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コラム「研究員のココロ」

森づくりに学ぶ企業経営の真髄

2008年04月14日 井上岳一


1.原風景としての森林

 林学という学問分野がある。林業、つまり、森をつくり、育て、経済的に役立てるための業に関することがらを研究する応用学問である。大学でこの林学を学び、その後、森林・林業行政に携わっていた自分にとって、森林はいつも原風景にある特別な存在である。経営コンサルタントという、およそ森林とはかけ離れた職業に就いている現在もそれは変わらない。いや、むしろ、企業のあり方を考える立場になってからのほうが、改めて森林や森づくりについて考える機会が増えているように思う。そこには、企業という人間の社会集団を考えるに際してヒントとなる豊穣な意味が隠されていると思うからだ。

2.多様な存在の調和

 地球上の生物種のうち、その3/4は熱帯林に存在していると言われる。熱帯林を持ち出さずとも、森林は、すべからく多様な生命の宝庫である。そこでは、樹木のみならず、菌や微生物、草花、昆虫を含む動物等の多様な生命体が、複雑な相互関係を形成している。森林とは、多様な生命体から成る関係性の織物にほかならない。
 驚くべきは、これら多様な生命の全てに意味と役割があり、一つとして無用なものがないことである。植物の葉や幹を食べる「害虫」すらも、その存在には何らかの意味が必ずある。森林には、多様な存在の全てが相互に関連し合いながら、全体として見事に調和した社会が実現しているのである。その事実を前にすると驚嘆の念を禁じざるを得ない。
 振り返って、私達人間は、多様な存在の全てに意味と役割があり、一人として無用な者がない、調和した社会を作り上げることができるだろうか。企業に留まらず、広く社会一般のあり方を考える時、自分が常に問い続けてきたのはこのことである。森林に実現している多様な存在の調和が、人間社会が目指すべき理想の姿に思えてならないからである。それは、「もはや存在せず、恐らくは存在したことがなく、多分、これからも存在しそうにない」(注1)社会のありようかもしれないが、見果てぬ到達点であっても、理想型としてのモデルを持つことは、企業組織=社会のあり方を考える上での指針を与えてくれる。森林は、自分にとって、そんな理想的な社会のモデルとして機能してきたのである。

3.「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚

 人が植えてつくる森を人工林というが、人工林を育てる営為(森づくり)は、非常に長期間を要する営みである。短くて30年、普通は、50年から100年先にようやく木材として収穫されることを想定して、植え、育てられる。つまり自らの孫の世代になってようやく収穫できるわけで、場合によっては、自分が植えた木が丸太になる姿を見ないまま死んでいくこともある。祖父から受け継いだものの恩恵を自分が享受し、また、孫の代のために植える。そういう非常に長い、時に、「木一代、人三代」(注2)とも言われるような時間感覚の中で、受け継ぎ、受け継がれを繰り返すのが林業の世界である。
 これに比べると企業経営というのは随分と短い時間感覚の中での営為なのだなと思う。企業の寿命は平均すると30年という「企業30年説」が言われて久しいが、実際のところ、30年先、100年先を考えている企業がどれくらいあるだろうか。「老舗大国」と言われる日本には金剛組のように1000年を超える企業もあるし(注3)、セレクトショップ大手のユナイテッドアローズのように「100年続く会社」を目指して創業する企業も確かに存在するが、長期間の永続を目標に掲げて経営している企業は決して多くない。100年先なんて悠長なことを言っている暇はなく、今を精一杯に生きるしかないというのが本音だろうと思うが、それにしてもあまりに短期的な視点で経営が語られすぎる傾向がなかろうか。
 しかし、短距離走は永遠には続けられない。確かに経営は終わりのないレースかもしれないが、それにしても、終わりのない短距離走の繰り返しではあまりに辛過ぎる。大半の企業の寿命が30年以下というのも、ここいらに理由があるのかもしれないなと思う。
 一方、森づくりは過酷な重労働だが、何故、続けられるのかといったら、一つには、先祖から受け継いできたものを自分の代で途絶えさせてはいけないという責任感があるのだろうし、もう一つには、過去から未来につらなる歴史の連続の中に自らの役割を見出すことからくるある種の充溢感があるからなのだろうと思う。例えて言えば、前の世代からタスキを受けて、また次の世代にそれを手渡していく駅伝レースのようなもので、自分は次の走者に手渡すまでの中継ぎだという意識があるから、頑張ることができるし、自己の存在に対する意義付けもできるのだろう。これは、単なる短距離走とも、長距離走とも異なる感覚である。孤独な戦いでありながらも、世代間を貫く連帯感がある。それが過酷な労働に直面してもへこたれない粘り強さと永続性につながるのだと思う。
 勿論、孫の代に社会がどうなっているかなんてわからない。また、その間、台風が来たり、山火事にあったりといった予期できない不運に見舞われるかもしれない。それでも孫の代になっても、そのまた孫の代になっても、営々と森が残ることを願って、植え、育てられる。そういう世代を貫く連綿とした時間感覚が森づくりを支えている(いや、正確には、支えてきたというべきか。結局、戦後の資本主義経済は、このような時間感覚に支えられた営みを「非効率」なものとし、林業が衰退する結果を招来したからである)。
 代々オーナー家が経営を引き継ぐ同族企業であれば、このような時間感覚は持ちやすい。特に、二代目以降の経営者は、まさに、「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚の中で生きている。永続性にこだわるあまり保守的になり過ぎる恐れはあるが、独自性のある経営を長期間にわたって続けてこられたのは同族経営ゆえという例は少なくない。
 一方、パブリックカンパニーになると、オーナー色が弱まることの必然として、「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚は持ちにくくなる。その結果、企業のアイデンティティがぐらつき、独自性や集団としての力が弱まってしまう恐れがある。
 この場合、創業以来受け継いできた企業のDNAを再発見し、それをある種の神話として共有することを通じて、「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚を取り戻すことが有効に作用することがある。例えば、ジャック・ウェルチの時代に世界一の企業帝国となったGEを引き継いだジェフ・イメルトは、その就任に当たって、創業者のエジソンに光を当て、Imagination at Wok(想像力稼動中(注4))というスローガンをキーワードにCIを再構築した。発明王エジソンから受け継いだイノベーティブなスピリットを継承、発展することがGEという社会集団の使命であると自らを再定義し、「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚を取り戻させることによって、肥大化したグループ全体を束ねる強固なアイデンティティを築こうとしているのである。

4.手入れの思想

 長期間を要する森づくりに欠かせないのが適時適切な「手入れ」である。人工的に作られた森は、自然のままに放置してもうまく育ってくれず、時々に人手を加えることが必要となる。この場合、最も重要になるのが、個々の樹木に光を当てるための手入れである。森林は、個々の樹木から見ると、自らの成長に必要な光を確保するための受光競争の場になっている。人の役割は、この競争の仲裁者になることで、どの木を生かすべきかを決め、その木に十分に光が当たるよう空間配置を考え、不要な木を取り除いていく。これがいわゆる間伐で、それは個々の木を「生かす」ために「光を当てる」作業である。
 林業家たちは、よく「この木は素性がいい」などと擬人化した表現を使うが、一本一本の木を慎重に、まさに我が子を慈しむような愛情をもって観察し、地形や風の道、陽光の降り注ぎ方を考慮しながら、生かしていきたい木が育つように間伐をしていくのである。この作業は手間はかかるが、森づくりの醍醐味だともいえる。数年後、数十年後の姿を想像しながら、どの木を残し、どの木を伐るべきかと一本一本の木を吟味していく作業には、思わず時間の経過を忘れてしまうほど没頭できる面白さがあるからである。一本一本の木の癖を見極めながら、どれだけ長期的視点にたって正しく木の評価ができるか、風や光や地形という外部環境との兼ね合いを考慮しながら、残すべき木と伐るべき木のバランスをどうとっていくかを判断する、高度に職人的な知恵が要求される作業なのである。
 養老孟司は、この「手入れ」を日本人が自然と付き合う中で培ってきた独特の観念と位置付け、西洋由来の「コントロール」(支配)に対置する(注5)。その定義に従えば、「『手入れ』とは、バランスを崩しやすいシステムに、加減を見ながら手を加え、システムを強固にしてやること」である。そして、手入れの前提になるのは、「相手を認め、相手のルールをこちらが理解しようとすること」。その上で、「自分が手を入れたら、相手がどのように反応するか、次にそれを知らなければならない。しかし自然という相手は、そう簡単には自分の姿や反応を見せてくれない。だから自然を知るためにあれこれ努力し、長い時間にわたって辛抱し、それでもやがてはわかる、と頑張る根性を持つことが要求される」のである。
 ここで言う「自然」を「従業員」や「部下」と置き換えれば、これはそのまま企業組織を維持管理する上での優れた指針になるではないかと思う。どうも企業経営=マネジメントの現場では、「コントロール」の重要性ばかりが強調されてきたように思うが、人間の社会という複雑なものを「コントロール=支配」するのは土台無理があると思ったほうがいい。求められるのは、森づくりと同様に「手入れ」の思想なのである。

5.森づくりの叡智を企業経営に生かす

 以上見てきたように「多様な存在の調和」「『受け継ぎ、受け継がれ』の時間感覚」「光を当てるための手入れ」という森づくりの要諦は、企業経営においても重要な指針となるものだ。つまるところ、経営の真髄とは、企業という森をどれだけ豊かに、永続的に育んでいけるかにあるのだと思う。ならば、森づくりの叡智を企業経営に生かさない手はない。
 昔、まだ日本の主要産業が農業であった頃、農家は、農業の傍ら森づくりに勤しんだ。毎年の収穫に一喜一憂する農業と、「受け継ぎ、受け継がれ」の時間感覚の中で営む森づくりとの両方を経験することは、きっと双方に良い影響をもたらしたはずである。
 同様に、企業活動と森づくりが両立する働き方はできないだろうかと考える。例えば、企業が森林を所有し、従業員が順繰りで、一年のうちの何日かを日々の仕事を離れ、森づくりに勤しむ日に当てる、そんな働き方である。従業員は、森づくりを実践するうち、「多様な存在の調和」「『受け継ぎ、受け継がれ』の時間感覚」「光を当てるための手入れ」を自然に体得するようになるだろう。それは、必ずや日々の働き方に良い影響をもたらすはずだ。単純に、人工物と人間だらけの労働環境の中で疲れ、ストレスを抱えている人々にとって、自然に触れることは心身のリフレッシュになるから、それだけでも意味がある。皆で力を合わせての肉体労働はチームの結束を高めることにもつながるだろう。おまけに、丹精こめた手入れによって森林が生き生きとした状態になれば地球温暖化防止へも寄与する上、環境保全や地域社会に貢献する企業というイメージづくりに寄与するかもしれない。企業にとって、森づくりからもたらされる効用は、想像以上に大きいはずである。

6.風土に根ざした経営

 「植林は王者の業なり」とは内村鑑三の言葉である。彼の講演録である『デンマルク国の話』では、荒野を沃野に変えたデンマークの歴史を紹介しながら、植林の意義と重要性を説いているが、この中で、内村は、「緑は希望の色」と唐突に述べている(注6)
 何故、緑が希望の色なのか。ここで、「希望とは、それを厳密な意味でとるならば、自然の善意に信頼を寄せることである。それに対し、期待とは、人間によって計画され管理された諸結果に頼ることである」と述べたイバン・イリイチの言葉を思い起こす(注7)
 森づくりは、未来を信じ、まさに「自然の善意に信頼を寄せ」ながらも主体的に営む地道な行為である。それは「生命への畏敬」(シュバイツァー(注8))を土台にした、人と自然の協働の営みである。人の計画や管理(=人工)の埒外に溢れ出してしまうもの(=自然)を切り捨てることなく、予測不可能な未来の可能性を信じ続ける営み。森づくりは希望そのものであると言っても過言ではない。
 イリイチは上述の言葉に続け、「希望の中心にあるのは、ある人格への望みであり、われわれはその人物からの贈り物を待つのである。期待は、わたしたちが自分の権利として要求しうるものを生み出すことになる予測可能なプロセスから満足を得ようとする」と述べている。私達はいつの頃からか、予測可能な成果を「期待」することに血道を上げ、予測不可能な中で「待つ」ことを忘れてしまったのではないか。それは人智を超えたものに対する信頼の喪失を意味している。人智=人工が全てになり、「わかり得ないもの」は切り捨てられてしまう。切り捨てられる「わかり得ないもの」とは、つまるところ、自然であり、他者である。だが、自然や他者に対する信頼=生命への畏敬なきところに希望は生まれない。日本の社会に希望がなくなったと言われて久しいが、それは、日々の暮らしの中で、生命への畏敬を実感できることの少ない社会になってしまったことに根本的な原因があるのだと思う。わかりやすい目標と成果ばかりが幅をきかせ、「信頼」よりも「数値」が、「手入れ」よりも「管理」が重視される現代の企業社会は、その象徴的な姿である。
 だが、日本には、国土の67%を占める豊かな森林がある。先進国の中でこれだけ豊かな森林率を誇るのは他にはフィンランドだけである。日本は、生命に満ち溢れた風土を有する稀有な国であり、本来は生命への畏敬に満ちた暮らしの文化を育んできた国なのだ。そこに未来への希望がある。
 一時期もてはやされた「日本的経営」は、戦前の村落共同体の残滓を企業社会に持ち込むことによって成立したものだった。しかし、21世紀において価値を有する真の日本的経営とは、その独特の風土と密接な関わりをもつ中から生まれてくるものではないかと思う。それは生命への畏敬に満ち、自然や他者の価値をそれ自体として何よりも尊重する、そんな経営のあり方である。発展・拡大を旨とする父性的な原理よりも、調和や循環を大切にする母性的な原理に包み込まれた経営と言い換えてもよい。そんな風土に根ざした、真の日本的経営の型を見出すことが、これからの日本企業にとっての課題であると思う。
 風土に根ざした経営のあり方を追求するため、風土そのものの中に深く分け入ること。その中で、過去の人々が受け継いできた手わざや価値観を受け継ぐこと。その時、企業は、森づくりから学べることの多さに気付くだろう。森はインスピレーションの源泉であり、森づくりは希望の宝庫なのである。


(注1)
ジャン・ジャック・ルソー[本田喜代治・平岡昇訳]『人間不平等起源論』岩波文庫、1933年

(注2)
速水勉『美しい森をつくる』日本林業調査会、2007年

(注3)
野村進『千年、働いてきました』角川oneテーマ21、2006年

(注4)
日本ゼネラル・エレクトリックではこのスローガンを「想像をカタチにするチカラ」と訳している(GE Japanのウェブサイトを参照)

(注5)
養老孟司『いちばん大事なこと』集英社新書、2003年。以下、同書より引用。

(注6)
内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波文庫、1946年

(注7)
イバン・イリイチ[D・ケイリー編/高島和哉訳]『生きる意味』藤原書店、2005年

(注8)
アルベルト・シュヴァイツァー[竹山道雄訳]『わが生活と思想より』(白水社、1995年)。なお、同書で竹山は「生命への畏敬」(英語では、reverence for life)を「生への畏敬」と訳しているが、ここでは、より一般的に普及している「生命への畏敬」を用いた。
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