都市や農村でも保険を継続できるようにすべきという方針を示すなど、農民工の都市年金制度への加入を促してきた。
年金制度改革は試行段階にあり、それが全ての国民に安定的な老後を保障するものであるか否かを検証するには時間がかかる。しかし、次に指摘する点から前途は多難であり、決して先行きを楽観できない状況にある。

まず指摘できるのは、「新型農村養老保険制度」は沿海と内陸の農村格差を増幅する可能性があることである。同制度の普及にあたっては、保険料の個人、集団、地方政府の負担割合は、それぞれの地域が実情に合わせて決めることになっている。しかし、農村の豊かさは郷鎮企業の発展度合いに大きく左右される。内陸には保険料を補助する余力がない貧しい地域が多い。北京市のある地区では、個人、集団、政府の保険料負担割合を2:5:3としているが、これを内陸で実現することは不可能である。同制度は都市農村間の加入者比率や給付水準の格差を是正する働きはあるものの、これまで以上に内陸の農村の相対的地位を低下させる可能性がある。

また、農民工の都市年金制度への加入が政府の掛け声倒れに終わっていることも問題である。農民工の同制度の加入者比率は2008年末でも17%と2005年とほぼ同水準である。この背景には、年金管理組織に口座の移動を可能にする事務処理能力が備わっていないことがあると思われる。金融危機の影響で農民工の失業問題が深刻化するなかで、農民工が年金よりも雇用を優先すれば、今後加入者比率が低下する可能性もある。

■医療アクセスは改善するか
社会保険制度改革において注目されるもう一つの取り組みが医療制度改革である。政府は、1月、2011年までの3年間に8,500億元を投じて、a.公的医療保険制度の普及、b.薬価の見直し、c.農村の医療機関の整備、d.衛生サービスの均質化、e.公立病院の改革などを通じて、医療アクセスの改善を図ることを決定した。2007年の医療支出が1,989億元であったことと比較しても、政府がいかにこの問題を重視しているかがわかる。

具体策の全容は明らかではないが、薬価の見直しや農村の医療機関の整備が貧困層の医療アクセスの改善に寄与することは間違いない。しかし、ここでも公的医療保険制度の見直しが含まれておらず、やはり前途多難といえる。問題の一つは「新型農村合作医療制度」と呼ばれる農村における公的保険制度にある。同制度は患者の自己負担が大きく、貧困層は制度に加入しても、実際には利用出来ない可能性がある。貴州省の鳳慶県で2002年に実施された家計調査では、同制度による便益は所得が高く健康状態が悪い人が最も高く、所得が低く健康状態の良い人はマイナスとされている。

■「丸投げ」から中央主導へ
市場経済化を梃子にした経済発展によって所得格差は拡大する一方である。市場の分配原則に依存している限り、これを是正することは不可能である。中国が社会保障制度の整備を急ぐ背景には、この問題に対する強い危機感がある。都市戸籍保有者に偏っていた社会保障政策を農民や農民工といった社会の底辺に広げることは正しい。しかし、そこでは投入される財政資金の規模や「新型」と称される制度の加入者比率の引き上げといった、いわば投入面の実績が誇示されるだけで、それによって個人の生活の質がどの程度改善されるかは必ずしも定かではない。

社会保険制度の整備は「貢献」という市場の分配原則を「必要」に換えることにほかならず、そのためにはこれまでの経済成長を支えてきた仕組みを根本的に組み替える必要がある。社会保障政策においては、地方政府への「丸投げ」によって生じた格差をいかに均質化するかが課題となる。中国では制度の細かい部分はそれぞれ実情に応じて決定するという手法が採られることが多いが、これにより社会保障制度は所得格差を増幅する役割を果たしてきた。「和諧社会」(調和のとれた社会)を単なるスローガンで終わらせないためには、中央政府が投入ではなく成果の点から達成すべき目標を明らかにしたうえで、財源の調達や戸籍制度を含む制度改革において主導的な役割を果たす必要があるといえよう。
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