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Business & Economic Review 1997年07月号

【(特集 香港返還)論文】
ポスト返還の香港を考える

1997年06月25日 呉軍華


要約

香港が遂に150年以上のイギリス植民地としての歴史に終止符を打ち、中国の特別行政区として再出発する。現在の香港は、過去十数年間に取り沙汰されてきたような社会的混乱もなく、大規模な人材流出や資本逃避もとくに起きていない。香港にとっての実質的な返還はすでに終わっており、香港は文字通り、ポスト返還の時代を迎えた。今後の香港を展望する際には、2つのファクターがもっとも重要である。中国ファクターと香港ファクターである。

まず、中国ファクターからみてみよう。香港の将来は中国次第だという表現にみられる通り、中国を香港の将来を左右するもっとも重要なファクターとみる人は多い。そして、中国ファクターは香港の将来にとってマイナスであるとのイメージを持つ人が多いが、必ずしもそうではない。確かに、中国の特別行政区としての香港の将来を展望する場合、中国が一国二制度や港人治港(香港人による香港自治)といった約束を遵守するか否かがもっとも重要なポイントである。しかし、香港返還と直接的な関わりを持つ三者、すなわち旧宗主国イギリス、香港、中国のうち、もっとも返還後の香港の繁栄と発展を切望しているのは中国であろう。その理由は、次の3点である。すなわち、(1)香港の繁栄は中国にとって利益になる、(2)香港の繁栄維持はメンツを重んじる中国にとって重要である、(3)一国二制度が香港で成功すれば、台湾統一の足がかりとなること、である。ただし、中国自身が香港の繁栄を維持したくても、約束が実際に遵守されるには以下の3つの前提条件がある。すなわち、(1)中国大陸本土の安定、(2)中国の対外関係、とりわけ対米、対日関係の安定的発展、(3)香港が中国にとって、引き続き金の卵を産む鶏であり続けること、である。

持続的な高成長を背景に中国大陸本土の経済的安定が維持されることを前提とすれば、中国にとっての政治的懸念材料は、返還後の香港が現体制にとって脅威となることである。したがって、香港の民主主義、自由主義に対する中国の許容範囲はかなり限られる。なかでも、香港を台湾の独立運動、または大陸本土の政治システムを変えるための拠点として利用しようとする動きが発生した場合は、中国の姿勢が硬化するのは不可避とみられる。ただし、現在の香港の権力層や資産家の人々の人権意識、とりわけアメリカ流の人権概念は必ずしも高いわけではい。また、一般民衆の多くも金儲けのチャンスさえ確保されれば、民主主義や自由主義にそれほどこだわらないのが実情である。この意味では、香港ではいわゆる民主派の基盤は強固なものではなく、少数派と言っても過言ではない。こうした観点に立てば、英米からの人権擁護圧力は中国の暴走に対して一定の牽制効果があるものの、その度が過ぎると、逆に中国の警戒心を呼び起こし、保守勢力の台頭に力を貸す結果になりかねないのも事実である。

次いで、香港の将来を決定する香港自身のファクターをみてみよう。香港が自らの繁栄を維持していくための前提条件も3つある。

第1は、競争力の維持である。香港の対外競争力の低下の主因は、人件費と地価の急騰である。90年代に入って、わずか7年間に、名目賃金が2倍以上に上昇し、96年末の一世帯当たり平均年間所得は25万香港ドル(約400万円)に達している。ただし、香港では賃金格差が大きい。業種の違いはもとより、同じ社内の同じ職種であっても賃金格差が数倍ないし十倍以上に達することもある。香港経済を支え、とくに外国企業が必要とする優秀な専門的人材の賃金水準は世界でもトップレベルに達している。一方、不動産価格は賃金以上に上昇している。最近成約されたある分譲マンションの坪単価は約1,350万円であった。

70年代末以降、賃金と地価の上昇への対策として、香港の製造業は生産ラインの中国への移転を通じて競争力低下の危機を回避してきた。しかし、現在、コスト上昇に直撃されているのは、金融、貿易、輸送といった香港経済を支えるサービス業である。この傾向が続けば、返還後の香港の政治・社会への信認が確認される前に、コスト上昇に耐え切れなくなって香港を去っていく外国企業や投資家が現れてくるのは時間の問題であろう。この意味で、GDPの4分の1以上が不動産業によって構成される香港で、成長の維持とコストの抑制というジレンマにどう対処していくかが、7月1日に発足する新しい行政府の大きな課題である。

第2は、公平な競争環境の維持である。返還に伴って、旧宗主国イギリスの勢力後退とともに、政治・経済など各方面における中国の影響力の増大が必至である。中国系資本の対香港進出とそれに伴うビジネスチャンスの拡大はポスト高度成長期を迎えようとしている香港経済にとって、さらなる発展の可能性を開くチャンスであるのは事実である。しかし、こうした中国系資本の行動が厳格に市場経済のルールに沿ったものとなる保証はなく、香港の公平な市場競争環境が損なわれてしまう懸念があるのも事実である。前述の通り、誰よりも香港の繁栄と発展を切望する中国が、意図的に香港の競争環境を壊すことはない。しかし、結果として香港に悪い影響を及ぼすような企業行動が行われる可能性は否定できない。これに関連して懸念されるのは、中国的発想と変化に対する香港の人々の高い適応能力である。中国的発想とは、政治・経済システムが香港と根本的に異なる中国大陸の土壌で形成された中国の独特な発想を意味する。例えば、政治・イデオロギーを重んじる中国では、政治がすべてに優先するが、これは市場メカニズムに徹する香港のビジネス慣習と相容れぬものがある。こうした中国的発想を抑制し、市場経済のルールを徹底させるのが、香港の人々の果たすべき役割である。しかし、イギリス統治下で長い間、自らの運命を決めることのできなかった香港の人々の多くは、変化に対する適用力がきわめて高い半面、不合理な変化に対して、自らの努力があれば、それを合理的な方向に正すことが可能であることを分かっていない。

最後の条件は、政府の役割の再定義である。香港は長い間、自由主義経済の牙城といわれ、またレッセ・フェールの経済政策が香港のこれまでの成功をもたらすうえで大きな役割を果たしてきたのも事実である。しかし、現在の香港では、レッセ・フェールでは解決の難しい社会・経済的問題が山積している。まず、社会問題をみると、市場の手に委ねられては解決できない所得格差の拡大が挙げられる。所得格差の拡大は、努力さえすれば成功できるという香港ドリームの終焉を意味すると同時に、ポスト返還の香港社会の安定を脅かしかねない深刻な問題にもなっている。香港政庁の発表によると、所得の均衡度合を表す指標であるジニ係数は、1986年の0.453から91年の0.476を経て、96年現在、0.518まで上昇している。ちなみに、0から1までの間に推移するジニ係数は1に近いほど所得分配の不均衡度が高いことを意味する。次に経済的側面をみると、最近の香港では、中長期的にみて望ましい産業構造の姿についての議論が高まっている。この問題に対する中国政府の関心も高い。97年に入って早々、まず香港の中国系経済週刊誌経済導報が、中国政府の権威人士(権威筋)の話として、返還後の香港は国際貿易・金融・物流・情報センターとしての機能を維持していくべきだ。しかし同時に、香港が一層の発展を遂げるためには、ハイテク産業の育成が不可欠であり、香港はそのポテンシャルを十分持っているはずだという内容の記事を掲載した。そして、ハイテク産業を興すうえでの香港の利点として、具体的に、(1)資本調達システムが整備されている、(2)発達した情報産業を有している、(3)きわめて強い市場開発力を持っている、などの3点を挙げた。その後、4月に香港経済の現状や産業構造の転換に関する中国政府のレポートが作成されたともいわれる。同レポートは、香港の製造業を再興していくための具体策として、R&D比率(GDPに占める研究開発関連支出の比率)の引き上げや・荘蝸、の人材の活用などを取り上げている。

こうした中国政府の意向に呼応するかのように、董建華特別行政区行政長官候補はさまざまな場で、香港のバランスのとれた発展の重要性を強調し、また行政会議の議員で香港工業総会会長の唐英年氏に今後の産業政策についての研究を委託した。ちなみに、行政会議は総督の諮問機関であるが、返還後、行政長官の諮問機関になる予定である。唐会長によると、同報告書には3つの提言が盛り込まれる予定である。すなわち、(1)香港と深セン経済特区のボーダーの香港側に加工工業区を設置する、(1)ハイテク企業を主な対象とする香港株式市場の二部市場を創設する、(2)多国籍企業の地域総括本部を誘致するための商業パークを新たに造成する、というものである。このうち、加工工業区の設置については、その主要な目的として、仕事(昼間)は香港、生活(夜)は深センというスタイルを導入することによって、中国の安い労働力を活用し、香港の製造業の競争力を強化することが挙げられている。

造花や玩具といった労働集約型産業を中心とする製造業はかつて香港経済を支えるもっとも重要な柱であった。しかし、こうした製造業はレッセ・フェールの経済政策を背景に80年代に入ってから急速に縮小した。ちなみに、80年時点における香港のGDPと総雇用者数に占める製造業の比率はそれぞれ23.7%、50.1%であったが、現在は8.8%(95年)、13.5%(96年)へといずれも大幅に低下している。製造業の縮小に伴って、香港経済のサービス化が急速に進み、香港は国際金融・貿易・物流センターとしての地位を確立するに至った。

こうした経緯に照らすと、香港の製造業再興の必然性と可能性には疑問がある。すなわち、人件費や不動産価格を中心にビジネス・コストが世界で最も高い香港は、製造業にとっては決して適切な場ではない。さらに、中国大陸という膨大な後背地経済を擁する香港が無理して自ら産業構造のバランスをとる必要はない。

今後の香港では、産業構造の転換に伴って発生した失業問題の解決など、政府の果たすべき役割が多くなるが、政府の介入が行き過ぎれば、自由・放任のもとで成功した香港経済の足腰を弱めてしまう懸念もある。
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