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コラム「研究員のココロ」

CSRの先にあるもの-経営美学試論(3)-

2008年11月10日 井上岳一


1.優等生の限界

 CSRという言葉が普及するようになって、倫理や道徳意識の高い「モラルカンパニー」になることを目指す企業が増えている。それ自体は結構なことだが、「モラルの高い会社になろう」という風潮には、小学校の道徳の時間のような居心地の悪さを感じてしまう。無理して「いい人」であろうとするわざとらしさや、優等生的発言以外は許されないような抑圧的雰囲気を微妙に嗅ぎ取ってしまうからだと思う。
 問題なのは、頑張って「いい人」や「優等生」になっても、それが魅力的な存在とは限らないことだ。むしろ、多くの場合、「いい人」は「印象の薄い人」で、「優等生」は「真面目だけどいけてない人」か「点数稼ぎの嫌な奴」のどちらかである。どちらも「個性的」の対極にあり、人気者キャラには程遠い。
 「いい人」や「優等生」が没個性になりやすいのは、社会の規範に過剰適合するからだろう。要は、「嫌われたくない」「ほめられたい」ばかりが先に立ってしまうということだ。「こうしたい」「こうなりたい」という独自の価値観や目的意識がなく、周囲に同調することを目的に生きてしまうから、個性や面白みが感じられなくなってしまうのである。

2.CSRでは企業ブランドは向上しない

 倫理や道徳の重視は、これからの社会において企業が存続を許されるための前提と言っても過言ではない。だが、所詮、前提に過ぎないから、その先のどうなりたいか、どうあるかのほうが本質的には重要だ。モラルカンパニーになること自体を目的にしてしまっては、過剰適合する優等生と一緒で、魅力の乏しい企業になってしまう。
 それに、そもそも目指す姿が「優等生」では魅力に乏しいから、従業員もやる気がでず、主体的に取り組もうとしない。結果、モラルカンパニーになるための取り組みは空回りするか、頓挫してしまう。今、多くの企業で、CSRに対する取り組みが全社的なものにならないと担当者達は悩んでいるが、当然だと思う。目指す姿に魅力がなければ人は動かないのである。
 なのに、モラルカンパニーを目指す企業が後を立たないのは、それが企業ブランドの向上に役立つと思われているからだ。だが、それは幻想だと思っておいたほうがいい。倫理や道徳は企業ブランドの低下を防ぐには必要な前提だが、ブランドを向上させるものとしては力不足である。おまけに倫理や道徳を突き詰めるあまり、個性に欠けた魅力の乏しい企業になってしまうなら、それこそブランドどころではなく、本末転倒である。
 このようにモラルカンパニーは企業の目指す姿としては問題が多い。今、求められているのは、社会の規範に十分に適合しながら、なお、個性的で魅力的な企業の姿、つまり、モラルカンパニーの先にあるモデルなりコンセプトなのである。

3.トヨタの「社徳」とモラルカンパニーの発生過程

 モラルカンパニーを企業が進化する過程で必然的に発生してくる形態と捉え、その上で、その次に来るべき企業の姿を構想したのは米国の経営学者John Dobsonである(注1)。ここでその企業進化の図式を見ておこう。
 20世紀の前半、企業は「富の製造装置」(wealth-creating machine)として、工業化社会を牽引した。しかし、工業化社会が環境問題や人間疎外を引き起こしたように、収益最大化と効率性を追求する経営スタイルは、次第に社会的な摩擦を引き起こすようになる。そこで、その摩擦を緩和するために、倫理や道徳を重視する「道徳企業」(moral firm)に変わらざるを得ない。これがDobsonが描いた道徳企業=モラルカンパニーの発生過程である。
 実際、グローバルに事業展開してきた企業達は、Dobsonの図式通りにモラルカンパニーへの変革を余儀なくされてきたと言える。
 例えば、トヨタの場合1995年頃から「社徳」という言葉を強調し始めるが、この背景には米国との貿易摩擦があった。奥田社長(当時)は、貿易交渉で米国に叩かれた苦い経験から、「トヨタは憎いほど強いが、憎まれない社徳のある企業になれ」と号令をかけ、モラルカンパニーとなることを宣言したのである(注2)。そして、「社徳のある企業」としての切り札に位置づけられたのが1997年に発売されたハイブリッドカーのプリウスだった。
 もっともプリウスは「社徳」のために造られたものではなく、そもそもは21世紀の車のあり方を考える中から生み出されたものである。それを「環境のトヨタ」になるための戦略的商品に位置づけた上で、全社的な「エコプロジェクト」を始動させることによって、トヨタは世界的にリスペクトされる企業へと進化することができたのである。

4.「ねばならない」(should)よりも「したい」(want)が重要

 トヨタの例を見る限り、モラルカンパニーへの進化は企業ブランド向上に役立つと言えそうだ。だが、ことはそう単純ではない。トヨタは、確かにモラルカンパニーになることを目指したが、結果として辿り着いたのは単なる優等生ではなく、プリウスという独創的な切り札を持つ、一芸に秀でた優等生だった。しかも、プリウスは次世代の車はどうあるべきかという問いの中から生まれた技術者の想いのつまった車であって、社徳を高めるための優等生的な発想から作られたものではない。この違いは大きい。
 優等生的な発想と技術者の想いとの違いは、ホンダのケースを見るとより理解しやすいだろう。ホンダは1972年、世界で初めて米国マスキー法に適合した低公害型のCVCCエンジンを搭載したシビックの開発に成功している。これは、公害が社会問題になっていた当時、極めて画期的な出来事であり、日本の自動車メーカーが今ほど強くなかった時代のことゆえ、ある意味、プリウス以上の革新だったと言えるだろう。
 このCVCCエンジンを開発する際、現場のエンジニアを支えたのは、ブランドを高めることでも、競合他社に勝つことでもなく、「未来の子どもたちにきれいな空を残してやりたい」という使命感と、エンジン技術に対する徹底したこだわりだったという(注3)。それは、開発の成功を聞いて「これで世界一の自動車会社になる」と喜んだ本田宗一郎社長に対し、「僕たちは社会のためにやっているのです。ビッグ・スリーに勝つためではありません」と若手技術者達が猛然と反発したというエピソード(注4)にも象徴される。だから、ホンダは、CVCCエンジンを独り占めせずに、他社へも積極的に技術供与した。それがまた名声を高め、シビックの世界的なヒットとあいまって、HONDAブランドの向上に寄与したのである。
 ここにあるのは企業活動が引き起こす社会的摩擦をどう軽減するかという受動的な責任感や義務感ではなく、自分の仕事を通じて社会へ貢献したいという想い、技術者としての美学や志が融合した積極的な使命感である。つまり「ねばならない」(should)という強いられた道徳ではなく、「したい」(want)という内発的・自己実現的な徳の実践と言えよう(注5)。そして、内発的で自己実現的だからこそ、個人の美学や志が不可欠な要素として浮上してくる。ここに美学や志と経営の接点が生まれてくるのである。

5.キーワードは個人の美学や志

 そう、これからの時代、大切なのは働く個人の美学や志である。それは誰からも強要されたわけではなく、自発的な意志の表明として自らを律した行動に発露するから、人を感動させるし、リスペクトを生むのである。そして、個人の美学や志を尊重する企業は、個性的で創造的な企業風土を育み、革新的な商品・サービスを生み出すことを通じて、社会にリスペクトされるようになるのである。
 ここで上述したDobsonの企業進化モデルに話を戻すと、道徳企業の限界を乗り越える21世紀の企業像として提示されているのが、職人(アルチザン)的倫理観に基づき、個人の美学や志を重視する「美的マネジャー」達が働く「美的企業」(aesthetic firm)である。
 Dobsonの言う「職人的倫理観」とは、ホンダの技術者達がCVCCエンジンの開発の際に共有していた使命感と同様のものだろう。Dobsonによれば、美的マネジャーの関心は利益の捻出にはなく、個人の志や美意識に基づき、卓越した結果を残すことにある。それはどこまでも美を追求する職人的アーティストの姿勢に似ている。そして、道徳企業で抑圧された内発的な創造性は、美の追求を通じて、倫理や道徳をも内包しつつ花開くのである。
 次回、この「美的企業」を軸に、「美しい企業」とは何かを考えていきたい。


(注1)
Dobson, John [1999].『The Art of Management and the Aesthetic Manager』Quorum Books

(注2)
塚本潔[2006].『ハリウッドスターはなぜプリウスに乗るのか』朝日新聞社

(注3)
野中郁次郎・紺野登[2007].『美徳の経営』NTT出版

(注4)
紺野登[2008].『知識デザイン企業』日本経済新聞社。紺野はこのエピソードをNHKのプロジェクトXから拾っている。

(注5)
「ねばならない」と「したい」の違いについては、国分康孝[1991].『自己発見の心理学』講談社現代新書、が参考になる。
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