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RIM 環太平洋ビジネス情報 2006年01月号Vol.6 No.20

「文明の生態史観」と東アジア共同体

2006年01月01日 調査部 環太平洋戦略研究センター 顧問 渡辺利夫


前回のこのコラムで私は「東アジア共同体」の形成に警鐘を鳴らした。一つには、社会理念、政治体制、安全保障枠組みが相互に異なる東アジアは共同体形成の条件を決定的に欠いていること。二つには、共同体構想の背後に中国の地域覇権主義が隠然と存在しており、共同体形成は東アジアの小国にとって危険なものになること。第三に、中国が東アジアにおいて地域覇権を掌握するに際しての障害が日米同盟であること。すなわち中国はみずからの主導により東アジア共同体を形成し、これに日本を招き入れることによって日本の外交ベクトルを東アジアに向かわせ、そうして日米離間を謀るというのが中国の戦略であり、それゆえ日本は東アジア共同体への参加にはよほど慎重でなければならないこと。前回のコラムで主張したことは以上の3点であった。

しかしこれは、現在の与えられた条件の中での外交選択の問題であって、もう少し深く考えてみなければならない問題が他にいくつかあるのではないかと、コラムを書き終えてから思うようになった。つまり日本や東アジアがそういう外交選択をしなければならない歴史的さらには地政学的な要因は何かについてである。

そう思いを巡らせ思い浮かんだのが梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」である。これは昭和32年(1957年)の『中央公論』2月号に掲載された比較的小さな論文である。東洋と西洋あるいはアジアとヨーロッパという思考に慣れ親しんできた日本の知識人に驚きをもって迎えられた論文である。

「文明の生態史観」は、今西錦司氏を師と仰ぎ京都大学に雲のごとく集まった俊秀たちの思考様式に発するものであるが、東洋対西洋という、長きにわたり日本人の頭の中に刷り込まれてきたイメージを一新することは叶わなかった。しかしこの史観が強い影響力を与えるのは今後ではないかという予感が私にはある。

東アジア共同体論が登場し、これを主軸に東アジア関係論がこれから濃い密度をもって展開されるにちがいない。この時点で「文明の生態史観」の主張を確認しておく必要があると思いいたって、この一文を認めた。梅棹氏の主張の骨格をまとめれば以下のごとくである(私の手許にあるのは梅棹忠夫『文明の生態史観ほか』中央公論新社、中公クラシックス、2002年であり、引用はこれによった)。

梅棹氏は東洋と西洋という分類はただ「類別をあたえただけで、種別をはかる目が用意されていない。日本が東洋一般でない以上は日本と日本以外の東洋とがどのようになるかが、かたられねばならない。よくしらべてみたら、案外ひどくちがうものかもしれない」という。「案外ひどくちがうものかもしれない」といっているが、少し後で要約するように、東洋は到底一括りにはできない、むしろ決定的に異質の種別の集合体なのだと主張しているのである。

梅棹氏の思考対象は旧世界である。旧世界において高度の文明国となることに成功したのは日本、その反対側に位置する西ヨーロッパのみであり、これと中国、東南アジア、インド、ロシア、イスラーム諸国との間には顕著な発展格差がある。

梅棹氏は旧世界のこの2つの地域のうち前者を「第一地域」、後者を「第二地域」と名付ける。氏の指摘によれば「旧世界を横長の長円にたとえると、第一地域は、その、東の端と西の端に、ちょっぴりくっついている。とくに、東の部分はちいさいようだ。第二地域は、長円の、あとのすべての部分をしめる。第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」。そして梅沢氏は次のように自問する。

「第一地域では、動乱をへて封建制が成立するが、第二地域では、そういうようにきちんとした社会体制の展開はなかった。第二地域のあちこちでは、いくつもの巨大な帝国が、できてはこわれ、こわれてはまたできた。東と西にとおくはなれたふたつの第一地域が、もうしあわせたように、きちんと段階をふんで発展してきたのは、なぜだろうか。それをとうまえに、逆に、大陸の主体をしめる第二地域では、なぜ第一地域のような、順序よく段階をふんだ発展がなかったのか」。

文明論的な観点からみて旧世界の最も重要な特徴は、ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する巨大な乾燥地帯の存在だという。

「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまんなかからあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのであろうか。わたしは、わたしの研究者としての経歴を、遊牧民の生態というテーマではじめたのだけれども、いまだにその原因について的確なことをいうことはできない。とにかく、むかしから、なんべんでも、ものすごくむちゃくちゃな連中が、この乾燥地帯からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。そのあと、文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃をうける」。すなわち「第二地域の歴史は、だいたいにおいて破壊と征服の歴史である。王朝は、暴力を有効に排除しえたときだけ、うまくさかえる。その場合も、いつおそいかかってくるかもしれないあたらしい暴力に対して、いつも身がまえていなければならない。それはおびただしい生産力の浪費ではなかったか。たいへん単純化してしまったようだが、第二地域の特殊性は、けっきょくこれだとおもう。建設と破壊のたえざるくりかえし、そこでは、一時はりっぱな社会をつくることができても、その内部矛盾がたかまってあたらしい革命的展開にいたるまでは成熟することができない。もともと、そういう条件の土地なのだった」。

これと対照的に、ユーラシア大陸の東端と西端に位置する第一地域は実に恵まれた地域であった。「中央アジア的暴力」はそこまでは容易に届くことはなかったからである。

「つまり第一地域というところは、まんまと第二地域からの攻撃と破壊をまぬかれた温室みたいなところだ。その社会は、そのなかの箱入りだ。条件のよいところで、ぬくぬくそだって、何回か脱皮をして、今日にいたった、というのがわたしのかんがえである」。 この見方を「文明の生態史観」というのは、生態学の用語法で文明史を観察し記述したということである。「遷移」と訳されるサクセッションは、ある特定の場所に生まれた植物群落が長期間をかけて、その場所の気候条件などに適応しつつ、次第に別の群落に変化していくことを指す。新しい群落としてこれが定着した状態が「極相」(クライマックス)である。

すなわち「第一地域というのはちゃんとサクセッションが順序よく進行した地域である。そういうところでは、歴史は、主として、共同体の内部からの力による展開として理解することができる。いわゆるオートジェニック(自成的)なサクセッションである。それに対して、第二地域では、歴史はむしろ共同体外部からの力によってうごかされることがおおい。サクセッションといえば、それはアロジェニック(他成的)なサクセッションである」。

ところで問題は現代である。中国の発展にみられるように、現代は第二地域の勃興期である。経済発展の速度は第一地域より第二地域の方が速い。しかし、梅棹氏はここで次のように喝破する。

「生活水準があがっても、国はなくならない。それぞれの共同体は、共同体として発展してゆくのであって共同体を解消するわけではない。第二地域は、もともと、巨大な帝国とその衛星国という構成をもった地域である。帝国はつぶれたけれど、その帝国をささえていた共同体は、全部健在である。内部が充実してきた場合、それらの共同体がそれぞれ自己拡張運動をおこさないとは、だれがいえるであろうか」。

どうやら現代そのものを考える視点がここで与えられたように思う。少なくとも日本の近代史を顧みれば、巨大なユーラシア大陸の中国、ロシアに始まり朝鮮半島を経て吹いてくる強い気圧の等圧線からいかにして身を守るか、これが最大のテーマでありつづけた。古代における白村江の戦いも、元寇も、秀吉の朝鮮出兵もそのことを証す歴史的素材であるかも知れないが、そう断じる知識は私にはない。しかし、それらはいずれも対馬海峡の荒い海流に遮られて「温室」のような条件の日本に生じた、ある種の偶発的な出来事であったように思われる。「中央アジア的暴力」が日本の中心部を脅かして、日本の変化を誘ったという証拠はない。

日本が「中央アジア的暴力」と本格的に対峙させられるようになったのは、19世紀の末葉以降のことである。「中央アジア的暴力」は必ず朝鮮半島を通じて日本に及ぶというのが、極東アジアの地政学的な構図である。実際、さきにある種の偶発的な出来事であったかも知れないと記した、日本と大陸との「有事」のいずれもが朝鮮半島を舞台に展開されたものであった。維新後の幼弱な日本にとっての最大の焦点が朝鮮半島であった。大陸勢力と海洋勢力がせめぎ合う朝鮮半島の地政学上の位置は日本にとって宿命的であった。

清国の属領であった李氏朝鮮において農民暴動「東学党の乱」が起こるや、李朝は直ちに清国に援軍を要請、これを機に日本が出兵、日本が提出した日清共同による李朝内政改革草案を清国が拒否して日清戦争が勃発した。「定遠」「鎭遠」を擁する清国北洋艦隊に挑んで辛くも日本はこの戦争に勝利した。日本が手にしたものが遼東半島、台湾、澎湖島であった。清国の敗北は列強による中国大陸の「蚕食」を誘った。南下政策の手を緩めないロシアにとって極東アジアの戦略的要衝遼東半島の確保は至上の戦略であり、独仏を加えた強圧的な三国干渉によって日本は遼東半島の返還を余儀なくされた。

山東省で蜂起した漢人の排外主義武力集団が北京に迫り、清国に進出していた列強八カ国の連合軍がこれに対抗するという事件(義和団事件)を奇貨として、ロシアは満州に大量兵力を投入しここを占領し居座ってしまった。満州がロシアの手に落ちたという事実はすなわち朝鮮半島において日露が直接対峙することと同義であった。

ロシアの満州での権益拡大に強い嫌悪感を抱いたのがイギリスであり、ここに日英同盟が成立する。「7つの海」を支配するイギリスと同盟関係を結ぶことによって、日本は非白人国で唯一の帝国主義勢力として発展する条件を手にした。日英同盟によってフランス、ドイツなどを牽制しながら日本は当時世界最大の陸軍大国ロシアに挑戦し、これに勝利した。日清、日露の両戦役は朝鮮半島の地政学が日本にとって宿命的なものであることを心底から知らしめた歴史的戦争であった。

中国、ロシアというユーラシア大陸から張り出す高気圧に対抗して日清、日露両戦役を戦った日本は、その後、第1次世界大戦の勃発によりヨーロッパ勢力が後退した中国を、対支21カ条々約の強圧的な締結などを通じてみずからの勢力圏に組み込んだ。 しかし、この事実が同じく中国への勢力拡大を急ぐ「後発国」アメリカの対日関係を悪化させ、1922年のワシントン海軍軍縮条約の締結と同時に日英同盟の廃棄をも余儀なくされた。日本はアングロサクソン勢力の支持を失って、中国というユーラシア大陸の懐の深い中心部で泥沼に足を捕られ、悲劇的な自滅への道を辿るより他なかった。

第2次世界大戦での敗北によってユーラシア大陸との断絶を強要された日本は、新たに日米同盟を結ぶことによって西側社会の一員として迎えられ、そうして穏やかな「戦後60年」を打ち過ごすことができた。

宮沢喜一内閣の時期のことである。アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置され、私も委員の一人に指名された。第1回の委員会のゲストスピーカーとして梅棹氏が出席された。「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことはない、というのが私の今日の話の結論です」と冒頭を切り出して、委員全員が呆気に取られるというシチュエーションを私は鮮烈に記憶している。

私どもは子供の頃から、真ん中にユーラシア大陸、左にヨーロッパとアフリカ、太平洋の向こうに南北アメリカ大陸が位置する四角の平面地図の図柄を頭の中に刷り込まれてきた。しかし平面図ではなく、球体の地球儀を北極の方から眺めると、一段と巨大な中国、ロシアというユーラシア大陸の中心部を、北米、日本、台湾、東南アジア、西ヨーロッパなどの周辺部が取り囲む、そういう図柄がみえてくる。

日本の近代はまさにこの図柄の中に凝集されているといえよう。日清、日露の両戦役は旧世界の中心部からの高気圧線に抗する戦いであり、この戦いに勝利して後に中心部中国に攻め入り、協調と同盟の関係を築くべき「海の勢力」イギリスとの関係を放擲し、もう一つの巨大な海の「島」アメリカとも対決して自滅した。

東アジア共同体に日本が加わって「陸の勢力」中国と連携し、日米の距離を遠くすることは、日本の近代史の失敗を繰り返すことにならないか。私が危惧するのはこのことである。北米、日本、台湾、東南アジアなどユーラシア大陸を取り囲む周辺国家群が「協働」し、ユーラシア大陸を牽制しながらみずからの生存と繁栄を図るという生き方が賢明な選択であることを、日本の近代史の成功と失敗は教えていると思うのである。