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コラム「研究員のココロ」

「美しい」が選ばれる企業の条件となる-経営美学試論(2)-

2008年09月12日 井上岳一


1.「美しさ」は20年に一度やってくる?

 企業の美しさとは何か。実は、この問いはそれほど新しいものではない。歴史をひもといてみると、ビジネスの世界で「美しさ」が最初に問われたのは既に40年近く前のことである。その20年後には「美しい企業」のあり方が問われているから、もしかしたら「美しさ」は20年周期で繰り返される問いなのかもしれない。仮にそうだとすれば、今、ちょうど3度目の問いかけが始まる時期を迎えているといえる。20年周期説の当否はさておき、まずは歴史を振り返ってみよう。

2.モーレツからビューティフルへ

 最初の問いかけは、1970年の富士ゼロックスの企業広告「モーレツからビューティフルへ」である。それまでの日本社会は、「消費は美徳」と謳われた高度経済成長期の波に乗り、拡大一辺倒。森永製菓の「大きいことはいいことだ」(1968年)や丸善石油の「オー・モーレツ!」(1969年)というCMが一世を風靡したように、60年代を特徴づけたものの一つが「拡大主義」「猛烈主義」であった。
 一方で、公害問題や環境問題が顕在化し、ロックや消費者運動や学生運動が盛り上がるなど、既成の価値観に対する反動が生まれたのもまた60年代の特徴である。このような時代の空気を的確に捉え、猛烈主義・拡大主義に疑問を投げかけたのが「モーレツからビューティフルへ」だったと言える。富士ゼロックスの社長・会長を務めた小林陽太郎は当時を振り返り、「ただ美しいというのでは、女性っぽいんじゃないかという反対もあったのですが、しかしアメリカ人が英語でビューティフルというときには、何か非常に広がりの大きなものを感じるわけで、実際、調べてみると、やはりそうなんです。だから思い切って、それを使っていこうじゃないかということになった」と述べている(注1)
 「何か非常に広がりの大きなものを感じる」との感覚的理由から選ばれた「ビューティフル」は、感覚的だからこそ、新しく到来する時代の空気を見事に捉えた言葉だったと言える。実際、その3年後には、石油危機を予言し、「Man is small, and, therefore, small is beautiful.(人間は小さいものである。だからこそ、小さいことは素晴らしい)」と説いたシューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』が出版され、ベストセラーとなっている(注2)。「ビューティフル」は、どこまでも拡大を続け非人間的になってしまった経済に対し、人間のスケールを取り戻そうという反動から生まれた言葉であった。それが日欧で同時期に生まれたことが興味深い。
 富士ゼロックスは、その後、人間性や個性を大切にした仕事のやり方に変えていくための経営刷新運動に取り組むなど、新しい働き方を積極的に模索する企業であったから、「モーレツからビューティフルへ」は企業姿勢を打ち出す意味で一定の説得力をもつものだったといえる。ただし、それが意味するところがどれだけ伝わっていたかとなると疑わしい。典型的なヒッピースタイルの若者が「ビューティフル」と繰り返す歌をバックに、「BEAUTIFUL」と書かれた紙と花を持って街をふらふらと歩くだけのCMは、確かに鮮烈なメッセージ性を持っていたが、それは、企業経営のあり方というよりも、個人のライフスタイルや価値観に対する問いかけとして受け止められたのではないかと思う。

2.バブル期に目指された「グッドカンパニー」

 「モーレツからビューティフルへ」で幕開けした1970年代は、二度のオイルショックもあり低成長の時代であった。しかし、80年代には再び成長路線に乗り、90年代にかけてバブル経済に突入。金満大国と言われるほどの繁栄を謳歌する中で、「美しい企業とは何か」という問いかけが一種のブームになっている。
 この時期に相次いで出版された「美しい企業」をテーマにしたビジネス書を読んでみると、「美しい企業」を特徴づけるキーワードの一つが、「企業市民権(Corporate Citizenship)」或は「良き企業市民(Good Corporate Citizenship)」であったことがわかる(注3)。「良き企業市民」とは、自社の利益ばかりでなく、良き市民としてきちんと社会貢献をしていこう、という考え方である。そして、当時はどの企業にも潤沢に資金があったからだと思うが、社会貢献の方策として喧伝されたのがフィランスロピー(人道支援活動)やメセナ(文化擁護活動)である。
 金で名誉を買うというと語弊があるが、経済的に成功したのに尊敬されず、むしろ、貿易摩擦等で嫌われてしまう。「良き企業市民」として人道支援や文化擁護に貢献すれば、「美しい企業」として社会に認められるのではないか。そういう時代の空気だったのだと思う。
 「良き企業市民」という言い方にも現れているように、この時期の「美しい」は、ビューティフルという感覚・感性的なものではなく、グッドネス=善を志向した倫理的なものであった。すなわち、「美しい企業」は、「グッドカンパニー」を意味していたのである(注4)
 グッドカンパニーのコンセプトは、企業が社会に対して何ができるかを問う、いわば「外向き」の倫理性を持ったものであった点が評価できる。しかし、フィランスロピーやメセナはどだい好景気ならではのものであった。実際、バブルがはじけた後はなりをひそめ、「良き企業市民」や「美しい企業」という物言いも聞かれなくなっていったのである。

3.CSRで目指される「モラルカンパニー」

 「良き企業市民」に代わるようにして21世紀に突如として脚光を浴びるようになったのが企業の社会的責任(CSR)である。背景には、2002年のEUのレポート「CSR:持続可能な開発への企業の貢献」や、2001年から2002年にかけて相次いだエンロン、ワールドコムの事件がある。
 CSRを一口に説明するのは難しい。また、サステナブルな経営の実現に目標を置く欧州の論調と、コンプライアンス(法令遵守)、コーポレートガバナンス(企業統治)、ディスクロージャー(情報開示)等、説明責任や企業の信頼性向上のための取り組みを重視する米国のそれとでは、微妙に異なるものとなっているのも複雑化する要因となっている。しかし、基本的には、社会に存在を許されるための責任をどれだけ意識しているか、永続する企業となるためにどれだけ透明で公正な法人になれるか、を問うのがCSRだと言えよう。
 CSRというコンセプト自体は望ましいものだが、企業側の受け止め方には一定の問題があるように思う。それは「責任」というやや堅苦しい言葉を使用していることからくるのだろう。「責任」(responsibility)と言われると、義務として対応(response)してしまうからである。実際、CSRに対する企業の取り組みを見ていて感じるのは、そういう義務的対応感である。
 また、倫理性が過剰に強調されているように感じるのも気になるところである。社会と共にある法人として当たり前のことをやろうと言っているだから、倫理や正しさが持ち出される必要はない。なのに、どうもCSRをきっかけに目指されているのは、いわば「モラルカンパニー」としての企業像であるように思えるのだ。90年代のグッドカンパニーのような「外向き」の伸びやかさはそこになく、あるのは、四角四面の責任感や倫理観である。目指されるのは公明正大で環境に配慮した企業活動?どうにも「内向き」の感は免れ得ない。

4.モラルカンパニーを超えて

 勿論、倫理は重要である。だが、過剰に倫理が強調されると、新しいものや面白いものが出てくる予感がしない。倫理は「○○すべき」という主張につながり易く、それ以外の取り組みを許容しない傾向を生んでしまう。しかし、創造性やイノベーションは、そのような「○○すべき」を超えたところにこそ芽生えるものだろう。つまり、過剰な倫理性は創造性やイノベーションを阻害する。そこにモラルカンパニーの限界があるように思う。
 では、倫理性を内包しつつ創造性を阻害しないような企業経営のコンセプトは何か。それがグッドカンパニーとは別の意味での「美しい企業」ではないかと思う。バブルから20年を経て、再び「美しい企業」とは何かを問うことの意義はここにある。
 次回、モラルカンパニーの次に来る企業経営のコンセプトという視点から、「美しい企業」とは何かを探ってみたい。


(注1)
片方善治[1991].『トップが語る美しい企業の文化』毎日コミュニケーションズ

(注2)
E・F・シューマッハー(小島慶三他訳)[1986].『スモールイズビューティフル』講談社学術文庫

(注3)
ODSマネジメント研究会[1990].『「美しい企業」とは何か』PHP研究所、片方善治(前掲書)、倉光弘己[1991].『経営感覚革命:美しい企業へのコンセプト・メイク』東洋経済新報社、等

(注4)
『トップが語る美しい企業の文化』に添えられている英語名タイトルは「Mécénat, Philanthropy & Good Company」である。