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Business & Economic Review 2001年04月号

【OPINION】
少子化対策や教育改革の議論に環境問題の視点を

2001年03月25日 環境・高齢社会研究センター 池本美香


文部科学省では、目下「教育改革国民会議最終報告」の提言を踏まえ、21世紀教育新生プラン(レインボープラン)を提示している。2001年を教育新生元年と名づけ、「わかる授業で基礎学力の向上を図ります」「多様な奉仕・体験活動で心豊かな日本人を育みます」などの7つの重点戦略が打ち出されている。この背景には、学力低下、いじめ、不登校、学級崩壊、少年犯罪など、様々な子どもの問題が深刻化していることがある。

一方、厚生労働省では、少子化対策に力を入れている。少子化という言葉が最初に使われたのは1992年度の国民生活白書だと言われるが、すでに日本の合計特殊出生率は、1974年に人口を維持するために必要な水準を下回っていた。1989年には過去最も低かった1966年(丙午の年)の1.58を下回ったことで「1.57ショック」が話題となったが、その後も低下傾向に歯止めがかからず、1999年には1.34と、国際的にみても低い水準になっている。この出生率の水準は、人口が6割程度しか補充されないという意味であり、10年以内に日本の人口は減少に転じることが確実である。

政府は長い間、出生率向上のための施策の必要性について言及することを避けてきたが、1997年10月の人口問題審議会報告書で初めて、「少子化の要因への対応についても行っていくべきである」という考え方を示し、新たに内閣総理大臣主宰による「少子化への対応を考える有識者会議」を発足させるに至った。それを受けて、99年12月には「少子化対策推進基本方針」として、「仕事と子育ての両立の負担感や子育ての負担感を緩和・除去し、安心して子育てができるような様々な環境整備を進めることにより、21世紀のわが国を家庭や子育てに夢や希望を持つことができる社会にしよう」という指針が策定された。1999年度には、少子化対策特例交付金として約2,000億円の予算が計上され、これにより約38,000人の保育所待機児童が解消したとされる。

教育改革や少子化対策に関する政府やマスコミのこれまでの議論をみていると、その前提として子どもを将来の労働力とみなし、国際競争に勝つためには、あるいは社会保障制度の破綻を避けるためには、労働力の量の確保と質の向上が必要との考え方がうかがえる。そのために、政策として最も力が入れられているのは、教育改革における子どもの学力の向上と、女性が労働力として働きながら、将来の労働力であり、社会保障負担の担い手でもある子どもを産めるようにするための保育所の整備である。

これまで女性は、働いて経済的に自立する権利を獲得することを求めて闘ってきたので、少子化対策の一環として保育所の整備が進められていることは、一般に歓迎されている。しかし、筆者は日本人、わが国といった表現に象徴されるように、国の経済力強化を目的としてのみ教育や子育てが議論されていることについて、違和感を覚える。そこで、ここでは少子化対策や教育改革を、一国の経済問題としてだけでなく環境問題として考えることを提案したい。

地球環境問題の議論においては、一国の利益のみを追求することはもはや認められない状況にある。一方、現在の日本の少子化対策や教育改革の中心的関心事は、国際競争に勝つための技術を身に付けた豊富な労働力を、国として確保することのようにみえる。大田堯氏は1990年に発表した著書の中で、政府の教育改革の議論に「人類的見地に立った教育感覚」が欠けている点を指摘しているが、その後10 年を経た現在、状況は一層「日本の利益」を求める方向に向かっているのではないか。

少子化や教育の問題を、「自分の子ども」あるいは「国家の子ども」として議論するのではなく、「人類の子ども」という地球レベルの視点からとらえ、ヒトという生物種の存続が危ぶまれている状況として認識してはどうだろうか。人間は経済活動の主体である前に、地球上の様々な生命とつながっている生物種であり、出産や子育ては特に人のコントロールの及ばない自然の営みである。自然をコントロールして、経済活動に適応するようにしようという現在の教育改革や少子化対策の動きは、環境問題の議論からするとおかしな話である。通勤ラッシュの状況について、「動物なら『虐待』と呼び、人間の場合は『通勤』と呼ぶ」というポスターがあるというが、自然保護や環境問題を議論していく際に、まずは人間、特に子どもを自然の一部とみなし、環境問題として教育や少子化対策を議論していく必要があるように思う。

子どもを人材としてではなく、地球上の生命の一部を構成する存在であると認識することにより、教育改革や少子化対策に新たな方向がみえてくるのではないか。一年半ほど前に、ノルウェーとドイツの子育て事情の調査で、現地を訪れる機会があったが、そこで印象的であったのは、非効率な手間のかかる子育てから親を引き離し、労働力として存分に力を発揮してもらおうといった方向ではなく、親が子どもという自然と過ごすこと、そして子どもも自然と共に過ごすことが、とても大切にされていた点だ。ノルウェーでは、法律で授乳のための休憩時間が保障されていて、母乳で育てている割合が高いことが政府のパンフレットに誇らしげに記載されていた。98年からは1、2歳児の親が子どもと一緒に過ごす時間を増やすことを目的に、保育所を利用しない場合には、保育所への補助金を現金で親に給付する制度が導入されている。これを「時代に“逆行”家庭育児手当」とした反論もあったが、親子が一緒に過ごすという自然の営みを保障するという、むしろ新しい制度として位置付けるべきではないだろうか。

ドイツで訪問した幼稚園は、深い森に包まれていたが、そのほか園舎を持たずに近くの森に出かけて遊ぶ幼児教育活動も増えていると聞いた。ドイツでは町中でクラインガルテンと呼ばれる緑地をあちこちで見かけたが、これも子どもの健康を守るためには緑と土が必要との考えから、19世紀半ばに起こった活動であるという。一区画100坪ほどの小屋付きの庭を、市民が安く借りることができる。それが100~200区画集まって一つのクラインガルテン地区を構成しており、子どもだけでなくお年寄も自然と共に過ごすことが可能になっている。「病院よりクラインガルテンを」という言葉もあると聞く。

両国において、延長保育や病児保育の状況について質問をすると、子どもが病気のときは親が仕事を休む権利を保障していること、また長時間親と離れることは子どもにとってよくないと怪訝な顔で言われた。すでに日本では、子どもを自然の一部として認識するのではなく、親が子育てにわずらわされずに経済活動に専念できる方法ばかり考えていることを思ったが、子どもを自然の一部として考えてそれを大切にするどころか、やっかいな手間のかかる自然を排除しようという動きが強まっているように感じられる。

環境問題の議論も、CO2の排出や産業廃棄物の問題といったマクロの議論ばかりでなく、まずは子どもという自然をどう扱うのかといった議論も必要ではないだろうか。そのことは、環境問題と少子化対策と教育改革のすべてにとって、大きな効果をもたらすはずである。例えば、文部科学省では、芝生の校庭や木造の校舎の建設を勧めている。校庭が芝生になったことで、子どもは元気に外で遊ぶようになり、また地域の人にとっても憩いの場として機能しているという報告もある。そうしたコミュニティー意識の高まりもまた、少子化対策に効果を及ぼすかもしれない。

子どもの存在を、将来の経済活動を担う人材としてだけではなく、地球の生命の一部としてとらえたうえで、環境問題として子どもの問題を考えれば、教育改革や少子化対策の議論も、より深みのあるものになるのではないか。子どもを将来の経済活動を担う人材とみなすことで、20世紀の子育てや教育が作られてきたようにも思う。そうではなく、子どもの存在を、あらゆる生命が連鎖している自然の一部と考えれば、子どもという自然をどう守るのかという視点で、子育てや教育が組み直される可能性がある。
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