コラム「研究員のココロ」
成果主義人事 (1)
~その「本質的な意味」を探る旅~
2004年09月13日 三宅光頼
成果主義人事ってなんだろう?
このテーマはすでに使い古されている。ここでは「定義」ではなく、どういった「意味」を持たせるかを性格と運用の場面から考えてみたい。
(1)成果主義人事は人事制度の概念ではなく「処遇環境」の概念である
「環境」であるために、成果主義人事はいつも「風景のような定義」がなされる。そのため誰も成果主義人事の全体像を正しく把握することができないでいる。(注1)
環境とは、個人も組織も成果を出すことを絶対的な価値基準におき、そのために努力を惜しまないことを意味する。
自分と自分の所属する組織が会社に対して貢献すること。自分と自分の所属する組織が他の組織に対してどういった貢献ができるかを明らかにすること。組織で働く一人ひとりのイマジネーションをかりたてること。組織の将来とメンバーに明日が今日より必ずすばらしいものとなるビジョンを提供すること。明日の成果のために今日の努力を惜しまないよう動機付けること。今日の勤勉と忍耐は明日のための糧であることを説くこと。そして自らそれを実践すること。
メンバーの誰もがお互いに依存することなく、自立し、主体性をもって行動し、自ら考え、自ら決し、自らの成長を願い、明日につながる部下たちの礎となることを惜しまないこと。
これが成果主義のめざす処遇環境であり、成果主義のもつ意味である。
(2)報酬を受けとる者の覚悟とひたむきさ
成果主義人事に立つとき、報酬を受けとる者は「ある種の覚悟」が必要になる。
理念的には報酬は顧客から支払われる。現実的には報酬は、経営者(事業主)から受けとる。
しかし、正確には報酬はみずから生み出した付加価値から支払われるのであって、誰かが負担するのでも弱者から奪うものでも、ましてや経営者から恩恵的に拝受するものでもない。
付加価値を生み出すことができたものが、その貢献に応じて対価を受けるのである。
報酬は「顧客と株主」から正当な対価としてもらうのであって、弱者から奪うものではない。また、「次世代の順送り人事」の当然の果実として受けとるのではない。(注2)
報酬の前提となる付加価値はいつか必ず陳腐化・汎用化し、付加価値でなくなってしまう。
「 ある種の覚悟」がいるというのは、その付加価値のために常に自分と周囲の成長のために尽くすという「覚悟」である。自分自身を酸化させない「覚悟」と「ひたむきさ」が求められるのである。
(3)成果主義人事は貧富を拡大し、年功主義は無能を蒸着させる
初期の成果主義人事は、その運用ベースに年功主義を引きずったままであったために、マネジメントの未熟さと不徹底さを露呈させてしまった。(注3)
そのことから、成果主義人事自体が、人材を使い捨てし、金銭で奢侈性をあおるといった表層的な面だけを強調した処遇制度といったとらえられ方をされてしまった。
たとえ形式的に「揺り戻し」があったとしても、年功序列人事の処遇には戻れないのである。
その理由は四つある。
第一は、「年功の面」であり年功は企業の収益構造とまったく無関係に成立しているからである。収益に無関係に賃金を増加させる仕組みを構造的にもっている。
第二は、「序列」にある。成果と成長を問わない序列は「無能」を看過するばかりか、マネジメントできない無能者を組織の中に蒸着させてしまった。
実際、管理していない管理職はおろか、管理すらできない管理職が、時間外賃金の上昇をおさえるために管理職(もどき)になっているのである。専門職にいたっては、専門性が高いから専門職になるのではなく、多くの場合、管理すらできないために(専門性が低くてもやむを得ず)裁量労働扱いする必要から「専門職」という呼称だけ与えられている場合がある。
成果主義で問題となる評価も問題の一部はここにある。成果をいままで一度も問われたことのない管理者が評価をおこない、自分の保身のために管理職が部下の評価をゆがめていることが多い。このことは次の理由につながる。
第三は、「年功序列の環境」が、対外的な競争環境にないばかりか、社内的な競争環境においても、「擬似環境」であるがために、真の実力をもった人材(管理職)が育ちにくいか、時間がかかる。無競争決定の年功序列の中だけで育った人材には真の実力者が乏しい。
彼/彼女たちは多くは「仲間褒め」を行う。「彼は良くやっている」「彼女のおかげだ」といった仲間同士でお互いを褒めあって存在意義を確かめる。多くは本心からではなく、お互いの貸借関係(貸し借り)をつくることで将来の自分を援助する土壌を作っておくことが目的である。こうしたワザとらしい芝居を(不思議なことにお互いに納得し尽くした上で)演じなければならないところに年功主義のもつ相互依存関係の甘え構造の温床がある。
第四は成果主義人事が支持される最大最強の理由である。
すなわち、「すべての経営者は成果主義の中に生きている」という点である。(注4)
経営者が成果主義に生きている以上、成果主義人事がなくなることは決してない。
- (注1)
- 聖書コリント人への第一の手紙「愛は寛容であり、愛は情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(日本聖書協会訳)これは、愛の「情景」と「景色」であるが、「愛そのもの」ではない。成果主義人事も同じような「性格」を持つ。多くは成果主義を定義しきれていない。ただ情景を列挙しているだけである。
- (注2)
- 筆者が過去にみた報酬制度で一番滑稽だったのは「福祉給」というものだった。新制度に移行するとき、過去の年功的処遇から報酬が十分支払われていなかったものに対して、一定期間支給を継続しようというもの。賃金理論も現場感覚もなにもない、まさしく「既得権保護と理念先行」の制度構築の典型といえよう。
- (注3)
- 年功序列と年功主義は違う。成果主義は年功主義をうまく吸収している。成果を出し続ければ年功的になる。問題は序列のほうである。したがって単純な年功序列に成果さえ出せば序列で昇進昇格昇給できると思う点に誤りがある。
- (注4)
- 「すべての経営者」という使い方は問題があるかもしれない。中には「年功でサラリーマン的に経営者となっただけ」と(自嘲的に)いう人もいる。現実には年功だけで経営者になれるほど甘い会社はない。実力と実績と運があるのは確かであろう。しかし、サラリーマン経営者でもやはり成果主義の環境で生き残りをかけなければ淘汰されることも確かである。
※コラムは執筆者の個人的見解であり、日本総研の公式見解を示すものではありません。