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コラム「研究員のココロ」

なぜ今ソーシャル・キャピタルなのか-後編-
~その研究の変遷と今日的意義~

2003年12月01日 東一洋


3.「ソーシャル・キャピタル」の定義と要素

(1)定義
 「ソーシャル・キャピタル」の定義は実は様々である(図表4)。

図表4「ソーシャル・キャピタル」の定義

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 しかしながら概ね「信頼」「規範」「ネットワーク」という3つの要素からなり、さらにそれらから得られる「特徴」「能力」「資源」であると理解することができる。

(2)「ソーシャル・キャピタル」の類型
 「ソーシャル・キャピタル」はいくつかのタイプに分けて論じられることが多い。そしてこの多様性こそ「ソーシャル・キャピタル」に対する「質の議論」を必要とする背景となっている。

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 (資料)同前

 この中でも、「ソーシャル・キャピタル」の概念を理解する上で最も基本的な分類が、「結合型 briding」と「橋渡し型 bonding」というものである。「結合型」は組織の内部における人と人との同質的な結びつきで、内部で信頼や協力、結束を生むものである。これに対し、「橋渡し型」というのは、異なる組織間における異質な人や組織を結び付けるネットワークであるとされている。
 一般的には、結合型は社会の接着剤とも言うべき強いきずな、結束によって特徴づけられ、内部志向的であると考えられる。このため、この性格が強すぎると「閉鎖性」「排他性」につながる場合もあり得る。これに対して橋渡し型は、より弱くより薄いが、より「開放的」「横断的」であり、社会の潤滑油とも言うべき役割を果たすとみられている。

 冒頭の少年犯罪に対する専門家のコメントはまさしく「ソーシャル・キャピタル」の質に関する言及であったと理解できるのである。では冒頭の「少年犯罪の温床となりやすい閉鎖的なコミュニティ」とは何を意味するのであろうか。筆者の理解では恐らく人口流入の多い都市部よりも地方部に比較的多く見られる地域の性格ではないかと思う。閉鎖的で排他的な結合型ソーシャル・キャピタルの強い地域は、その一員としての義務や役割をきちんと果たすことのできる人間にとってはある種寛容ではあるが、ルールを逸脱した人間に対してはかなり厳しい。「村八分」というような言葉があるように、ほとんど「無視」の状態となる。ある教育学者によると子どもにとっていじめとは「身体的暴力」や「心理的暴力」であるがもっとも最悪なものは「無視」であるらしい。このような状況下におかれた青少年が犯罪へと暴走するのも仕方がないのかもしれない。

4.なぜ今「ソーシャル・キャピタル」なのか

 さて、「ソーシャル・キャピタル」に関する研究は現在世界的に急速な進展中の段階にあると言われる。筆者は次のような背景があると理解している。

(1)世界的な「信頼」再構築の必要性
 本年1月にスイスで開催された世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)のメインテーマが「信頼の構築」であった。この会議ではグローバルな貧富の格差の拡大、経済政策の手詰まり、また企業会計スキャンダル等で傷ついた信頼をいかにして回復するかが論じられた。またこの会議を前に同フォーラムが発表したアンケート調査結果(日米欧など47カ国36,000人超を対象)では、「国内の大企業」「議会」「グローバル企業」への信頼感の失墜と「軍隊」「NGO」「国連」への信頼感の高さが指摘されていた。
 このように、世界レベルで失われつつある「信頼」の回復こそがこれからの地球的な課題であるとの認識は、「信頼」を主たる要素とする「ソーシャル・キャピタル」研究の推進力となっている側面があるのではないかと考える。

(2)ポスト構造改革の精神的な拠りどころ
 わが国においても1980年代から「構造改革」の必要性が叫ばれはじめ、「規制緩和」「民営化」「行政改革」に現在も邁進している。基本的に構造改革とは、「小さな政府」を目指す改革であると同時に市場経済を最優先とする改革である。これを進めると、そこに「多様性」という一筋の光明と「強者と弱者の格差」から生まれる大きな暗闇すなわち「社会の不安定性」を生むことにつながる。ITや介護、環境などの分野でこの「多様性」をバネとした新たな息吹が生じることとなったが、「社会の不安定性」は「失業者の増大」や「犯罪率の増加」など国民生活に大きな影を落とし始めていることは明らかであろう。
 このように現在は、構造改革は進めなければならないが、その後のわが国の有り様について漫然とした不安感を感じ、国民的コンセンサスが得られない状況といえる。果たして「市場メカニズム第一主義」で良いのであろうかという問いかけが、経済学でいう「利己的人間」ではなく、本来の人間論(信頼を背景に多少自分にとって不利でも自発的な協調行動をとる)に立脚する「ソーシャル・キャピタル」論を、「ポスト構造改革論」の精神的な拠りどころとしての期待感を想起させるのではないかと筆者は考えている。

(3)NPO等非営利公益セクターへの期待
 昨年度の内閣府調査においては、全国レベルで郵送式とWEB上の2種のアンケート調査を実施し、わが国では初めてソーシャル・キャピタルに関する総合的な実証分析をおこなった。そこで市民活動やNPO活動とソーシャル・キャピタルとの関係が、下図にあるようなポジティブなフィードバック関係にあることが確認されている。
今後新たな公益を担うべき存在としての市民活動団体・NPO団体への期待が高まりつつある現在、その活動を活発化すると言われるソーシャル・キャピタルの存在に注目が集まるのも時代の潮流であると思われる。

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(資料)株式会社日本総合研究所 平成14年度内閣府委託調査、平成15年3月

(4)市民社会や民主主義に対する議論の高まり
 自治体における市民活動担当部署の職員の「市民が出来ることは市民が担い、効率的な財政を...」といった通常感覚は、実は経済的目的に依拠している。(ボランティア活動を含む市民活動・NPO活動への注目は、あながち阪神・淡路大震災(1995年)のせいばかりではなく、自治体の財政状況がそれに拍車をかけている側面を看過してはいけない。)
 それに対し市民活動・NPO側からは「我々は自治体の安上がりの下請け組織ではない」といった反論が生まれる。自治体側が経済的目的を振りかざす限り、この対立は平行線のままであろう。
 個人的な見解であるが、「政治的目的」をタブー視する自治体の市民活動政策は今後機能不全に陥るのではないかと心配している。勿論、法律上「特定非営利活動」は政治目的であってはならない。ならば政治目的とは何なのか。政治目的をさらに広義に解釈すれば、「民主主義の活性化」といった意味とならないか。自分達の住むまちを自らの手で良くしたいとする市民の活動のどこまでが政治目的でなく、どこからが政治目的となるのであろうか。もともとのパットナムのイタリア研究はまさしく「Making Democracy Work」なのであり、「Making Economy Work」ではない。
 地方主権の時代、地域の民主主義についてセクターを越えた議論が必要となっており、その活性化という大きな課題の前に、「ソーシャル・キャピタル」への期待が高まるのは当然なのかもしれない。ただし筆者が強調したいのが、民主主義の有り様についてである。日本で民主主義といえば「多数決」とほぼ同義的に使われることが多い。しかし本来的に民主主義とは、ある価値観や主張がむやみに絶対的多数となってしまわないよう、カウンターとなる主張が正当に評価され、そして討論の場が常に成立しうる仕組みのことなのではないだろうか。民主主義という概念の成熟や真の市民社会像の模索が、ソーシャル・キャピタル研究をより深化させることになるのであろう。

(5)ネットワーク時代の組織マネジメントの考え方として
 一方、1990年代からのインターネットなど情報通信技術の飛躍的な発展により、我々は経済、社会、文化ひいては個人のライフスタイルにまでに及ぶ構造的な変化を体験している。そのような中で企業は、見えにくい市場を相手にゼロサムの厳しい競争を繰り広げている状況であり、今一度自社の経営資源を見つめ直し、最適配置を行うというマネジメント手法が重要となっている。そこで注目されているのが人材を資源としてではなくキャピタル(資本)としてとらえた上で、総合的な観点から人的資本(ヒューマン・キャピタル)をマネジメントする手法である(資源は消費されてしまうが資本は適正な投資により配当が期待される)。さらにその資本たる人と人との関係(人間関係)こそ組織を効率的に動かす潤滑油であるとの認識が生まれ、アメリカの経営者を中心に「ソーシャル・キャピタル」の概念が使われ始めたのである。
 「ソーシャル・キャピタル」は、人間関係だけにとどまらず人と組織の関係、組織と組織の関係を良好に構築するための能力であり、創発的なネットワークとの相互関係を有することから、またさらに自社内だけでなく他社との戦略的なアライアンスやコラボレーション、コンソーシアムといった企業戦略が注目される中で、混迷の時代のビジネスに打ち勝つために不可欠であるとの認識が広まりつつあるのであろう。

5.まとめ

 これまで整理したように、「ソーシャル・キャピタル」に対する期待の高まりの背景には、様々な今日的状況があると思われる。いずれにせよ「ソーシャル・キャピタル」を社会に蓄積していくことによって我々の地域や国や世界が良い方向に動き出すのではないか、という大きな期待が寄せされているのは間違いのないところであろう。
 その社会的成果は現在の我々の直面する様々な領域、さらにミクロからマクロまでの問題の解決の可能性を有しており、逆にそのことが「ソーシャル・キャピタル」を捉えどころのないものとの印象を与えている側面があることは否めない。さらに、「ソーシャル・キャピタル」を蓄積していくための画期的な方策があるのか、と問われれば「ない」と答えざるを得ない。現在の研究状況もどちらかと言えばその「概念」や「測定方法」に重心が置かれており、政策的研究は緒についたばかりである。
 わが国においても学際的な議論の深化と地域における市民活動等の実践、そしてイギリスのような省庁横断的な政策研究などが進むことを大いに期待している。

○本稿は『ESP 2003年9月号』(社団法人経済企画協会 編集発行、内閣府 編集協力)における拙稿「ソーシャル・キャピタルとは何か」に加筆修正したものです。

(主たる参考文献)
稲葉陽二・松山健士編(2002)『日本経済と信頼の経済学』東洋経済新報社
神野直彦 『人間回復の経済学』岩波新書(2002)
株式会社日本総合研究所 平成14年度内閣府委託調査「ソーシャル・キャピタル;豊かな人間関係と市民活動の好循環を求めて」平成15年3月
国際協力事業団国際協力総合研修所(JICA)(2002)『ソーシャル・キャピタルと国際協力:持続する成果を目指して[総集編]』
宮川公男「ソーシャル・キャピタル研究序説」ECO-FORUM Vol.21 統計研究会 2002年10月号
大阪大学OSIPP NPO研究情報センター ソーシャル・キャピタル研究会
大守 隆「ソーシャル・キャピタル研究序説」ECO-FORUM Vol.21 統計研究会 2002年10月号
Putnam, Robert D. (with Robert Leonardi and Raffaella Y. Nanetti) (1993) Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy, Princeton, NJ: Princeton University Press. [河田潤一訳『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』NTT出版、2001年].
Putnam, Robert D. (2000) Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community, New York: Simon and Schuster.
坂本治也 (2002)「社会資本論の射程とその思想的背景:ロバート・パットナムの議論を中心に」大阪大学大学院法学研究科 修士論文
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